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八 一番大切なもの

1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。

 起きたときに違和感があった。布団、十二畳間。僕の住んでいるマンションとは比べものにならない程に広い。記憶はすぐに戻ってきて、僕は自分の実家に帰ってきているのを再認識した。

 すっかり忘れてしまっていた。五年前から、父に何と言われようとも近づかなかった生家だ。父が、自分の味方ではないと思っていたからだ。

 布団から出る。客間である十二畳間から短い廊下を経て、居間へ。父は既に起きていて、新聞を広げていた。僕が側に立つと気配で分かったのか新聞を下ろした。

「おお、起きたのか。来るなら来ると連絡してから来い。おまけに酔っぱらって来てからに。朝飯はどうする。胃には入りそうか。」

 父は、たまにかけてくる電話の声そのままに。その声から想像できる姿で、声を掛けてくる。

「作ってくれたんだ。食べるよ。食べる。おはよう。父さん。」

「挨拶がまだだったか。おはよう、伸也。」

 時刻はもう七時をまわっていた。僕は会社に電話をかけた。

「はい、そうです。階段から落ちて意識が…。いえ、大丈夫です。近所の人に頼みましたし。はい、明日からは出勤できます。お願いします。失礼します。」

 父は僕の電話に聞き耳を立てていたらしく、僕が携帯電話から顔を挙げると側に来ていた。

「勝手に危篤にして、どういうつもりだ。」

「世間体って奴だよ。」

「いつの間にそんな知恵が回るようになった。いつの間にか、大人になって来おったな。」

「あと五年したら四十だよ。」

「それもそうだな。さっ、冷めないうちに食べな。つまんない物しかないけどな。」

 朝食は質素なものだった。御飯、味噌汁、漬け物、煮物。一昨年、定年で退職してから、お袋のいない生活を父はこうして暮らしていたのだ。僕は寂しくそう思った。箸が茶碗に当たる微かな音だけが静かな朝食に色を添え、そして、それは十分もせず終わってしまった。父はお茶を入れ始めた。僕は聞いてみた。

「父さん。再婚っていう言い方が変ならさ、老後を一緒に暮らすような人とかいないの。」

 父は呆気にとられた顔をした。そしてあきれた笑いを僕に見せると言った。

「別にいやしないよ。」

「寂しかったりするときはあるだろう。」

 湯気を立てるヤカンの火を消し、父はヤカンの中のお湯で紅茶のポットをバウンドさせるような動きを見せた。そうしてから急須にお湯を入れ始めた。

「お前の母さんは頭のいい人で、いろんなことを父さんに教えてくれたからな。何やるにしても母さんの言葉が父さんに語りかけてくる。……だからといって、伸也。父さんが馬鹿だったっていうわけじゃないぞ。」

「わかっているよ。」

「人のことより、自分のことだろう。」

 僕は神妙に頷いた。そして言った。

「父さん。聞きたいことがあって来た。」父は湯飲みを二つ、食卓に置いた。

「なんだ。」

「久美子のことで。」

 父の顔は全く変わらなかった、世間話を続ける調子で言った。

「じゃあ、クーラーのある居間に行こう。これから暑くなってくるだろうからな。」


「結婚してから一ヵ月も経たないうちだったらしい。久美子ちゃんがお前の行動が変だと感じ始めたのは。」

「………。」

「『無理をしているな。』っていうのが最初だった。でもその時は、何に無理をしているかは分からなかったそうだ。多分会社でのストレスぐらいだと思っていて、でも、あるときふと自分の所為じゃないかって考えた。自分だけの所為じゃないってことは、彼女にも分かっていたのだが、自分がその最大の原因の一つであることもまた確かだったと言っていた。何だか心当たりはあるか。伸也。」

「………ないよ。別に。」

 酔いが覚めていたわけではなかった。しかし、脳髄が静まり返っているようだった。心当たりは、あった。僕は久美子と結婚したころ、とにかく疲れていた。それを久美子には隠せなかったらしい。遅い昇進が苦になっていた頃の甘い新婚生活は僕の中に矛盾を生み出していた。このままではいけないという焦りと、いつまでも久美子に流されていたい心地好さに。僕は不器用だった。そして、現実は確かなものではなかった。言えるはずがないと考えるのは当然じゃないのか。そっとしておいてくれと、話しかけないでくれと。そんなことを結婚したばかりの彼女に。

