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七 いつもの店

1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。

 夏休みが近づいて来ていた。お盆の前後にかけて、我が社は十日ほどの休暇がある。その休暇に向けて、プロシェクトではやらなければならないことが山角されていた。進捗が滞り、入金、出金の管理に齟齬が生じれば、会社の経営など出来るわけがない。今月の立て役者は桜井で、大型の仕事の優先交渉権を取り付けてきていた。この不況で、この成果は大きい。

 吉田君は別段変わったところは見られなかった。明るく振る舞っている。注意深くみていると僕と桜井を心なしか避けているが、それは全てに何の進展もなく、心配もない証だった。桜井も全てを仕事にぶつけているらしく、今のところ平和だった。

 既に和志と後楽園に行ってから二度、日曜日が過ぎていた。

 携帯電話に沢木からの着信があったのは、そんな時だった。

 仕事中の午後三時三十五分、普段はこんな時間に電話してくる奴ではない。

 僕は、そっと 廊下に出ると、通話のボタンを押した。

 携帯電話の向こうから沢木の声が聞こえてきた。「久しぶりに飯でも食わないか。」

「飯だって。飲むんじゃないのか。」

「お互い忙しいときだろ。仕事の付き合いじゃないんだから飯で十分だよ。七時に新宿のいつもの寿司屋でどうだ。」

「いつもって、何年前だよ。」

「かわりゃしないよ。じゃあな。」

「ああ、分かった。必ず行く。」

 直ぐに切れた。あいつも本当に忙しいのだろう。マスコミ関係を転々とし、やっと最近落ち着いて仕事をしているはずだ。

 楽しみだった。無論、寿司を食うのが、と心で呟くのを忘れない。

 いつもと変わらないざわめきがあった。最後に来たのは久美子と別れる五年前だった。

 既に沢木は来ていた。カウンター席から手を振っている。僕は混み始めている狭い店内を慣れた足取りで歩き、席に着いた。

「いつもの席だな。」

 僕はまず、そう言った。

「そう、いつもの席だ。」

 大学時代から、沢木は競馬、僕はパチンコで大勝すると、互いを誘って良くここに来ていた。お互いに彼女がいるときでも、この店は僕と沢木とでしか来たことがない。ここは、互いが相談し、愚痴をいい、憂さを晴らす場所だった。味は雑誌に載るほどの場所だ。

「キハダマグロ、赤身。」

「あいよ。ちょっと待ってね。」

「玉といくら。」

「はいよ。」

 他のところからもぽつりぽつりと注文がかかる。店は全く変わっていない。あえて言うなら親父の白髪が増えた気がすることと、見習いが増えたことか。

「沢木、今日は『うに』は頼まないのか。」「あっ。すまん。もう、食っちゃった。」

「そうなのか。仕事のほうはどうだ。」

「……うん。まずまずだな。しかし、なんだね。この人になら付いて行ける、とか、全てをかけられるって言う会社とかっていうのは、いくら捜しても矢張りないものだな。」

「お前、まだそんなこと言っていたのか。」

「お前の前だから言ってみただけだよ。」

 沢木の顔は言葉通りであると語っていた。

「この前は悪かった。いきなり電話して。」

「そんなことはないさ。……酒、頼まんか。」

 僕が頷くと沢木は熱燗を二本頼んだ。

「なぜ燗にする。」

 今は夏だった。しかし、沢木の答えは単純だった。

「好きだからに決まっているだろう。」

「そういえばそうだったな。」

 酒が来た。おチョコを合わせ、再開を祝した。その時、別に言葉は要らないことに気が付いていた。

 熱燗を二人で五本ほど空けてからだった。沢木が急に赤ら顔を真面目にした。僕は滑稽だったが、そこで笑うといつも沢木がつむじを曲げたのを思い出していた。僕はほろ酔い気分で、沢木もそうだと思っていた。しかし、その口から出てきた言葉は、ついには僕の酔いを突き抜けた。

