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第19話 イデオロギーの対立

 経過日数:30日目 約43,200人


 巨大な針葉樹の森を切り拓いて作られた防壁の内側は、召喚開始から一ヶ月が経過し、劇的な進化を遂げていた。

 かつてはただの平屋の土の長屋が並んでいた居住区は、桜豪千さくらごうちれんの土木魔法と、熊谷くまがいカンナ率いる技術・インフラ局の徹底した区画整理により、見事な「三階建ての団地スタイル」へと姿を変えていた。限られた敷地面積で四万人以上を収容するための、上に伸びる立体交差の街並みである。

 生活インフラも急速に整いつつあった。街の各所に巨大な共同トイレと水浴び場が増設され、かつてのような長蛇の列や待ち時間は完全に解消されていた。

 食事に関しても、立花たちばなりん率いる防衛・狩猟局が安定して恐竜肉を供給し、佐藤さとう小春こはるの巨大農園で魔法によって促成栽培された野菜が収穫されるようになったことで、朝と夕方の「一日二回」の配給が完全に定着していた。

 極限のサバイバルを脱し、清潔な体と満たされた胃袋を手に入れたことで、女性たちの心には少しずつ余裕が生まれ始めていた。夕暮れ時の広場では、過酷な状況下で互いに支え合った結果、深い絆で結ばれた女性同士のカップルが手をつないで散歩する光景も珍しくなくなっていた。


 しかし、生存の危機が去ったことで、人間社会は必然的に次の段階――「イデオロギーの対立」へと向かうことになる。


「ちょっと! 今日の配給のトマト、私たち防衛局の分が少なくない!? 命懸けで肉を獲ってきてるのはこっちなんだけど!」

「はあ? 私たちは毎日、れんさんの身の回りのお世話をして、街の精神的支柱を守ってるんです! ファンクラブの優先枠があって当然でしょう!?」


 夕方の配給所。果実と野菜の入った木箱を挟んで、二人の女性が激しい口論を繰り広げていた。

 一人は、「自立・サバイバル派」に属する狩猟部隊の女性。もう一人は、蓮を神格化する蓮至上主義、通称「ファンクラブ」に属する女性だった。

 街の人口が四万人を超えた今、女性たちの間には明確な三つの派閥が形成されていた。

 雨宮あまみや結衣ゆいが裏で扇動する最大勢力『ファンクラブ』。

 立花凛を筆頭に、蓮に依存せず対等であろうとする『自立・サバイバル派』。

 そして、北条ほうじょう綾乃あやのをリーダーとし、「こんな世界にいるのはそもそも蓮のせいだ」と不満をくすぶらせる『保守・敵対的共存派』である。


「はいはい、そこまで! 配給のポイントルールに不満があるなら、内政局に正式な抗議文を提出しなさい!」


 ギスギスした空気の中、如月きさらぎ冴子さえこの部下である内政局の女性たちが割って入り、手際よく二人を引き離した。

 明日の命も知れなかった頃の無条件の団結は薄れ、誰もが自分の派閥の権利と、絶対的な権力者である「蓮からの寵愛ちょうあい」を巡って、水面下で激しい牽制けんせいを繰り返すようになっていたのだ。


 +++


 そんな殺伐とした空気が漂う広場の中央で、突如として凛々しい声が響き渡った。


「皆さん、聞いてください! 私たちは今、極めて異常で、危険な洗脳状態に置かれています!」


 声の主は、数日前に召喚されたばかりの女性、九条くじょう頼子よりこだった。

 元大学教授であり、女性学や社会学を専門としていた彼女は、インテリジェンスを感じさせる眼鏡をかけ、現代から持ち込んだ着物を毅然と着こなしていた。

 彼女は広場の中央に置かれた空の木箱の上に立ち、集まってきた数千人の女性たちに向かって熱弁を振るい始めた。


「この街の構造を見てください! たった一人の男性がすべてのインフラを握り、生殺与奪せいさつよだつの権を独占している。これは明らかな、前時代の家父長制の怪物です! 彼がどれほど『優しい』顔をしていようとも、彼に依存しなければ生きていけないこの状況そのものが、私たち女性に対する無意識の構造的暴力なのです!」


 頼子の学術的で響きのある言葉は、現状に不満を抱いていた保守派の女性たちの心に強く刺さった。


「そうだ! 私たちだって、元の世界じゃ立派に働いていたのに!」

「男一人の機嫌を窺って生きるなんてまっぴらだわ!」


 同調する声が上がり、広場の熱気が急速に高まっていく。頼子は眼鏡をくいっと押し上げ、さらに声を張り上げた。


「私たちは彼への依存を断ち切るべきです! 彼が魔法で作るお湯や壁に甘えるのはやめましょう。私たちの手で、女性だけの完全自活コミュニティとして、この街から分離独立すべきです!」


「独立!」「自立!」というシュプレヒコールが巻き起こりそうになった、まさにその時だった。


「……分離独立、素晴らしい理想ですね。でも、本当にできるのかしら?」


 熱狂の輪の一番外側から、聖母のような優しい微笑みを浮かべた雨宮結衣が、ぽつりと呟いた。

 その声は決して大きくなかったが、結衣があらかじめ群衆の中に配置していた「サクラ」の女性たちが、その言葉を合図に一斉に動き出した。

 彼女たちは、頼子の演説に熱狂する女性たちの耳元で、わざと不安げな声を漏らし始めたのだ。


「でもさ……独立したら、あの温かいお湯のお風呂、もう入れなくなるよね……」

「水洗トイレだって、蓮さんの魔法のおかげなのに。自分たちで汚物処理するの?」

「それに、恐竜に噛まれて大怪我しても、もう魔法で治してもらえないんだよ……? 死んじゃうよ……」


 そのボソボソとした囁きは、まるで伝染病のように群衆の中に広がっていった。

 イデオロギーの熱狂に酔っていた女性たちの顔から、サァッと血の気が引いていく。

 「魔法の恩恵」という絶対的なインフラの喪失。それは、風呂に入り、美味しいものを食べ、安全に眠るという、この一ヶ月で彼女たちが再び手に入れた「人間らしい生活」をすべて手放すことを意味していた。


「あ、あの……やっぱり、独立はちょっと……急すぎるかも……」

「そ、そうね。お風呂に入れないのは、病気になっちゃうし……」


 先ほどまでの熱気は嘘のように冷え込み、頼子に賛同していた女性たちは、気まずそうに目を逸らして三々五々散り始めた。


「ちょ、ちょっとあなたたち! 目先の快適さに騙されて、誇りを捨てるのですか!? 待ちなさいよ!」


 木箱の上で一人取り残され、必死に呼びかける頼子。しかし、もはや誰も彼女の言葉に耳を貸そうとはしなかった。

 少し離れた場所からその様子を眺めていた結衣は、艶やかな唇の端を吊り上げ、満足げに微笑んだ。

 直接反論して敵を作るのではなく、現実的な恐怖を煽って内部から切り崩す。それこそが、元心理カウンセラーである結衣の恐るべき情報操作であり、四万人を束ねるための洗練された統治術であった。

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