「そうか。じゃあ、お前にも分からないことを久美子ちゃんは感じたのかもしれないな。それでも、久美子ちゃんは見守っていたそうだ。言えるはずはないからな。言っても返ってくる答えは決まってだろうし。『私の所為で無理しているの。』ってな。……確か、五年前、お前の会社は社会的にも大変だったよな。」

「…………。」

「伸也は傷つきやすくて、神経質だって久美子ちゃん、言っていた。俺もそう思うよ。」

「久美子だってそうだよ。過去のことをなかなか忘れない奴だった。それじゃあいくらなんでも心がもたないと何度も言ったんだ。」「そうか。じゃあ、お互いにいつの間にか気を使っていたのだな。『気を使わなくて一緒にいてほっとする。』って言っていたのに。」

「…………。」

「久美子ちゃん。耐えられなくなったと言っていた。お前の無理に。それが見える事での怒りが自分をおかしくしてしまいそうだったと言っていた。何で私の話を聞こうとするのか、なんで会社の愚痴を楽しそうに言うのか。何でキスをせがむのか。全然お前らしくないのに。……もう駄目だ、彼女はそう考えたそうだよ。子供も生まれることになっていたけど、ますますお前が無理をすることはわかりきっていた。漠然とした。漠然としたものだけれど、お前がそれで幸せなら、その幸せはお前の犠牲が大きすぎると思った。…それが別れの原因だ。」

 僕は生唾を飲み込んだ。そんな馬鹿なと、久美子は僕を信じられなかったのかと。

「逃げたとも言っていた。お前のことを愛しすぎていたのかな。思い込みが激しい人だな。」

 違う、僕は感じた。久美子は感情が激しいときはあるが思い込みは激しくなかった。思い込みが激しかったのは、むしろ僕のほうだった。僕が久美子と結婚し、一緒に暮らすようになるのと前後して会社が社会的なダメージを負う大きなニュースに晒された。それは僕に大きなショックを与えた。このままこの世界に、会社にとどまるのかと。世間へのクリーンなイメージ定着は、単なる騙されやすい人々への摂取への布石だった。裏は果てしなく汚かった。お礼の拡大解釈は一つの高度な政治的戦略だった。見返りはそれに輪をかけた心理的駆け引きの賜物として在った。就職してからそれは徐々に僕を蝕んで行き、僕の中にあった高潔な人生観は崩れ、揺らいでいた。遅い昇進、それは僕の望んだことだった。会社がマスコミに挙げられた事実は僕が会社を辞める切掛けだった。しかし、僕に家庭が与えられた。僕は会社を辞める選択を放棄せざるを得なかった。そんなことをして暮らして行ける目途はなく、それが幼稚な選択であることも火を見るより明らかだった。しかし、諦め切れなかった。諦め切れなかったのだ。

 もう、それが、僕が僕である最後の砦だったのだ。それがなくなっては、僕は自分を変えることになる。僕は二十九にしてそれがもう苦痛だった。そして、その苦痛は……。

「別れて、実家で暮らして、子供を産んで、乳離れするまで育てて。そして、気が抜けてから考えたそうだ。これで良かったのかと。後戻りは出来なかったし、もうお前とは他人同士だったけど、お前のことを考えなかった日を数える方が難しいと言っていた。嫌いじゃないのだからそりゃそうなのだが。」

 僕には沢木の言葉に答える台詞は持ち合わせていなかった。

「あるとき、お前の親父さんから電話があったそうだ。その時吉田という人の話を聞いたと言っていた。悲しかった。そう言った。この子供はあなたの子なのに。そう思って恨む気にもなったと。でも当然だとも思ったそうだ。別々の人生を歩む決心ができて、結婚することが決まって、そして、お前の父親にその報告をしたそうだ。その時、お前がまだ一人でいることを知ったと言った。」

「………。」

「お前と和志君を会わせることに決めたのは、彼女と、お前の親父さんだ。彼女の結婚相手も、そりゃ、無関係じゃないだろうがね。」

「親父が、決めたのか。和志と会うことを。」

 僕は呟いた。

「それで電話は切れた。……でも、お前の親父さんはすごい人だな。」

 僕は険しい顔をしていたのだろう。沢木は慌てたように言った。

「伸也。そんなに険しい顔をするな。お前は俺が羨ましいと思うほどに愛されているよ。分からないなら確かめて来い。自分の親父に。それから覚えていてほしい。いや、思い出してくれと言ったほうが正しいのか。お前の話の中で、俺が一番……………」 


