二 強烈な認識
1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。
昼休みを返上して僕はJR神田の駅に降りた。うだるような暑さの正午過ぎは、子供のころの蝉取りを思い出させた。まだ母の生きていた頃。自分の身長の三倍もある虫捕り網を駆使して熊蝉を取るのだ。アブラ蝉やツクツクボウシでなく、熊蝉。名前も姿も、それは子供にとってのステイタスになりえた。熊蝉を取ることはとても誇らしいことだった。母親はよく、そんな僕に微笑んでくれた。
喫茶『乃木場』は僕と久美子がよく立ち寄った喫茶店で、神田で本屋巡りをした後、各々が選んだ本を各々で読む場所だった。僕の友人で、僕と久美子が付き合っていることを知る人は多かったが、どんな付き合いをしていたかを知る人は一人だけだった。
沢木恭慈。大学からの腐れ縁の男で、女をよく知っていた。しかし、プレイボーイには成りきれない男で誠実さはこの上なかった。そいつが僕たちの付き合いについて言った。「ばーか、なにやってんだ。もう夫婦気取りかよ。プロセス踏まずにうまく行くと思うなよ。」
僕と久美子は何か違っていたのだろうか。違っていたのは僕だけか。僕は確かにつき合った女は少なく、女性の友人も少なかった。問題はそれなのだろうか。
違う気がした。
五年前からただ考えているだけではなかった。自分なりに考えていた。その結果、すべてが言い訳だと頭では理解した。しかし、何かが足りないと言う思いだけは拭い去ることができなかった。
僕は『乃木場』の扉を開けた。約束の時間より十五分以上早いにもかかわらず、久美子はいた。久美子を見た途端に僕の中にきつく締めつけられる胸の痛みがあった。僕たち二人は窓際の席が好きだったはずだが、久美子は店の中で一番奥まったところにある席にいた。それが僕を不安にさせ、胸の痛みを取り去った。久美子は僕のほうに強張った笑いを見せて手を振った。僕も手を振って答えた。
「元気そうだね。」
「あなたもね。仕事の調子はどう。」
「一昨年、主任になった。でも今は大変だよ。不況だし。」
「そうね。あたしは首になったちゃったわ。勤めてたとこ。」
「まだイラストの仕事をやってたのか。」
「そう。でも、やめちゃったから。」
「そうか………。」
僕はコーヒーをブラックで頼んだ。
彼女のカフェ・オレは半分以上減っていた。
「………和志は元気なのか。」
僕は名前しか聞いたことのない自分の息子の事を聞いた。
「先月で五才になったわよ。幼稚園に通ってる。」
「何かと大変じゃないのか。」
この言葉は言ってしまって後悔した。久美子は表情を変えずに続けた。それは僕にとって悔しいことであった。
「大丈夫。」
コーヒーが置かれ、僕は一口飲んだ。場が苦しかった。そして僕は耐え切れなかった。
「……今頃。何のようなんだ。」
久美子は僕が来てからはカップに一度も手を触れていなかった。僕の問いに緊張が抜けたかのように見え、彼女の手はカップに伸びた。
「あたし、結婚します。」
頭にあったことは一つのことしかない。
僕は悲しむべきなのだろうか、と。
どんな感情が浮かんだとしても正当化され、どんなことを思ってもそうかもしれないというシュチュエーションは、僕からすべてを奪う気がした。それがショックであると言うことに気がつくのにさえ時間がかかった。驚愕、と言う言葉に置き換えられることに気づくのでさえ。
久美子は言葉を続けていた。
「一度、和志に会ってください。」
僕は顔が歪むのを懸命に押さえながら言葉を選んだ。弱気な言葉を言った途端に崩れてしまいそうだった。崩れてしまったほうが物事は有利に進むのは分かっていた。心の底では崩れさる用意ができている。しかし、それを見透かしたように久美子は表情を顔に出さなかった。
僕は捨てられた男なのだ。
僕は甘い期待をどこかに忍ばせてきていたのを悔いた。
「どんな顔をして会えばいいんだ、父親としてか。」
一度和志に会って、ということは一度だけ和志に会って忘れてくださいという意味だった。それは彼女のわがままにしか思えない。 思った通り彼女は僕の言葉に首を振った。「ごめんなさい、そうじゃないんです。」
「じゃあ、なんだ。」
僕は自分の弱みを出す前に彼女の弱みを見つけたことに安堵していた。相変わらず彼女は表情を読ませなかったが。
「ごめんなさい。」
彼女はそう言って黙り込んだ。
僕のコーヒーも彼女のカフェ・オレも、それから減ることはなかった。それが僕と久美子の五年ぶりの再会だった。
「少し君の言った言葉を考えさせて欲しい。また、電話をしてくれ。」
「一週間したら、多分。」
「分かった。」
僕は、伝票を取ることを一瞬躊躇した。しかし、あえて、取った。
自棄酒を飲むために用意したウィスキーはほとんど減らなかった。部屋の電気はわざと暗く、沈黙は何も考えたくない僕自信の精一杯の強がりだった。今日の仕事のコンディションは久美子にあってから最悪で、何よりも久美子に会いに行ってしまった自分に悔いていた。その悔いが急に熱い固まりになって喉元にこみ上げるのだ。何度も。何も知らずに雑談している部下たちが憎らしかった。しかし、それを口に出すわけにもいかず、僕は逃げるように家に帰ってきた。
ウィスキーは帰るときに買った。
会って、忘れたほうがいいのだろうか。こんな気持ちはたくさんだった。
「『あい』はね、一番大切なものなの。」
分からないよ母さん。
僕は口に出して言ってみた。
「分からないよ母さん。」
僕はもう久美子を愛してはいなかった。そして、愛していたのかも不安だった。そして、ふっと思った。
もしかしたら僕は久美子を愛することが出来ていなかったのかもしれない。
体に震えが走った。尾帝骨の当たりから肩甲骨の間を抜け、脳髄を痺れさせる一瞬の感覚だった。僕は息を大きく吐いた。
表情が強張る。
その思いは強烈な認識だった。
全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。




