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第29話 裏取引

「怪我なんてしてる暇はないヨ。早速だけど、ビジネスの話をしようじゃないカ」

「ビジネス?」

「そうヨ。このスーツケースの中身、何だと思う? 爆買いツアーの帰りだったワタシの戦利品……『大量の高級化粧品』、『抗生物質を含む常備薬』、そして『日本の高機能下着』が一年分、ギッシリ詰まってるアルよ」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲で聞き耳を立てていた女性たちから「ヒッ……!」と息を呑む音が漏れた。それは、今のこの街においては金塊数十キロにも等しい、とんでもない財宝だった。


「これらをすべて、街の重要資源としてアナタに提供してあげるヨ。もちろん、タダとは言わないアル」

「お、おう……めちゃくちゃ助かるっすけど、何が望みなんすか? ポイントなら……」


 蓮の言葉を遮り、鈴花はグイッと顔を近づけ、蓮のジャージの胸ぐらを掴んだ。その瞳には、したたかな商人の光が宿っている。


「ポイントなんていう不確かな数字は要らないヨ。ワタシが欲しいのは『確実な安全』と『特権』アル。この莫大な資産と引き換えに……アナタに一番近い、絶対に恐竜に食われない安全な部屋をワタシに寄越すヨロシ。もちろん、夜の接待もセットアル」


 強引なウインクとともに繰り出された、ストレートすぎる要求。十万人の頂点に立つ唯一の男相手に、召喚されて数分の新入生が対等以上の強気な交渉を持ちかけてきたのだ。


「ちょっ、近いっす! 部屋は用意するっすけど、夜の接待って……!」

「交渉成立ヨ! これからよろしくね、ワタシの優秀なボーイ君」


 鈴花は蓮の胸にポンと手を当てると、勝利を確信したように高笑いを上げた。


 +++


「あらあら、随分と強引なお客さんが来たものね」


 鈴花が案内されて去った後、呆気にとられる蓮の背後から、甘い香水――もちろん現代遺産のものだ――の香りが漂ってきた。

 文明遺産管理部長のソフィア・チェンである。彼女は周囲に他の派閥の目がないことを確認すると、妖艶な足取りで蓮に近づき、その豊かな胸を彼の腕にそっと押し当てた。


「あの中国人の娘、なかなか見どころがあるわ。でも蓮、あんな新入りにうつつを抜かしてはダメよ? あなたには、私がついているんだから」

「ソフィアさん……また香水つけたっすか? すごくいい匂いっすけど、あんまり近寄られると……」


 蓮が少し身を引こうとすると、ソフィアはクスッと笑い、自分の衣服の胸元から小さな包みを取り出した。


「ふふっ。今日は、毎日頑張っている私たちの王様のために、とっておきのプレゼントを持ってきたの」


 彼女が包みを解くと、中から現れたのは、茶色い粉末だった。


「これ……もしかして」

「そう。新入りから没収……いえ、管理下においた『インスタントコーヒー』よ。お湯なら、あなたの魔法ですぐに沸かせるでしょう?」


 ソフィアは蠱惑的こわくてきな流し目を送りながら、コーヒーの粉末を蓮の手のひらに乗せた。

 嗜好品が完全に枯渇しているこの世界で、コーヒーの香りとカフェインは、疲労困憊の蓮にとって何よりも抗いがたい麻薬だった。


「マジっすか! これ、ずっと飲みたかったんすよ! ソフィアさん、本当にいいんすか!?」

「ええ、もちろん。街のルールでは『個人的な接触や貢ぎ物』は禁止されているけれど……管理部長である私の権限で、ちょっとした『品質チェック』ということにすれば問題ないわ」


 蓮が嬉々として空間牽引と劫火の種火(プロメテウス)の魔法で石のカップにお湯を沸かし、コーヒーを淹れる。立ち上る芳醇な香りに、彼は心底幸せそうなため息をついた。

 その隙を見逃さず、ソフィアは蓮の耳元に唇を寄せた。


「美味しい? よかったわ。……ねえ、蓮。私、これからもあなたの好みの品をこっそり融通してあげる。だから……夜の『ポイントくじ引き』の時、少しだけ私の名前の札が引きやすくなるように、特別待遇をしてくれないかしら?」

「えっ!? そ、それはちょっと無理じゃないかな~」


 高級品を用いた、あからさまな誘惑と裏取引。

 街が十万人に膨れ上がり、物理的に豊かになるにつれ、女たちの欲望はより巧妙に、よりドロドロとした権力闘争へと姿を変えつつあった。

 コーヒーを美味しそうに啜る超絶お人好しの王は、「いやあ、美味いっすねぇ」と誤魔化しながらも、底知れない女たちのしたたかさに、内心で冷や汗を流すのだった。

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