 父はクーラーの温度設定について僕に聞いてきた。

「伸也。お前は何度がいい。父さんは十八度が好きなのだが。」

「それでいいよ。」

「そうか……。茶、飲みなさい。お前は冷たいほうがよかったかな。」

 僕から話し始めなければならないことはわかっていた。しかし、それは出来なかった。感情が許さなかった。父が久美子と連絡を取り合っていたことを隠していた事が、僕が父より優位にあるように錯覚させていた。だが、父は何も感じていない風にテレビのスイッチを入れた。僕は口を開いた。

「何で、久美子と連絡を取り合っていたのを隠していたんですか。」

 父はテレビのスイッチを切った。

「和志を会わせるように言ったのも父さんだそうですね。」

 父はテレビのほうに向きながら言った。「和志君には会ったのか。そうか。」

「何でそんなことをしたんですか。何で僕に一言も言ってくれなかったんですか。」

「久美子さんは再婚なさるそうだな。」

 僕は怒りが込み上がるのを感じた。父は僕の問いかけに本気で答える気がなさそうだった。わざわざこんなところまで来ているのに、こんな仕打ちをするのか。しかし、ここで怒っては本当に元も子もなくなってしまうのは明白だった。僕は怒りを抑えた。辛うじて父の会話に合わせる。

「商社の人だそうだよ。」

「そうか、そりゃよかった。」

 父は本当に嬉しそうにそう言った。僕は話をはぐらかす父に憤りながら答えた。

「そうだね。」

「……本当にそう思っているのだろうな。」

 驚いた。ここ数年、そんなことを聞かれた事はなかった。個人主義が吹聴される現代で、他人に気持ちの確認を取るなどということは、あまりなされない。僕は目の前にいるのが自分の父親であることの意味を知った。

 母が、そう、母親がよく僕を叱るときにそう聞いたものだった。僕が答えることが出来ないでいると父親は続けて言った。

「自分勝手のままでいるぐらいなら、何もかも早く忘れろ。」

 僕の気持ちが解るはずがない。その精一杯の主張は口に登ることはなかった。言いたいことは全て封じられていた。僕は次の言葉を待った。父親は湯飲みのお茶を一口飲んで溜め息をついた。そして出てきた言葉は、思った以上に明るいものだった。

「伸也。母さんがよく言っていた言葉がある。お前は小さかったからもう忘れているかもしれんが。喜んでいたぞ。母さんはその時。父さんもそれから耳にタコができるぐらいにその台詞を聞かされて。どうしようかと思ったよ。」

 思い出を話すのが嬉しくて仕方がなさそうな口調だった。僕も父が母との思い出を話すのを聞くのは初めてで、勢い耳を澄ました。怒りは、消えていた。

「お前が幼稚園のときの話だ。雑誌かなにかに載っていた字の読み方を聞いてきたそうだ。その言葉、何だったと思う。『愛』なんだよ。伸也。『あい』。母さん嬉しそうだったなぁ。」

 僕はそのことは覚えていた。最近思い出したのだ。

『あい』はね、一番大切なものなの。

「母さんは人と人との絆を大切にしていてな。それがお前に通じたんだって、有頂天だった。」

 伸ちゃん、『あい』はね、一番大切なものなの。

 僕の中にあのときのことが思い出された。平仮名を一緒に言い合った。あのときが。

『言っちゃ駄目だよ。僕、幼稚園で一番最初に覚えたんだよ。』

『あら、そうなの。ママには教えてくれなかったじゃない。』

『ママ、聞かないんだもん。』

「愛は一番大切なものなのよってな。何いってんだって思っていたんだけどな、そのときは。でもこうして年を取ってみるとそれが一番大切なんだって気がしてるよ。母さんは正しかったってな。」

「父さんの感傷じゃないのかい。」

 僕の声は微かに震えていた。無性に懐かしく、そして会いたかった。もう会えない人だった。全てに答えを出してくれる人だった。僕に向かって微笑んでくれた微笑みが浮かんだ。僕は、僕は………。

「伸也。父さんはお前を育てるのにそんなに手は出さなかった。お前は母さんっ子だったし、母さんは出来た人だったからな。母さんにしてみたら父さんとお前、二人とも子供みたいなものだったりもしただろうと思う。でも父親としてな。言っておく。父さんはこの年にしてやっと母さんの言う『あい』について考え始めた男だ。でもな、自信を持て、伸也。お前は母さんの子だ。『あい』は一番大切なものだと言った母さんのな。父さんはもっと母さんと色んなことを話し合いたかった。」父の声が震え始めていた。

