第25話 新たな火種
経過日数:60日目 約86,400人
巨大な石の城壁に囲まれた円形都市の一角、急造された診療所の中に、静かな、しかし確かな衝撃が走っていた。
「……間違いないわ。ナナちゃん、あなた……妊娠しているわよ」
救急救命医であるエマ・ウィリアムズが、少し震える声で告げた。現代の精密な検査キットこそないものの、基礎体温の推移や身体の明確な変化、そして医師としての経験が、一つの確固たる事実を導き出していた。
「あ……」
診察台の上に座っていた十九歳の美大生、襟島ナナは、自分の平らな下腹部にそっと両手を当てた。大きな瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私のお腹に……蓮さんの、赤ちゃんが……っ」
「マジっすか……」
隣で付き添っていた羽豪千蓮も、目を丸くして固まっていた。三十年間の過酷な異世界サバイバルを生き抜いた大魔法使いにとっても、自分の血を分けた「新しい命」の誕生は、魔法以上の奇跡だった。
「ナナちゃん……ありがとうっす。俺、絶対に君とこの子を守るっすよ」
「蓮さん……っ! 嬉しい、私、すっごく嬉しい……!」
蓮が優しく抱き寄せると、ナナは彼のジャージの胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。それは、絶望の恐竜時代に初めて灯った、紛れもない「希望」の光だった。
しかし――その希望の光は、八万六千人という異常な数に膨れ上がった女性たちにとっては、あまりにも強すぎる劇薬でもあった。
『最初の召喚女性であるナナが、蓮の子を身籠った』
そのニュースは、診療所の外にいた女性たちの口を伝い、瞬く間に巨大都市の隅々まで駆け巡った。
街の反応は、凄まじい熱狂と、それを遥かに凌駕する歓喜の渦だった。
「嘘でしょ!? この何もない恐竜時代で、本当に子供が産めるの!?」
「私たちも命を繋げるんだ……! 人類は滅びないわ!」
そんな歓喜の声が上がる一方で、街のあちこちからはギリギリと歯ぎしりをするような怨嗟の声が漏れ始めていた。
「……なんで。なんで、あの子なのよ」
「私だって、あんな小娘よりずっと蓮さんに尽くしてきたのに……!」
「私の方が絶対に蓮さんの優秀な遺伝子を残せるわ! 今日こそ蓮さんの部屋に押し入ってやる!」
圧倒的な女性過多の世界で、唯一の大人の男である蓮。彼の子を宿すということは、単なる種の保存を超え、この異常な社会における「絶対的な勝利」と「最強の特権」を意味していた。
元心理カウンセラーの雨宮結衣が率いる『ファンクラブ』の過激派は「ナナ様は聖母だ!」と彼女を神格化して周囲を威嚇し始め、立花凛率いる『サバイバル派』や北条綾乃の『保守派』も、自分たちの派閥から次の妊娠者を出すべく、血走った目で蓮へのアピール作戦を練り始めた。
もちろん、数万人の女性全員が彼の子を望んで狂奔したわけではない。
「私は元の世界に帰る方法を探す方が先よ」「私たちは今のパートナー(同性)との生活で十分幸せだから」と、冷静に独自のコミュニティや絆を築いている者たちも大勢いた。
しかし、街の中枢インフラを握る三大派閥のトップたちが『彼の子=次世代の絶対的な権力と特権』として色めき立ち、過激なアピール合戦を始めたことで、街全体の空気感があたかも発情したかのような異様な熱狂に包まれてしまったのだ。
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事態を重く見た内政・資源管理局長の如月冴子は、即座に広場に数万人の女性を集め、緊急集会を開いた。
「静粛に!!」
トランペットのような不思議な形をした拡声器代わりの巨大建造物を通した冴子の声が、ざわめく広場を切り裂いた。壇上に立つ冴子の眼鏡の奥の瞳は、これまでにないほど冷徹な光を放っていた。
「現在の街の状況は異常です。桜豪千蓮への無秩序な接触や、派閥間の暴力を伴う牽制は、街の生産性を著しく低下させています。よって内政局は、街への貢献度に基づいた『子を授かる権利』のより厳格なルールを制定します!」
冴子は手元の木簡を高く掲げた。
「今後、蓮との夜の営み、および人工授精の権利は、労働や防衛で国にさらに貢献し、規定のポイントを満たした者にのみ順番に与えられます! 抜け駆けや、ポイントを持たない者の接触は犯罪とみなし、厳罰に処します!」
その宣言が響き渡った瞬間、広場から凄まじい大ブーイングが巻き起こった。




