第15話 カウントダウン
三日後の夜、防壁の広場はこれまでにない穏やかな空気に包まれていた。
天文学者の大塚香織が持ち込んだ巨大な天体望遠鏡による、夜の天体観測会が開催されたのだ。現代の娯楽を失い、先の見えないサバイバルに疲弊していた女性たちにとって、美しい古代の星空を覗き込む体験は「ロマンチックな夜の娯楽」として大好評を博していた。
「わぁ……綺麗! あの時の日本じゃ絶対にこんな星空、見られないよ!」
「蓮さん、蓮さんも一緒に見ましょう! ほら、あっちの星!」
望遠鏡の列の脇で、最初に召喚された美大生の襟島ナナが、蓮の右腕に抱きついてはしゃいでいる。その純真な笑顔に蓮が目を細めていると、すかさず左側からふわりと甘い香水が漂ってきた。
「あらあら、ナナちゃん。蓮さんは一日中魔法を使ってお疲れなのよ? 星を見るなら、私によりかかってゆっくりしてくださいね」
元心理カウンセラーの雨宮結衣が、豊満な胸を蓮の左腕に密着させながら、聖母のような微笑みでナナを牽制した。
右からは無垢な執着、左からは大人の色香による包囲網。タジタジになる蓮の姿を、少し離れた望遠鏡の横から、香織が理知的な瞳で冷静に観察していた。
「……興味深いわね。群れにおける唯一のオスを巡る、メスたちの熾烈な生存競争と順位争い。理性の皮を被っていても、生物学的な本能には逆らえないというわけね」
「ハカセ、なんか怖いこと言ってないっすか?」
蓮が助けを求めるように声をかけると、香織は「いいえ、ただの観察結果よ」と眼鏡を押し上げてそっぽを向いた。
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やがて夜が更け、天体観測会が終わりを告げた。
街の女性たちが土の長屋で眠りについた静寂の中、香織は蓮だけを密かに防壁の隅へと呼び出した。
先ほどまでの冷静な天文学者の顔は消え、その表情には深い緊張と焦燥が張り付いている。
「蓮。パニックを避けるために他の女性たちには黙っていたけれど、あなたには真実を伝えておく義務があるわ」
香織は、召喚時にバッテリーが切れる寸前のスマートフォンで保存しておいた天体観測アプリのログと、今まで望遠鏡で観測した星々の配置図を蓮の前に広げた。
「この星空の配置と、地球の歳差運動を逆算した結果よ。私たちが飛ばされたこの時代は、白亜紀の末期……巨大隕石が地球に衝突し、恐竜が絶滅する『約十年前』であることが判明したわ」
その言葉に、蓮は息を呑んだ。
この世界に投げ出される直前。女神が言い放った「隕石に潰されて死んでおしまいなさい」という呪いの言葉が、明確なタイムリミットとして突きつけられた瞬間だった。
「直径十キロメートルを超える小惑星の衝突よ。そんなものが落ちてくれば、この街の防壁なんて紙切れ同然。熱線と衝撃波で一瞬にして蒸発し、地球上の全生命の七割が死滅するわ。……私たちは、終わりのカウントダウンが鳴り響く世界に閉じ込められたのよ」
香織の理知的な声が、微かに震えていた。どんなに知識があっても、迫り来る星の質量という絶対的な絶望を前にしては、一人の人間でしかない。
しかし、蓮の瞳には一切の絶望の色はなかった。彼はまっすぐに夜空を見上げ、力強く言い放った。
「十年あるんすね。なら、十分っす」
「……え?」
「俺は三十年かけて大魔王を倒した魔法使いっすよ。十年という長い時間があれば、その巨大隕石を宇宙の彼方で粉々に打ち砕く手立てを見つけてみせるっす。もちろん、この街の防衛やシェルター開発も同時進行でやるっすよ」
蓮は香織の肩にポンと手を置き、ニカッと笑った。
「それに、俺はみんなを元の現代に帰す方法だって、絶対に諦めないっす。女神が時空に開けた穴があるなら、それを逆算して辿る魔法陣だって構築できるはずっすから」
「あなた……狂っているわ。星を砕くなんて……」
