四 ちぢれ動く気持ち
1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。
仕事への逃避は長いことは続かなかった。午後からの得意先回りに関しての資料集めさえが苦痛を伴った。溜め息は僕がもっとも嫌いとするもので、他人がするのを見てさえ僕はその人の人間性を疑ったほどだった。それが今朝に限って何度も出そうになっていた。
ふと、久美子のことを思い出した。そういえば久美子が僕の前で溜め息をつき始めたのは何時頃からだったか。その所為で、僕は話をしていても何も楽しくなくなっていったのだ。眠いのだろうと初めは思っていたのだが、そうではなさそうだと気がついたのは何時頃だったか。久美子に対して不信感が芽生えたのはその頃と同時ではなかったか。久美子を愛さなくなったのは僕のほうが先だったのか。たかがそんな理由だけで。
思考が混乱しようとしていた。
久美子が溜め息をつくようになった理由は何だったのだろう。
それが直接の理由ではないことは分かっている。しかし、すべてに決着がついてしまう一つの兆しであったことは確かなのだ。僕はあの頃、彼女になにを話していたのか。どんなことを好んで言っていたのか。彼女は僕の話をどう感じ、何と言っていたか。
結婚二年目だった。僕は三十で、久美子は二十六だった。
結婚前に沢木が茶目っ気を見せながら言っていた。「お前も忍耐の道を選ぶのか。」と。離婚は久美子の我儘なのだろうか。
違う。違うと感じたからこそ、僕は判を押したのではないのか。
それも違う。あのときは何もかもに疲れていただけだ。
僕のほうにこそ、忍耐が足りなかったのか。愛と忍耐はよく同意語で語られる。しかし、僕も彼女には耐えていた。四年の年の差から来る価値観の違いに。男であることと、女であること。他人同士であると言うこと。二人の中にある違いすべてに。言い訳が頭の中から自分の正当性を主張してきていた。それが暗に僕自身の位置を決定していた。
僕はもう一度、一瞬でもいい、彼女を、久美子を愛さなければならなかった。何よりも、僕自身のために。
それが、もういない母親の言っていた、一番大切なものであるのだ。
昼休みは十二時から始まるのだが、外回りの多い営業ではその時間も不規則になりやすい。桜井も僕が覚えている限りでは午後からの仕事が山のようにあるはずで、僕を呼び出すなど多忙な彼にしては珍しいことだった。彼の実力は、この選抜されたプロシェクトの中でさえ屈指のものだ。しかし、それが彼にとっての、事の重大さを表している。僕は努めて、一時十五分の久美子との約束に意識を集中させた。それは無意識がさせようとする僕の虚勢だった。
桜井は気にくわない。そう思わずにはいられない、いい男だ。僕に対する不遜すらも羨ましかったときがある。そんな男。
しかし、その気持ちは桜井の顔を見た途端になくなってしまう。それは当然でもあり、寂しくもあった。
「話とはなんだい。」
桜井は十二時になった途端に立ち上がった。課の仲間の「もう飯食うのか。」と言う言葉に答えながら僕のほうをちらりと見る。僕は自分がどれほど間抜けなことをしているのかを推し量りながら席を立ち、桜井のところに行き、言った。
「桜井君。話があるんだ、いいかい。」
僕と桜井には精神的に対等であるがゆえの貸しと借りが存在する。僕はこの時点では認めたくもなかったのだが、桜井を僕自身と同等に扱っていた。
「あ、はい。いますぐ。」
桜井の顔は驚きを見せていて、僕の心理など知る術もなかっただろうと思う。吉田君の顔を見たいと思ったがそれはやめた。僕は褒美を期待する心の一面を彼女に見せられる立場にはいず、もしかすると、それは既に彼のものかもしれないからだ。
僕は桜井がついてきている気配を感じながら、歩いた。桜井の顔はもちろん見ない。空いている会議室を一つ捜し出し、そこに入る。閉まろうとするドアを左手で押さえ、桜井も忍び込んでくる。
僕が桜井の顔を直視したとき、彼は僕の目に挑む視線を向けていた。
「吉田さんと、もう会わないで頂きたいんです。」
僕が何かを言う前に、それを恐れるかのように、桜井は言葉を続けた。僕は彼にとってどんな存在なのだろう。
「私は、吉田さんに、結婚を前提としたお付き合いを申し込みました。」
「一昨日吉田さんは、しばらく答えは待って欲しいと私に言いました。すぐに分かりました。主任のことだと。」
「主任にこう言うのは変かもしれません。でも彼女を幸せにする自信があるんです。」
「だから………。」
僕はどんな顔をしていただろう、努めて怒ったような顔をしていたと思っている。朝に感じた悲しみは不思議と今は感じなかった。心の準備ができていたのだ。ただ、桜井の話を聞いているのは苦痛だった。指の先、足の先、鼻の頭に泣きすぎてどうしようもないときの痺れが感じられる。悲しくないなんて嘘だ。いや、悲しんではだめだ。僕は性急に桜井の言葉を遮る必要性に駆られた。彼の言葉に矛盾をきたしている自分の心と体をこのままにすることは出来なかった。
