三 長い一日になる予感
1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。
天気予報は抜群の的中率で、不快指数の上昇は鰻上りだった。僕の日常も不快感においては変わらず、一昨日、昨日と怒鳴り声をあげていた。日は一日一日と過ぎて行き、久美子と会ってからもう既に五日が経とうとしていた。しかし、彼女の提案についての答えは見つからず、ただいらつきが増して行くだけだった。
僕は久美子を愛することができなかった。それは捨てられた男がよく思う、自己憐憫から来るものの様な気もしていた。そうかもしれなかった。そうであったとしても、今迄にこれほど僕と久美子の間を適切に語ることの出来る言葉はなかった。
だから、久美子も僕を愛せなかった。
事実を認めることはいつでも胸が苦しかった。僕は久美子を愛せなかった。しかし、それに気がついた今、僕は久美子を愛することが出来るかもしれないのだ。でも、久美子が僕をもう一度愛してくれるかどうかは疑わしい。いや、ないと云ってもいいだろう。それが僕を憶病に、そして狡くしていた。
民法の七百六十三条に『夫婦はその協議で離婚することができる』とある。しかし、久美子は話合いさえ拒んで僕と離縁を宣言した。僕と久美子の離婚は彼女の一方的なものだ。その事実は僕が男として彼女に軽んじられていたとも、話合いをしたならば彼女は僕に勝てるとは思っていなかったとも取ることができる。どちらにしも、裁判をしたならば僕が勝っていたのだ。周りからの制止の声。そんなもの糞くらえだ。しかし、結局僕はそれをしなかったのだ。理由は分かっている。裁判をしてさえ、彼女が頑ななままでいたら、という恐怖。彼女に会ってからその思いが再び僕の中で頭をもたげて来ている。
なぜ、僕は考えているのか。
僕は一体何を望んでいるのか、僕自身が分からなかった。
ただもう一度彼女を愛したがっている自分は分かっていた。それがなぜ故か、彼女に対する罪滅ぼしになる予感があったからか。
そうだ、それが久美子に対する罪滅ぼしになるのだ。僕は自分自身に繰り返した。そうして、そうすることで僕は自分自身に問を発することになる。つまり、愛するとは、なんなのか、と。
それが分からなければ、そして、それが分かりさえすれば久美子が僕にした提案についても、五年前から動いていない二人の間も、何もかもが見えてくるような気がしていた。しかし、思考はそこで止まった。僕は空回りも、成果が得られないことも、僕自身が思う自分像のために考えられず、考えたくもなかったのだ。
久美子からの電話は、それから二日後にかかってきた。
「明日の一時十五分に『乃木場』で。」
僕の中ではまだ何も決まっていなかった。決めたくなかったのだ。和志に逢いたくないわけではなかった。逢いたかった。一度として遊んだことのない息子。この一週間考えるのは久美子とそして、和志のことだった。しかし、和志は僕にとっては想像の子供に過ぎなかった。何を話すのか、何を食べるのか、何をして遊ぶのか。そんなことを考えても、僕は和志の顔も、癖も、何一つとして知らなかった。
それは他人の息子の様に僕には考えられた。僕はそれが限り無く嫌だった。
そして、久美子の声に胸の締めつけられる思いをしている自分も。
「分かった。答えはその時に言うよ。」
その日、退社前に僕は六度目になる吉田君からの食事の誘いを貰い、躊躇を顔に出さないようにそれを受けた。その時初めて気がついたのだが、吉田君の顔は、化粧でうまく隠していたがあまり寝ていないようなにきび顔で、目の下に隠せない隈があった。僕は気持ちを切り替え、吉田君に注意を向けた。
「最近寝てないだろ、君は。」
「わかまります。やっぱり。」
「失礼だったかな。」
「少しだけですけどね。でもいいです。ほんとのことですから。」
淡い優しさが僕の中に広がる気がしていた。まだ明るい空の下、御茶の水駅から上野駅まで出て、洒落た居酒屋風のレストランに入る。二人で前回食べに来たときに、見つけておいた店だ。
「この前、『東京のうまい店』っていう本を見て、このお店の名前を見つけたんですよ。」
「お勧めは何だって書いてあったの。」
「蟹ピラフ。」
吉田君は僕と目線を合わさずにそう言った。いつもは人の目を見て喋る快活な人なのに。僕は会話を続けた。
「何だって蟹ピラフなのだろうね。」
「何でも蟹を丸々一匹使っていて、カニィっていうピラフらしいです。量も二人前からみたいで。」
僕はうなずいてから彼女のミスを訂正した。「蟹は一匹じゃなくて、一杯。」
「あっ。」
「あ、じゃない。」