「みんなが大好きってだけっすよ。俺は誰一人、見捨てないっす」
その揺るぎない自信と温かな掌の感触に、香織の中で張り詰めていた緊張の糸が、ふつりと切れた。
クールな美女の顔が崩れ、彼女は膝から崩れ落ちるように蓮の胸へとすがりついた。
「怖い……本当は、怖かったのよ……っ! 誰も知らない絶望を、一人で抱え込むなんて……!」
「大丈夫っすよ。これからは俺も、その絶望を一緒に背負うっすから」
蓮が優しく背中を撫でると、香織は涙で濡れた顔を上げ、熱を帯びた瞳で蓮を見つめた。
「蓮。私は理系の人間よ。不確定な未来の希望だけじゃなく、最悪の事態に備えた『保険』を残したいの」
「保険、っすか?」
「ええ。もし私たちが隕石を止められなかったとしても……この絶望の時代に、確かに私たちが生きた証を残したい。人類の遺伝子を保存するという名目で……私に、あなたの子を授けてちょうだい」
それは、極限状態における究極の愛の告白であり、真実を共有する二人だけの切実な契約だった。
蓮は黙って頷くと、指先を軽く弾いた。
空間牽引の魔法が森の奥から柔らかいシダ植物を大量に引き寄せ、ふかふかの臨時のベッドを作り上げる。
満天の星空の下、静かに肌を重ね合わせた二人……と、しっとりとしたロマンチックな空気になるかと思いきや。
「ちょっと蓮! 何をもたもたしているの!」
「えっ? いや、こういうのはムードとか、順序とかあるじゃないっすか」
シダ植物のベッドの上で、香織は焦れたように蓮のジャージの胸ぐらを掴んだ。先ほどまでの弱音を吐いていた姿はどこへやら、その顔には理系研究者特有の「未知の実験に対する異常な熱量」が浮かんでいる。
「悠長なこと言っている暇はないわ! 隕石が来る前に、人類の生存確率をコンマ一パーセントでも上げるのよ! さあ早く、私のアンドロメダにあなたのオリオンを突入させてちょうだい!」
眼鏡をクイッと押し上げながら、香織は天文学的下ネタを真顔で放った。
「オ、オリオン!? 規模がデカすぎないっすか!? っていうか星座と銀河が衝突したら宇宙崩壊するっすよ!」
「細かい物理法則は今は無視しなさい! これは新たな生命のビッグバンを起こすための、神聖かつ学術的な儀式なんだから!」
普段のクールで理知的な姿からは想像もつかないほどの積極性に、大魔王すら圧倒した魔法使いもタジタジである。
香織は蓮の服を勢いよく剥ぎ取ると、その無駄のない引き締まった筋肉に頬をすり寄せ、まるで新種の星雲を発見した天文学者のように目を輝かせた。
「ああ……なんて素晴らしい筋肉の起伏。これが異世界で鍛え抜かれた特異点なのね。私のブラックホールが、あなたの質量を強烈に求めているわ!」
「ハカセ、理系特有のテンションで変なこと言うのやめてもらっていいっすか!?」
「いいから早く! 私の軌道計算によれば、今夜が最も受胎確率が高い『大接近』の日なのよ! あなたの超新星爆発を、私の奥深くに観測させなさい!」
もはや学術用語なのかただの欲求なのか分からない香織の猛烈なアピールに、蓮はたまらず吹き出し、観念したように息を吐いた。
「……仕方ないっすね。ハカセの並々ならぬ探究心には負けるっす」
蓮が優しく、しかし確かな力強さで香織の細い腰を引き寄せる。すると彼女は「あっ……」と小さく声を漏らし、先ほどまでの勢いが嘘のように、急に乙女のような赤い顔をして視線を逸らした。
「……計算通りにはいかないものね。いざとなると、その……心拍数が上がりすぎて、頭がショートしそう……」
「大丈夫っすよ。物理学が通用しない魔法の世界を、とびきり優しく宇宙のさらなる神秘を教えてあげるっすから」
「……うん。お願い、蓮」
頭上では、白亜紀の澄み切った満天の星々が静かに瞬き、二人の間で巻き起こる小さくも情熱的な「ビッグバン」を優しく見守っていた。




