第20話 夜の矛盾
頼子の分離独立演説が不発に終わり、広場に気まずい空気が漂い始めたその時だった。
「ほらほら、道を開けて! 可愛い子ちゃんのお通りだよー!」
場違いなほどに明るく野性味あふれる声とともに、畜産・恐竜飼育主任の滝川樹利亜が広場に姿を現した。彼女の後ろには、ダチョウのような姿をした小型の草食恐竜、オルニトミムスの雛たちが十数頭、ピヨピヨと愛くるしい鳴き声を上げながら行列を作ってついてきている。
「ひっ!? きょ、恐竜!」
「危ないわ、こっちに来ないで!」
女性たちが悲鳴を上げて後ずさるが、樹利亜はケラケラと笑って雛の一頭を抱き上げた。
「大丈夫だって! この子たちは卵を孵した私を親と認識するよう刷り込み済みで、しっかり躾けた、安全な家畜……ううん、この街の新しいペットだよ。ほら、全然噛まないから触ってみなよ!」
樹利亜に促され、おずおずと一人の女性が手を伸ばす。雛は逃げるどころか、自分から女性の手に頭をすり寄せて甘えた声を出した。
「……あ、あったかい。それに、すっごく柔らかい……」
「嘘、可愛い……! 私にも触らせて!」
現代の犬や猫のような愛くるしい仕草に、周囲の女性たちの警戒心はあっという間に溶け去った。派閥争いでギスギスしていた空気はどこへやら、ファンクラブの女性もサバイバル派の女性も、一緒になって恐竜の雛を撫で、笑顔をこぼし始めたのだ。
無垢な小さな命の温もりが、殺伐としていた四万人の女の園に、一時的ながらも確かな癒やしと平和をもたらした瞬間だった。
そんな心温まる光景を少し離れた場所から微笑ましく眺めていた蓮の背中に、ドンッ!と勢いよくぶつかってくる影があった。
「やっぱり蓮は最高だね!」
樹利亜だった。彼女は野生動物のようにしなやかな体を蓮の背中にぴったりと密着させると、彼の首筋に鼻を押し当て、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。
「ちょっ、樹利亜さん!? くすぐったいっす!」
「ん〜っ、蓮からは、強くて優しい『群れのボス』のフェロモンがプンプンするよ! ねえ蓮、ボスの優秀な遺伝子、私にも残してよ!」
樹利亜は本能の赴くままに蓮の背中に回り込み、まるで懐いた大型犬のように両腕で彼の首にギュッと抱きついて体重を預けてくる。その動物的でストレートな愛情表現に、蓮はすっかりタジタジになっていた。
その様子を、先ほど演説に失敗した九条頼子と、保守派リーダーの北条綾乃が冷ややかな目で見つめていた。
「……信じられません。理性の欠片もない、まるで発情した動物のようですね」
「ええ。あんな恥知らずな真似をしてまで男に媚びるなんて、正気の沙汰とは思えませんわ」
頼子と綾乃は顔を見合わせ、深くため息をついた。
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その日の深夜。
三階建ての団地の一室にある蓮の寝室。防壁の外から、夜の静寂を切り裂くような肉食恐竜の恐ろしい遠吠えが響き渡った。
「ひっ……!!」
バンッ!と蓮の部屋の扉が勢いよく開き、一人の女性が涙目で飛び込んできた。
昼間、広場で「蓮への依存を断ち切れ」と高らかに叫んでいた九条頼子である。彼女は着物を乱すのも構わず、一直線に蓮のベッドに潜り込むと、ガタガタと震えながら彼の腕にしがみついた。
「よ、頼子さん!? 完全自活で独立するんじゃなかったんすか!?」
「こ、これは違います! 私はただ、この街で最も構造的に強固なあなたの部屋へ、一時的な避難措置を取っただけです! け、決してあなたに依存しているわけでは……ひゃああっ!」
再び外で遠吠えが響くと、頼子は悲鳴を上げて蓮の胸に顔を埋めた。インテリ教授の威厳は完全に崩壊している。
