一 子供の頃の思い出
1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。
小学校に上がる前だった。
雑誌に何度も何度も出てくる漢字の意味を聞くために、僕は母のもとへ雑誌を持って行ったのだ。
「ねーママ。この字って何。」
母はわざわざ僕と同じ視線に身を屈め、雑誌を覗き込んだ。
「この字はねぇ、一番大切な字なの。覚えられるかなぁ、伸ちゃん。」
「僕、大丈夫だよ。」
母は僕の言葉ににっこり微笑って続けた。
「この字はねぇ『愛』って読むの。あい。」
「『あい』。」
「そう。あいうえおの、あい。伸ちゃん、平仮名言える。」
「いえるよ。あいうえお、かきくけこ、さしすせそ、でしょ。たちつてと、なにぬねの、はひふへほぉ、えーと。」
「まみむめも、やゆよ。らりるれろ。」
「いっちゃだめだよ。僕、幼稚園で一番最初に覚えたんだよ。」
「あら、そうなの。ママには教えてくれなかったじゃない。」
「ママ、聞かないんだもん。」
母はそこで答える替わりに、僕に向かって微笑んだのを覚えている。その笑顔を見ているとなぜか居心地が悪くなったのだ。モヂモヂしている僕に向かって母は優しく話を戻した。
「わかったかなぁ、伸ちゃん。『あい』は平仮名の最初の二文字ってこと。だからね。『あい』は一番大切なものなの。」
母はその台詞を三回くり返した。そして、僕のホッペタを照れ臭かったのか、両手で包むと何度もなでた。
小さな子供を連れて歩いている母親を見て脳裏に浮かんだ懐かしい情景は、プラットホームに入る電車の軋みにかき消され、僕は現実に戻された。何年前になるのか。僕は自分の歳を数えてみる。三十と五つ。既に壮年と言われる年代に差しかかっている。しかし、世間のそうであるべき評価と比べると、僕は自分自身に苦笑するほかない。
渡辺伸也、本名同じ。年齢三十五歳、離婚経験一度あり。都心の中堅建築会社の営業主任。二年前から、プロジェクト的に独自の営業展開を命ぜられ、六人の社員を率いる立場にある。課長の直接的な干渉は皆無で、潰れてしまった古い課の部屋を、七人で使わせてもらっていた。年収は世間の平均年収を越えた。年功序列が崩れてきていると言われている今の不況社会において、扶養手当なくしてこの年収は、まずまずの出世と言える。しかし、他の同期と比べると二年ほど主任になるのは遅かった。悲しくないと言えば嘘になった。そのたびに『そう思うことが自分の可能性をなくしていくんだ。世の中にはいろいろな世界が在り人が居る。内にこもるな、外を見ろ。』そう言い聞かせてきた。
その自分の言葉すらも色あせて行く。所詮僕はこの社会、会社で生きることしかできないケチな存在なのだと。通勤時間は一時間半。小田急沿線の三LDKマンションが僕の家だ。日当たりのいい南向き四階、六年前、結婚と同時にローンで買った妻と僕の新居。
その妻はその翌年の十二月に僕の前を去ってしまった。
理由は聞いていない。聞けなかったと言うほうが正しかった。何度も電話をし、一週間近くの有給を使い、妻を説得しようとした。にもかかわらず、妻は理由を感情的なものにすり替え、僕を納得させることはなかった。生まれる前の息子と共に、二度と僕の前には帰ってこなかったのだ。慰謝料の請求の話も、養育費の話も離婚にあると言われるあらゆる話し合いが拒否された。生まれる前の子供の親権には争いは存在しない。多くの手段を使おうとした。裁判、興信所。どれも実際には出来なかった。周りから、そして、父親から制止の声がかかった。妻の親にはもちろん、妻の友人に連絡を入れ、彼女の本心を知ろうともした。結局何も分からず仕舞いだった。妻はバブル期の母子家庭で育っている苦労人と言ってもよい人生を生きている。そのためか、妻の母親は、頑として妻の味方の姿勢を崩すことはなかった。僕は追いかける気も失せ、判を押した。自分なりに理由はいろいろ考えた。考えれば考えるほど、捨てられた、と言う事実に気付いた。父は一言「そうか。」と言い、僕よりも僕のことを知っている目を見せ沈黙した。母は僕が二十六の時に原発不明癌を患い病死してしまっていた。分かったときにはステージ四というショッキングな出来事だった。結婚を決めたのはその三年後になる。結婚式に出てほしかったと妻に零した一言に、幸せになろうねと返してくれた一言が思い出された。一人っ子である僕には、兄弟はいない。優しかった母が何と言って僕を慰めてくれたかも分からないまま、僕は一人で離婚の悲しみに堪えなければならなかった。