「もう、先に教えてくれてもいいじゃないですかぁ。」
彼女は素敵な笑顔を見せた。しかし、その笑顔が影のある微笑に変わってから彼女自身の普段の顔になっていく様を僕は見てしまった。
僕たちはそのレストランで食事をとった。
「何か、あったの。」
僕は食事が終わり、頼みなおしたカクテルを飲みながらデザートを食べる彼女にそう聞いた。彼女はそれには答えなかった。デザートを黙々と食べている。しばらくして僕は違うことを話しかけた。
「君と知り合ってもう四年になるのかな。」 吉田君は頷いた。
「色んなことがあったね。このプロジェクトに参加してくれたのは本当に嬉しかった。」
再び吉田君は頷いた。そして言った。
「渡辺主任、ここ二、三日変ですよ。」
「そうかな。うん、そうだね。」
僕ははぐらかそうとして、彼女の瞳がそれを許さないことに気づいた。言葉を続ける。僕の中に急に話を聞いてもらいたいという衝動が込み上がって来ていた。彼女の遠回しな優しさ、気遣いに甘えようと思った。
「ちょうど一週間前になる。別れた妻から電話があってね。」
その言葉に頷いて彼女は言った。
「奥さんからですか。」
「うん。五年前別れたね。」
僕は続けた。
「簡単に言うと、忘れて欲しいらしい。妻自身のことも、息子のことも。結婚するそうだ。……恥ずかしいことに、僕は息子とは、息子が生まれる前に別れてしまっていたから、一度も会っていなくてね。」
吉田君は何の言葉も挟まなかった。僕は流れ出る言葉をワインの所為にすることを心に誓った。心の中の憤りまでを言葉にすることはさすがにしなかった。しかし、僕の心の中にあった吉田君に話した内容は、なんて幼稚で、馬鹿な事であったろう。僕は最後に彼女と気まずい雰囲気になることを予測した。そしてそれは僕の言葉の途切れと伴に、白々しくやってきた。すでに蟹ピラフのコースは終わっており、デザートの皿も下げられていた。
「出ようか。」
「はい。」
既に暗く、怪しげな物売りが堂々と往来の人々に声をかける時間になっていた。しばらく二人で歩いた。そしてぽつりと吉田君は言った。
「奥さんも、苦しんだ時期があったと思います。」
僕は彼女の優しさが嬉しかった。それが僕の中に罪悪感を呼んだ。
上野の夜は華やかで、それでいてスラムの匂いが仄かに鼻をくすぐっていく。日本の失業率も年々上がっていくのだろうか。中東の香りを持つ人々が何を求めているのか分からなく思える。同じ人間として、僕は彼らを理解したいと思ったことは余りない。馬鹿にするための布石に使うぐらいだ。
そう、馬鹿にするための思考。優越感を得るための理解。
吉田君が心なしか体を擦り寄せてきていた。僕は思いを言葉にするのをやめ、足を速めた。僕は吉田君と今日、食事をするべきではなかった。
次の日の朝。つまり、吉田君と食事をした翌日であり、久美子に返事をする当日。何時も通りに八時二十五分に出勤した僕は、部屋に入るところで桜井に呼び止められた。
「お早うございます、渡辺主任。」
声質がどことなく挑む様なのに僕は気づき、言葉を選んで応対した。
「お早う。部屋に入らないのかい。」
「入ります。入ります。」
そう言って桜井は二度ほど頷いた。気にくわない、それは正直すぎる彼に対する僕の評価だった。しかし、その気にくわない不遜さを漂わせている彼が、今朝は少し小さく、それでいて揺るぎなく見えた。僕は感じるものがあった。そしてそれと共に襲ってきた悲しみの予感に狼狽えた。昨夜の吉田君の顔が目に浮かんだ。あれは何かを僕に伝えたかったのではなかったか。
「昼休み。話したいことがあります。いいでしょうか。」
「分かった。」
僕は即答し、自分の心の内を彼に読まれないようにした。敗北感があった。今ここで自分の気持ちを言葉に置き換えて耐える勇気は、僕にはなかった。目尻の震えを押さえるので精一杯だった。
扉をあけた途端に吉田君と目があった。吉田君の目はいつもより一回り見開かれているようだった。胸の奥からざわめきにも似た、愛しさとも悲しさともつかないものが浮かんでくる。
「お早うございます、主任。」
斉藤の屈託のない声に僕は吉田君から目を背けた。
それはとても卑怯な行為だと、僕の心が、思考が叫んでいた。しかしその気持ちは、僕と吉田君が会社ではプロジェクトにおける上司と部下であると言う関係でしかない事実に萎んでく。仕事をしなければならない。仕事に逃げると言われようとも、一瞬であれ休息が必要だった。
久美子と桜井、吉田君、そして僕。長い一日になる予感がしていた。
全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。