そこへ、「失礼します」と凛とした声とともに、もう一人の訪問者が現れた。
保守派リーダーの北条綾乃だ。彼女の腕には、綺麗に洗濯され、完璧に畳まれた蓮の衣服が抱えられている。
「全く……あなたという人は、あれほど魔法の出力には気をつけるように言ったのに、また服を泥だらけに破いて……」
綾乃はぶつぶつと文句を言いながら、手際よく服を棚にしまい、現代から持ち込んだ裁縫セットを取り出して、蓮が昼間破いたジャージの裾をチクチクと縫い始めた。
「ありがとうっす、綾乃さん。いつも文句言いながらも、俺の世話を完璧に焼いてくれて」
「勘違いしないでください! 私はあなたが憎いんです! でも、街のインフラであるあなたが不潔にしていては、公衆衛生に悪影響が出るから仕方なく……!」
「分かってるっすよ。綾乃さんの真っ当な批判のおかげで、俺も独裁者にならずに済んでるっす。綾乃さんは、この街の『健全性のバロメーター』っすからね」
蓮が優しく微笑みかけると、綾乃はピタッと手を止め、顔を真っ赤にして俯いた。
「ば、バロメーターって……あなた、自分が何を言っているのか分かっているんですか……っ」
震える声で呟く綾乃。さらに、蓮の腕の中で震えていた頼子も、その温かさと圧倒的な安心感に、次第に恐怖とは別の熱を帯びた瞳で蓮を見上げ始めていた。
「蓮……あなたという前時代の怪物は……本当に、恐ろしい人……」
「ええ……私たちの理性を、こうも簡単に狂わせるなんて……」
気がつけば、インテリな元大学教授と、知的な元人権派弁護士の二人が、熱に浮かされたような瞳で蓮の両脇にすり寄っていた。
昼間の建前も、イデオロギーの対立も、夜の闇と絶対的な男の包容力の前では無意味だった。
蓮は小さく息を吐くと、いつものようにお人好しな笑みを浮かべた。
「……話し合いも大切っすけど、体での語り合いもしてみるっすか?」
蓮の力強い両腕が、綾乃と頼子の二人を同時に抱き寄せた。
「あっ……」「んっ……」
二人の口から、抗えない甘い吐息が漏れる。蓮の極限突破で鍛え抜かれた肉体は、相反する思想を持つ二人の女性の、張り詰めていたストレスと欲望を容赦なく暴き出し、深く、激しく満たしていった。
保守派のリーダーも、急進的な論客も、ベッドの上ではただの一人の女として、一晩中、蓮という強烈な快楽と安心感に溺れ、何度も声を枯らして燃え上がったのだった。
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翌朝。
朝日が差し込むベッドの上。シーツにくるまり、火照った体を休めていた綾乃と頼子は、乱れた髪と眼鏡を整えながら、ツンとすました顔で宣言した。
「蓮! 一つだけ言っておきます! 性欲とイデオロギーは全くの別物です! 生物学的なストレス緩和のためにあなたを利用したからといって、あなたの家父長制を認めたわけではありませんからね!」
「その通りです! 私たちをこんな理不尽な世界に巻き込んだ罪は消えません! 私はこれからも、保守派のリーダーとしてあなたを断罪し続けますからね!」
昨晩あれほど激しく求め合っておきながら、見事なまでの手のひら返しである。彼女たちのあまりにも矛盾に満ちた(そして最高に可愛らしい)そのツンデレっぷりに、蓮は思わず吹き出してしまった。
「はいはい、了解っす。今日も一日、俺への文句と厳しい指導、楽しみにしてるっすよ」
そう言って笑う蓮の両脇で、綾乃と頼子は顔を真っ赤にしながら、「もうっ!」「だから勘違いしないでと言っているでしょう!」と、嬉しそうに文句を言い続けるのだった。
四万人の女の園は、今日も歪で、ドロドロで、しかし確かな温もりとともに回っていく。