JR新宿駅で小田急を降り、今度は中央線に乗り換える。そして御茶の水まで。満員電車に揺られているいつも通りの朝。
もう五年も経つのか。妻と別れてから。一人で住むには広すぎる三LDKにも慣れてしまって久しい。初めのほうは帰ってくるのかもしれないという淡い期待があった。期待が期待に過ぎないことに気がつくのにかなりかかり、そして今では惰性で生きているようだ。僕たちの過ごした二年近くの日々は何だったのだろう。結婚は僕が二十九、妻は二十五だった。好き合って添い遂げたと思っていた僕の気持ちは、ただの勘違いだったのか。
やめよう。いつの間にか考え、やめてしまうだけのことだ。考えても意味がなかった。電車のアナウンスが御茶の水を告げた。
駅から徒歩十分の場所に八階建てのビルがある。そこが十三年前から僕の働く建築会社がある。正面玄関前でネクタイを直し、大股気味に社内に入る。受付の社員の「おはようございます」の声に、首礼だけで答える。それが許される地位に僕はなっていると思っている。
朝、八時二十五分。扉を開ける。
「おはようございます、主任。」
開けた途端に斉藤のあいさつがかかった。このプロジェクトの中で一番よく喋る新婚二ヵ月目の男だ。斉藤文雄、三十歳。僕はこいつが嫌いではない。無邪気に人を傷つける疎いところがあるが、僕をよく慕ってくれている。下心が見えるにせよ。
「おはよう。あれっ、今日のネクタイは今まで見たことがないな。奥さんに買ってもらったのか。」
「分かりますか。誕生日は一週間後ですけど、せっかく買ってきたんだから早くして見せてって言われまして、もう今朝早速。」
「来てからずっとみんなに言ってるんですよ。相手にしないほうがいいですよ。」
吉田由香が言った。入社時の新入社員の顔写真の頃から、ショートカットを崩さない利発な娘で今年二十八のはずだ。僕は、この人を配属されてきた人の中で一番気に入っている。吉田君のほうも僕のことは悪く思ってないらしく、このプロジェクトに配属される前から、五度ほど二人で食事をしたことがある。そのうちの一回に僕の父が同席してしまったというのは本当に単なる偶然だった。何の前触れもなく、会社の前の喫茶店で僕を待ちぶせ、僕と吉田君が一緒に食事に行くところに出くわしたのだ。父は僕が前妻と違う女の人といるのが嬉しかったのか、盛んに吉田君を誘った。
しかし、誓ってそれだけの関係だ。七つ違うのだ、世間でいくらよくあるといってもだ。
「バカ、渡辺主任にそんな奥さんの話なんかしてどうするよ……。」
小声で、僕にまで聞こえるようにそう言う男が、この春からこのプロシェクトに配属された桜井良一だった。僕は目を閉じて上を仰ぎ見たくなる衝動を抑えた。三十代にもなればそれまでに経験してきた感情はよく分かる。経験豊富な奴も気づいているはずだ。桜井は、吉田君が好きなのだ。残念ながらまだその思いは実っていないようだが。しかし、そこで僕を目の敵にしてほしくはない。何処で食事の話を聞きつけてしまったのかは知らないが、吉田君の目を見てみろ。僕に対する同情の色が見える。お前のやっていることは間違いだと言ってやりたいが、それは無意味に決まっている。あとで後悔の一つでもしているだろうと信じて僕はこう言うにとどめる。
「いや、気にすることはないよ。桜井君。もう五年も前の話だしね。」
「そうだよ、桜井。俺のネクタイと主任は何の関係もないぞ。」
斉藤の言葉が重く感じられた。桜井は分かってやっている。言えば言うほど悪循環が起こる。そう思っても斉藤の言葉は三人の気不味い雰囲気を溶かしてくれる。僕はムードメーカーとしての斉藤は高く評価している。営業成績は中の下だが、社員たちが安心して帰ってこられる職場は悪くない。
それにしても何とかならないのか。吉田君が気持ちに答えてやればいいのに、と言う勝手な思いまでが頭に渦巻く。悪いのは誘われて食事をしてしまった僕なのだろうか。
五年前から、ほぼ変わらずに続いている毎日。僕が主任になり、このプロシェクトを社命として受け、配属された二年前にも同じようなことを思った。二、三ヵ月前からひどくなった不況の煽か、上役のプレッシャーが強く、苛々したりすることや、桜井や吉田君のことで頭が痛かったことはあったが、概ね平和と言えた。心の中に泥々したものがあることは分かっている。しかし、それをわざわざ認識しながら暮らして行く必要はなく、また、自分自身の年齢がその必要性を感じていなかった。そして、いつかふと気づいたときに消えてしまっているものだと信じていた。