「わかった。」
怒ったように、溜め息と共に発した僕の言葉は、彼の流れ出る言葉を封じた。何が分かったのだろう。僕は自分自身に反問した。何も分かっちゃいない。桜井は吉田君に告白した。吉田君は僕のことが好きだ。じゃあ、僕は。「わかった。君の言いたいことはわかった。桜井君。」
桜井の目は疑惑に満ちている。僕がどうとでも取れる言い方をしたのを見抜いている目。僕の言い方は卑怯な行為だ。だが、僕が彼に親切にする義務はどこにもない。それに、僕はここではっきりとした答えを彼に与えることにためらいを感じた。時間を稼いで自分の気持ちを整理しなければならない。僕の気持ちを、僕の気持ちは……。心の中にある泥々したものが頭をもたげようとしていた。それは僕の気持ちを灰色に染めようとするものだ。それは恐怖とも言えた。僕は自分に言い聞かせる。吉田君は久美子ではない。
僕も吉田君が好きだ。
彼に渡してしまう訳には行かない。
桜井の言葉は、僕にとって今しがたまで敗北を意味していた。男と女の関係に対して僕より彼が一歩先んじたからだ。しかし、今、僕は自分の気持ちに居直っていた。
「だが、君はまだ彼女とはつき合ってはいない。」
桜井の目が微かに動く。それで僕は彼の驚きに気がつく。僕は言葉を続けた。
「私にも彼女に告白する権利がある。」
その瞬間に桜井は僕に殺気立った視線を向けた。僕の背中に悪寒が走った。
バタン
扉の音が響き、桜井の姿は会議室から消えてしまった。
僕はしばらく放心していた。腕時計を見る。十二時半を廻ろうとしていた。ふと、昨夜の吉田君の言葉が浮かんできた。
「奥さんも、苦しんだ時期があったと思います。」
僕はこれから久美子のところに行かなければならない。
僕は一時十五分ぎりぎりになって、『乃木場』の扉を開けた。店の奥まった席で、カフェ・オレを飲んでいる久美子の姿が見える。僕は前回とは違った高揚した心で彼女の席の前に立った。桜井とのやり取りを思い出していた。ここに向かう途中何度も笑みが溢れそうになった。恋をし始めたのだ。僕は。久美子は顔を俯けて僕を待っていて、僕はそんな久美子を見ると自分の幸福が心臓の鼓動と共に高まっていく気がした。
しかし、それは久美子が顔を上げ僕に目線を合わせたときに、急激に静まった。
「座ったら、どうですか。」
久美子の言葉にうなずき、僕は席についた。
「……一週間も、待たせてすまなかった。」
久美子は何も言わない。昔は何でもよく喋ったのに、何が彼女を僕に対してそうさせてしまうことになったのだろう。僕は続けた。
「和志に合わせてくれ。」
久美子の表情は変わらない。
「自分の息子を見ておきたい。後は、君の好きに任せる。」
久美子は「すみません。」と小声で言った。 僕は深呼吸を大きく一つした。タイミングを見計らっていたようにウェイトレスが注文を聞きに来て、僕はコーヒーを頼んだ。コーヒーが僕の前に置かれるまで僕たちは無言だった。そして僕は聞いた。
「どんな人、かな。結婚する人は。」
「優しい人。とっても。」
「そうか。」
「そう。」
僕は旨くはぐらかされたのに気付く。久美子は僕の何に警戒しているのだろう。
「貴方のほうはどうなの。」
「僕かい。僕のほうは………。どうしようか考えているところかな。」
「いい人は出来た。」
「なかなかアタックするような年じゃあないような気がしていてね。」
「そんなことないわよ。私の人は今年で四十になるもの。」
僕はその言葉の途端に緊張した自分に驚いた。痛みが胸を締めつけ、冷汗がシャツを湿らせる。その緊張を悟られないように僕は肚の下に力を入れなければならなかった。久美子は言葉を続けていた。
「商社に勤めていて、忙しい人だけど。海外にも何度も行ってて。」
「どこで知り合ったんだい。いやさ、出会いって言うのは難しいだろ。僕といえば会社と家の往復みたいなものだからさ。」
久美子は微笑んだ。哀れむような嫌な微笑みだった。気付かれないほどだけれども、僕は引き際を間違えた。
「何言ってるのよ。大丈夫。」
何が大丈夫なのか。僕は自分に問いかけることで自分を慰めた。
「今週の日曜日に『水道橋』の駅で。九時に南口で。」
「君も来るのか。」
「ううん。和志だけよ。賢い子だし。心配いらないわ。」
「そうか。」
「黄色い帽子を被せるから、分かると思う。貴方のことは、従兄弟のお兄さんって言ってある。」
「こんな老けたお兄さんじゃがっかりされそうだ。」
「そんなことない。」
「帰りはどうすればいい。」
「五時にここで。」
「『乃木場』に五時だね。」
話が終わると僕が取る間もなく、久美子が伝票を取りレジのほうへ向かって行った。僕はその久美子の姿に彼女の結婚相手の影を見た気がして、目を背けた。
来るときに高揚していた僕の気持ちは嘘のように萎んでしまっていた。
全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。




