五 どうしようもない電話
1990年に書き上げた作品を投稿します。少し手直ししました。よろしくお願いします。
日曜日までには四日の余裕があり、僕はその間に一つの疑問を考えていた。
久美子はなぜ僕を和志に合わせることを決めたのだろう。何が彼女をそうさせたのか。まだ五歳になったばかりの可愛い我が子を、わざわざ別れた夫に会わせようなどと思うのだろうか。聞いたことのない話だった。彼女が特別なのだろうか。それとも僕に彼女がそうせざるを得ない何かがあるのか。
分かるはずもなかった。
僕を捨てた女。
その女の言うことを聞いている僕。
「奥さんも、苦しんだ時期があったと思います。」吉田君の言葉はもっともらしく僕の中に響き、僕は彼女の言葉に慰められた。しかし、問題はそんなところにはない。吉田君の慰めと久美子のした事は全く別の次元で存在している。吉田君は僕の悲しみ、ストレスに対して言葉を選んでくれていただけだ。問題の本質を理解などしてない。そもそも、久美子は僕の苦しみを少しでも分かっているのか。会社を休み、友達の哀れみとも慰めともつかない目に耐えていた日々を。
そして突き付けてくる僕への要求。
彼女は、久美子は、僕のことを僕の思いを、彼女のことをどれほど好きだったのかを、彼女の所為でどんな苦しみにあったのかさえも何も分かっちゃいない。何一つとして理解などしていない。そんなことが許されていいのか。許されるのなら、傷つき立ち直ることすら出来ない日々の続いた僕の気持ち、あの時間は無駄だったということになる。何のために立ち直れなかったのか。久美子のためではないのか。離婚を決意するほど僕を嫌っていたのか。それならばなぜ何も僕に言ってくれなかったのだ。嫌いなら嫌いと言ってくれれば僕は変われたかもしれない。変われたなら彼女もわざわざ離婚などという冒険をせずに済んだのだ。機会を僕に与えてくれなかったのはなぜだ。機会を与える価値もないと思ったのか。機会を与えることを拒否するぐらいに僕のことを嫌っていたのか。機会を与えたとしても、それを生かし切ることができないと彼女は判断したのか。それは勝手すぎる。なぜ人の器を彼女の独断で判断するのだ。僕は彼女が変わってくれと言ったなら、本当にそれを望んだのなら、いつでも変わる用意は、心構えは、結婚したときから出来ていたのだ。それをどういうことだ。彼女は僕のことを何だと思っていたのか。僕は彼女の我儘を叶えるために結婚したのか。まさかこんな気持ちを抱えてこの人生を生きなければならないなどとは考えたこともなかった。久美子は、何様のつもりだったのか。僕を何だと思っていたのだ。「奥さんも、苦しんだ時期があったと思います。」吉田君、君は何も分かっちゃいない。苦しんだなら、苦しみ続ければいい。僕は必ず彼女の望みどおりに変われたはずだ。彼女は僕を信じていなかった。僕の言葉を、僕の気持ちを。僕は彼女に裏切られた。なのに、なぜ彼女は僕に何の負い目も見せずに、のうのうと僕に要求を突き付けることが出来る。裏切られた僕の気持ちに対して、彼女は何の償いもしていない。僕の苦しんだ時間に対して。僕の晒された状況について。なのに、何だと、再婚だと、自分自身の幸せばかりを追い求めて、他人の気持ちを考えもしない人間は、地獄に落ちるがいい。
「沢木ですけど。」
「沢木かぁ。オレ、俺。渡辺。元気かぁ。」
「元気も何も、今、何時なのよ、お前。久しぶりだなぁ。」
「今は、午前二時三分。いや、悪い。悪いと分かっちゃいるが、やめられない。」
「かなり酔っているな。」
「酔ってない、酔ってない。まあ、お前の家にかけるのに電話番号二度間違えたけどな。大丈夫。しっかりしている。」
「その酔方はウィスキーだな。今瓶の中にどれぐらい入っているよ。」
「もう、ほとんど、空。誰かに何か話したいのに、俺の周りにそんな奴って居ないんだよなぁ。」
「誰だってそんなもんだよ。」
「久美子からさ。電話があった。」
「………。」
「結婚だってさ。」
「………お互い大人だろ、喜んでやれよ。」
「勝手だよなぁ。人間てさ、自分が幸せならそれでいいんだ。」
「お前が不幸みたいな言い方だな。」
「不幸だよ。不幸。」
「何で。」
「何でってなぁ。久美子は俺と和志を会わせたい、そしてすべてを忘れてもらいたい。」
「お前の息子か。」
「そう、どう思う。忘れて欲しいんだぜ。そのひどい我儘。自分勝手に誰一人として気付こうともしないんだ。その上『奥さんも、苦しんだ時期があったと思います』、と来る。」
「ほう、誰だそんなことを言ったのは。」
「吉田由香。お前は知らないな。今、俺と同僚、まあ、部下でいいや。桜井って奴と取り合いって言うか、そんな感じになっている人だよ。その人がさ。慰めでそう言った。」
「お前のことが好きらしいな。」
「そう思うか。」
「お前のそんなくだらない話につき合ってくれて、助言までしてくれて。優しくて、いい子だな。」
「そう、いい子だ。でもな、問題の本質を理解していない。問題は俺ではなくて、久美子のほうにあるってことを、だ。久美子は俺の気持ちを全く理解していなかったのに、俺が彼女を吉田君の言うように理解してしまったら、何の解決にもならないだろ。」