彼女からの電話があるまでは。
僕は、自分自身を直視しなければならなくなったのだ。
梅雨が明けて五日後の昼休みのことだった。
三人の若手は外回りに出かけていた。たまには、昼でも食べようかという雰囲気となり、各々が席を立ちあがった。いつもの癖で自分の携帯電話を確認する。仕事中はマナーモードのため、気が付かないその履歴は僕を驚愕させるのに十分で、熱い鉛を飲み込んだような胸のつかえを感じた。
「主任 行かないんですか。」桜井が声を掛けてきた。
僕は生唾を飲み込んで、胸のつかえを彼に隠さねばならなかった。弱みを見せまいとする男の勘が僕に冷静に言葉を出させた。
「ちょっと、緊急の用事らしい。着信があってね。みんなで行ってもらってよいかな。」
吉田君がふと顔を向けた。斎藤が言った。「りょうかいです。じゃあ、いつもの店に行こう。」
桜井は怪訝そうに眉を顰め、視線を外した。
「そうですか、わかりました。お言葉に甘えます。」
電話の履歴は手塚久美子とあった。僕は、立ち上がりかけていた中腰を下ろし、ゆっくりと席に座り、深々と身を沈めた。それは、僕の妻であった人の名前だった。
取り留めのない思考は、なぜ今頃になって…という思いに変わっていった。五年も経っていた。好景気に影が落ち、社会に不安感が満ち出すのに十分な時間。いや、違う。僕は心のうちを訂正した。五年前から僕の久美子に対する気持ちはほとんど変わっていないのだ。五年、あっという間の五年だった。
聞かなければならなかった。なぜ、別れたのか、誤解があったのではないのか。未練を通り越し、その疑問だけが胸のうちを渦巻き、眠れない日々が続いた。取りすがり、取りすがり彼女に問を発する自分の姿を想像し、無下にあしらう彼女を怒鳴りつけ、殴りつける妄想に何度取りつかれただろう。そんな自分が嫌になって、僕は考えることをやめたのだ。やっとやめることが出来たと思ったのだ。そんな今になって、なぜ久美子は電話などを僕に掛けてきたのだろう。狙い澄ましたように。
僕を捨てた女。
久美子に対する思いが捨てられた男の恨みであることを、僕はすでに自覚していた。深呼吸をして自分に言い聞かせる。思い出すんだ、久美子を愛していた時期を。思い出しさえすれば久美子と静かに話をすることができる。電話であっても、汚い自分に会わずに済む。僕は、まだ鳴りもしない電話機を見つめている自分に気がついていた。
マナーモードを外した携帯電話の着信が鳴り、僕は通話ボタンを押した。
「はい。」
「……渡辺伸也さんの携帯で間違いないでしょうか。」
無言が僕の肯定であることは、直ぐにわかったようだった。
緊張感を醸し出す受話器の向こうの沈黙があった。
「お久しぶりです。久美子です。」
「………君か……。」
冷静に話をしている自分が怖いくらいだった。心には何時でも久美子を怒鳴りつける用意ができていた。たとえそれが間違っているのだとしても。しかし、久美子の冷静な声は僕にそれを強要しているかのようだった。
「元気でいましたか。伸也さん。」
「君こそどうなんだ。元気にしていたのか。」
「あたしは平気でした。子供もね。」
子供の名前は、知っていた。五年前の記憶は曖昧だった。
「…………そうか。名前はどうやってつけたんだ。いや、名前を知らないってわけではないんだが。」
久美子はそれには答えず話を進めた。
「一度会っておこうと思って電話したの。暇な時ってある。」
僕は手帳を調べた。今日既に夜の時間は空いていた。しかし、口から出たのは自分自身に対する意地悪のようなものだった。
「明日の、午後一時から三時までの間なら何とかなりそうだ。」
「じゃあ、一時十五分に。喫茶店『乃木場』で。覚えてる。」
「覚えてる。」
「それじゃあ。」
僕は携帯画面をしばらく見つめていた。
その日、僕は桜井と吉田君が楽しそうに雑談をしているのを見て、心に締めつけられるような痛みを感じ驚いた。今までは微笑ましいような気持ちしか感じなかったというのに。しかし、その時は深くは考えることはなかった。
僕は久美子のことで精一杯だった。
全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。