 僕は自分の愚かさを恥じた。

 すでに、答えは出ていたのだ。


 母親の霊前に線香をあげ、手を合わせた。父親に悲しい思いをさせてしまっていた。吉田君の言葉がやっと分かっていた。「奥さんも苦しんだ時期があったと思います。」と。会社という組織に入ってからしばらくして、僕は自分自身が無くなることに脅え始めていた。自信がなくなっていった。僕が僕自身である考えは社会との間に大きな溝だけを作り、相入れることはなかった。それなのに僕には沢木のように転々とすることも、斉藤のように上司に媚びることも、桜井のように与えられた空間で全力を出し切ることも出来なかったのだ。僕は逃げ出したかった。逃げ出そうとしていた。僕自身から、会社から。その時、久美子と結婚したのだ。恋愛と結婚は別もので、久美子と会っていた息抜きの時間は良き夫を演じる時間へと僕を駆り立てていった。僕自身で嘘だと解りながら、僕はこうすることが社会への適応だと無理やり自分を殺していたのだ。

 久美子がそれに気付かないはずがなかった。気付かないはずがないんだ。

 僕らはいつも互いを見つめ、好きといい、愛し合っていたのだから。

 この結果は一つの証だ。

 逃げたのは僕だ。流されたのが僕だ。僕自身が、久美子が愛した僕ではなくなってしまうことを選んだのだ。自信のなさのために、憶病であったために。自分自身に今を生きることに全力を投じることを命じなかったために。

 久美子が逃げたのは、僕からではない、久美子は、変わっていく僕を見て、悲しみ、怒り、不信、泥々(どろどろ)と渦巻く感情に驚き、子供を育てる心情ではなくなっていく久美子自身から逃げたのだ。

 久美子を変えてしまったのが、僕だ。何で、久美子は僕のことを分かっていなかったなどと考えたのか。離婚した後の事を何も考えていないなどと思い込んだのか。

 生まれてくる命に対して、自分の事しか考えていなかったのが、僕だ。子供は、父親と母親が作り出す、平和で温かい安心できる場所で育てるのではないのか。怒り、悲しみ、不信が渦巻く心境をもった親がどうやって子供を育てることが出来ると思った。自分勝手。その通りだった。生まれてくる命に対して、責任感がなかった。互いを見つめあったままで止まってしまい、生まれてくる命に注意を払っていない人間が、命と向き合えるのか。

 そんなのは、無理だ。

 一番大切なのは何か。それをわかっていたのが久美子だ。生まれてくる命に対して、誠実に生きようとしようとしていたのが彼女だ。愛していない事なんてなかった。彼女は、一番大切なものを見失いそうになるまで、僕の側にいて、ずっと苦しんでいた。そばでずっと苦しんでいてくれたのだ。その苦しみの結果が、別れだった。彼女が苦しんでいた中で、僕が彼女の中で育まれていた命に対して、大切なものを無くしたまま向き合う不幸を避けようとしたのだ。最後の選択を(うなが)したのが僕だ。僕が、原因だった。元凶だったのだ。

 甘えだった。

 優しさに、甘えることなど、問題にしていた時点で論外だった。

 一番大切なものを見失っていたのだから。

 僕は、母親の霊前から立ち上がった。居間では父が新聞を読みながら僕を待っていた。

「長かったな。母さんに何を話した。」

 僕は強張ってしまった顔が、ほころぶのが分かった。

「あやまった。」

「そうか。」

 父は頷くとまた新聞に戻った。

「今日はそろそろ帰るよ。」

「まだ昼前だぞ。出前も取ってしまった。昼飯ぐらい食っていけ。」

 父は驚いてそう言った。

 出前は寿司だった。二日続けて寿司を食べたのは生まれて初めてだった。帰り際、僕は言った。

「父さん、久美子の今住んでいる家の電話番号解るかな。携帯にかけてもって、不安でさ。」

「ちょっと待っていろ。」

 父はすぐに戻ってきてメモを僕の手に握らせた。

「今度はゆっくり来るよ。」

「楽しみにしとるよ。死んだ母さんと話していても面白くないからな。」

「そんなこと言っていいのかよ。」

「ロマンチストと言われるかもしれんが、父さんはいつまでも母さんに愛される自分で居たいんだ。どんな結果になるにしても、天国で母さんに言い訳出来るようにな。」

「父さんが羨ましいよ。」

「何いってんだ。」

 父の照れが眩しかった。

 僕は五年ぶりの実家を離れた。実家はみるみるうちに遠ざかり視界から消えた。電話しなければならないところが二つ、あった。

全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。

これが、実質の最終話です。次はエピローグですね。

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