「吉田君だろ、確か。それからどうだ。その前に和志君と会ったことを聞くべきか。」

「どっちでもいいよ。」

 僕は和志と会ったことをまず話した。それはもう、済んだことだった。

「楽しかったよ。和志と会っているのは。分かるものなのかな。親とか、子とかを超えて、互いに好き合ってるっていうか、気にしあう存在であるっていうのは。」

 沢木はおチョコをチビリと傾けた。僕は続けた。

「もう、二度と会うつもりはない。でも、出来るなら、何度も会いたいと思ったよ。これが俺の手にするはずだった現実だったのかなぁ、と思うと悲しくもあったな。途中で同じ課の同僚にも会って、話をしたが。家族連れで来ていた。俺が夢見ていた姿に良く似ていた。父親、母親、子供。日曜に家族で出かけて、食事をして。……俺、したかったなぁ。」

 僕は斉藤の事をすっかり忘れていたのを思い出した。しかし、課の様子を見る限りあの日のことは誰にも言っていないと思われた。言っていたとしても、まだ、それは何も生み出してはいなかった。みんなの印象が良かったのだろうか。離婚が社会現象になりつつある、この時代では。

「本当に、もう、二度と会えないのか。」

 しばらくして、少し悲しげに沢木が聞いてきた。僕は頷いた。

 沢木が熱燗をもう二本追加した。

「それで、吉田って子はどうだよ。」

「別に、まだどうでもないよ。」

「そうなのか。お前のことが好きなんじゃないのか。」

「わからないよ。改まって聞かれるとね。」 沢木が店の親父から熱燗を受け取りながら言った。僕は桜井のあの目を思い出していた。

「始まりはいつだってそんなもんだ。少しずつ好き合っていくものだからな。男と女って奴は。ああ、一目惚れは別だぞ、あれは、わからん。でも、まあ、一緒だな。結局はさ。」

「相変わらず、簡単に言うな。沢木は。」

「……何か引っかかるのか。」

 引っかかること、そうとも言えた。僕が吉田君に告白できない理由。それは何なのだろう。桜井の情熱に勝てないからか。いや、久美子、全ては久美子から始まったのだ。久美子の電話から。もう二度と会わないというのに、まだ僕に躓きの石を与えて行く。それとも壁なのか。僕はそれを乗り越えられないというのか。

 僕は酒を飲んだ。一杯。二杯。おチョコだから、微々たるものなのだが。二人で言葉なく杯を交わしていると、瞬く間に二本が空いてしまった。僕がさらに追加しようとするのを沢木が制した。振り向くと沢木は険しい顔をして僕を見ていた。気持ち悪いのか、と思った僕の馬鹿な考えはしっかりした口調にかき消された。沢木は僕にはっきりと伝えるために口を開いた。僕は初め、言ってる意味が分からなかった。言葉だけが耳から入り込み、脳に残った。

「久美子ちゃんは吉田って子のことを今の結婚相手と出会う前から知っていた。」

 僕は唖然とした。

「親父か、親父だ。久美子は俺の親父とは連絡を取っていたんだ。」

 沢木は頷いて続けた。

「昨日、俺の家に電話があった。久美子ちゃんからだが、驚いたよ。驚いたけど結婚おめでとうってまず言った。」

 胸が痛んだ、切なく締めつけられた。久美子はまだこんなにも僕の中に残っている。傷痕を残している。

「詳しいことは良く分からなかった。でも、吉田って子のことを聞いてくる。俺もお前の酔っぱらった電話で名前だけは聞いていたからな。」

 僕は我知らず息を飲んでいた。唇をなめる。動悸が早いのは酒のせいだけではない。

「お前のことを心配していたよ。」

 沢木は続けた。

「やるべきことは全てやったと彼女は言っていた。逃げ出したのだとも。お前と別れたのも、和志君とお前を会わせたのも、理由があった。分かってほしい。お前はこの話を聞いたら怒るかもしれん。でもな、俺には彼女の気持ちが良く判る。優しく、か弱い人だ。久美子ちゃんは。」

 僕は頷いた。頷くしかなかった。

 沢木は話し始めた。そして、話し終わると言った。

「俺だけの考えかもしれないが、伸也。ある意味で愛することより、愛されるほうが難しいときがある。愛されるのは簡単じゃない。どんな人間でも、間違った、偽りの愛を囁かれて、まともで居られるほどには強くない。人を愛するには資格がいる。その人が愛されていれば愛されているほどに。」

 その夜。僕は家に帰らなかった。そのまま実家に帰った。僕が生まれ、育ち、悲しみを抱いた生家に。父が一人で暮らす家に。

全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。

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