「言っていること、よくわからんな。」
「もう一度いおうか。おれは苦しんだんだぞ。なのに誰も癒しちゃくれないのかよ。そんなことがあっていいのか。」
「俺も、もう一度言うよ。言っていることは、良く分からん。」
「そんなはずはないっ。お前はそんなふうな、人の気持ちがわからん奴じゃない。」
「…………いや、わからんし、分かりたくもない。俺にとってはな。」
「沢木、何を言っているんだ。分かるだろう。離婚で俺の被る、もう被ってしまったけどなぁ。他人への影響、被害を全く考えないような女が、行けシャァシャァと生きているんだぞ。そんな女と結婚し、そして離婚まで。俺の人生って言うのはその所為で大きな被害を受けてるんだ。結婚資金、新婚旅行、新居。俺のこの久美子に対してやったことに、あいつは何の感慨もなく、俺に対して何の断りもなく。………くそっ。お前が俺の立場だったらあいつを許せるか、久美子を許せるのか。」
「…落ち着けよ。」
「何いってんだっ。お前もこういう目に合う確率がないなんて言えないんだ。今の世の中我儘だらけだ。誰も自分の行動に責任なんかもちゃしない。お前の自分の選んだ女性が万が一そうだったらどうするかと俺は聞いてるんだ。お前に諭される言われはないっ。」
「……俺はお前じゃない。」
「そんなこと聞いているんじゃない。沢木。俺の立場だったらお前も久美子を許せるわけがない。許せるはずがないんだ。」
「………お前は、どうしたいんだよ。」
「俺は自分が許せない。久美子に良いようにあしらわれる自分が、久美子を前にすると彼女の言うことを聞いてしまう自分が。」
「結局、怖いんだろ。お前。彼女が。」
「怖い。どういうことだ。俺が何で久美子を怖がる。久美子こそ俺を怖がるべきだろう。」
「いや……。いや、言い方を変えよう。伸也。よく聞いてくれよ。これは、お前は忘れているかもしれないが。俺が五年前にも言ったことだ。思い出せるか。」
「分からない。」
「この世に生きているのは、伸也。お前と久美子ちゃんだけじゃないって事だ。総べてのことは絡みながら、同時に存在してる。個人の理解力、想像力だけでは何処に責任があるかさえも、分からないのが普通なんだ。こう言えば分かるだろう。」
「そんなことは知っている。でも俺も言ったはずだ、そんなのは総論に過ぎないってな。悟ったようなことを言うのは簡単だ。でもな、人はそれぞれに考え方も違えば人生も違う。俺は許せないんだ。久美子を、久美子の家族も。俺の苦労を何も考えずに事を推し進めるなんて事が可能なのか、一度でも家族になった人間たちがだぞ。離婚することで俺がどんな目に合うのか分からなかったわけがない。それを敢えてしたことに対して報いを受けるのは当然じゃないか。それが当然なんだ。それが当然じゃないなら、この世は我儘を言った者が勝ちってことになるっ。」
「報いって何だ。……勝ちって何だよ。」
「……………。」
「お前、自分が何を言っているか分かってんのか。酔いは覚めたか。」
「……………。」
「五年前は聞くのをためらったし、今さっきもためらったんだけどな。お前、久美子ちゃん、本当に好きだったんだろうな。」
「……だから結婚したんだ。」
「いつか言ったんだ、俺は。お前が覚えてるかは知らんが『プロセス踏まずにうまく行くと思うなよ』とな。どんなことにもルールがあるし、やっちゃいけないこともあるんだ。」「お前の哲学につき合う気はない。俺が言いたいのはそんな事じゃない。久美子は俺という存在を……。」
「…………。」
「……お前に言っても、どうしようもないな。」
「まあな。」
「…………。」
「…………。」
「沢木、お前、結婚はしないのか。つき合ってる子はいるんだろ。」
「いる。可愛い人だ。半年前からかな。」
「前の彼女はどうした。」
「色々あってな。別れた。」
「お前は優しいけど、怖いところもあるって久美子が言ってた。」
「言われた。口が軽いとも言われた。優しすぎて特別な人ができにくいとも。俺は難しい性格らしい。」
「………何で、俺は久美子と別れることになったんだろうな。」
「………運が悪かったと、思えるか。」
「いや。」
「和志君に会うんだろ。頑張ってこいよ」
「急に、電話して悪かったな。」
「伸也、俺はお前と話しているとほっとする。何時でも電話してくれ。」
「分かった。」
僕の心の中を虚しさが広がっていこうとしていた。沢木は、人を信じているのだろうか。あいつは心の中にどんな自分を殺しているのだろう。僕の中の、人にいえないような気持ちを冷静に受け止めるあいつは。
僕は醒めかけた酔いをもう一度元に戻すために残ったウィスキーを煽った。
久美子は僕と居て、どんな自分を殺していたのだろうか。もしかしたら、自分でも気がつかないうちに。僕は、彼女の何だったのだろう。彼女のたった一度の人生の中でどんな存在になろうとしていたのだろうか。
彼女のなかの何が、僕を和志と会わせることを決めたのだろうか。
疑問は尽きる事なかった。しかし、時だけは確実に過ぎていった。
全9話です。最終話は、ほとんど あとがきです。




