第2話 何故かの魔法と竜脈
人の王が治める国、チェロヴィク。
その王都カロスは大陸の中央からやや東南に寄った位置にある。
テュシアの王城への滞在は、今回は六日間の予定だった。
馬車を乗り継いで五日の旅程はそこそこハードだが、半年に一度、この国では数少ない魔法師たちが集まっている魔法師塔への〝出張〟はテュシアにとって、いつも楽しみなイベントである。
「師長様! 遅くなってすみません!」
王城の外れにある薬草園へ小走りに枝折戸を潜ったときには、太陽の位置はだいぶ高くなっていた。
「やあテュシアさん。元気そうですね」
コストマリーの株の前にしゃがみこんでいた老人が振り向いて微笑んだ。
魔法師の身分を示すローブに総白髪の師長は、テュシアが登城するようになった十年前から全然見た目が変わらない。王からの信頼も篤い穏やかで研究熱心な人格者である。
「ごめんなさい、寝坊しちゃいました」
「いやいやこちらこそ。昨夜到着されたばかりなんですから、今日はもっとゆっくりしてもらえばよかった。無理を言って悪かったですね」
「とんでもない! 完全なる私の落ち度です……」
年齢を感じさせない身軽さで立ち上がった師長は気を遣ってくれたが、もともとはテュシアのほうから「明日の朝に」と提案したのだった。自分から言い出しておきながら寝坊したのだから、間違いなくテュシアが悪い。
「メルーは息災ですか?」
「あ、はい。師長様にもよろしく伝えて欲しいとのことでした」
メルーというのは、今世のテュシアの養い親である。
これまでの二回の人生とはまったく別の生き方をしてみようと孤児院を出て、彷徨っていたときにひょんなことで拾われた。この世のことなら何でも知っていそうな魔女で、魔女としてのテュシアの師匠でもある。
別の種族の血が濃いのか人間らしからぬ魔力の強さを誇る師匠だが、人生経験が豊富なだけあって顔も広い。こうして王城にやってきているのも、メルーの伝手あってのことだ。
師長様の前任の師長を務めていたそうなのだが、師長様とは正反対の意地悪ババ……もとい、個性的な魔女で。
当然、同僚だった師長様もメルーの性格はよく知っている。当たり障りない言葉を選んだテュシアに、ふっと皮肉気な笑みを浮かべた。
「まあ、彼女がなんと言っていたかの想像はつきます。愛弟子に気を遣わせるとは、メルーも変わりなさそうですね」
「あ、あはは……」
正確には、
――あのジジイはまだくたばってないのかね。生き汚いと若者に嫌われるぞ、と言っておやり。
というのがメルーからの見送りの言葉だった。
そんなの、言えるはずがない。
乾いた笑いで誤魔化すテュシアに、わかっているとばかりに師長がうんうんと頷いた。
「それで師長様、調子が悪いっていうガーデンはどこですか?」
「おお、そうでした。こっちです」
師長の案内で薬草園を横切っていく。
エルダーにキャラウェイ、ネトル、ヒソップ、ヘンルーダ。ここでは多種多様な薬草を栽培しているため、薬草園のなかを歩いているだけでも目や鼻が楽しい。テュシアはうきうきと周囲を見回しながら歩いた。
「実は、気になっているのはシルバーバーチなんですがね。先日ドライヤダリスからの商隊が運んできた苗木を植えてみたんです」
「ドライヤダリス……エルフの国からですか⁈ よく持ち出せましたね」
「その商隊にはハーフ・ニンフの娘がひとりいるんですよ」
「ああ、だから」
それならば納得できる。
寿命が長く、自ら〝叡智の民〟と称するエルフたちは独特の世界観を持っていることで知られていて――言葉を選ばずに言えば、非常に感じの悪い種族だ。彼らは獣人族や純人族を下等生物とみなす傾向にある。
そのため人の王が治めるこの国チェロヴィクとの交易もほとんどないのだが、エルフたちが唯一対等の付き合いを拒まないのがニンフなのだ。ハーフと言えどもニンフの血を引く者であれば、彼らとの商談が可能なのも頷ける。
「あちらは北の国ですから、気候が違うのもよくないのかもしれませんが。最近どうも力が弱まってきてしまって」
正直、それなりの金額で買い取ったので枯らしてしまうのは魔法師塔の沽券にもかかわるのだと師長は苦笑する。
「シルバーバーチと言ったら〝魔女の箒〟ですよね」
「ええ。御伽噺には必須の魔女アイテムですね。子どもたちの憧れだ」
子どもの頃に読む絵本に出てくる魔女たちは、何故か皆、箒に乗って空を飛ぶ。その箒に使われている素材がシルバーバーチだと言われているのだ。
現実的にはどれほど魔力の高い魔女であっても魔法師であっても、人は空を飛べない。
自由に空を飛べるのはある種の虫か、鳥か、或いは竜族だけ。魔力を持つことすら稀有な純人族にとって魔法とは主に調合や栽培に活かされるものであって、それ以上でもそれ以下でもないのである。
「練習しましたね、箒に跨って飛べるかどうか」
「しましたねぇ」
「相棒になってくれそうな黒猫を探してみたりとか」
「はいはい。しましたねぇ」
「うふふ」
自分に魔力があると気づいた子どもの誰もが一度は試してみたくなるもの。
魔法使い〝あるある〟である。
「さあ着きました、ここです。シルバーバーチのガーデンは育ってくれることを期待して、思い切って広くしてみたんですがね」
師長の案内で辿り着いたのは薬草園の外れ、騎士団の厩舎の手前だった。言葉通り、大きな建物が丸々二棟は建ちそうなスペースが広がっている。
「あー、ほんとだ」
「やはりテュシアさんにもわかりますか。魔力が薄れてしまっているんですよね。買い取った当初はもっとキラキラしていたはずなんですが」
キラキラというのは、魔法師たちがよく使う表現だ。
植物の持つ魔力が輝いて見えることからそう表すのだが、魔力含有量の多い植物――つまりは元気な植物ほど輝いて見える。
悔しそうな口ぶりで師長が言う通り、広大な敷地にポツポツと細枝を伸ばしているシルバーバーチは軒並み輝きがくすんでいた。
「どうでしょう。緑の手を持つテュシアさんなら、なんとかできませんか?」
「うーん……」
半年に一度テュシアが登城している理由の主たるものが、これだ。薬草園の調整。
各地から魔法師塔に集まってくる情報を教えてもらったり、反対にこちら側の情報を与えたりする勉強会の開催と、同時に薬草園の調整も任せてもらっている。
近くにある苗木に近づき、しゃがみこんだテュシアは地面に手を当てた。
師長をはじめとした魔法師塔の者たちは、テュシアが植物の生育に長けた〝緑の手〟を持っていると思っている。
が、実は違う。テュシアが干渉するのは植物ではなく、もっと大きな魔力の源そのもの、竜脈なのだった。
竜脈とは大地の下を流れるエネルギーのことで、エルフやニンフ、それに竜族はその流れが目に見えるという。けれど、ただの人や多くの獣人族には見えない。
その竜脈の流れを、ぼんやりとではあるがテュシアも見ることができる。
このことは、師長様にも内緒だ。知っているのは養い親のメルーだけ。テュシアが竜脈を見ていると気づいたメルーから決して口外するなと教えられたため、誰にも打ち明けていない。それだけ人には珍しい能力なのだとか。
「ああ、やっぱり」
探ってみると、付近の竜脈の活性が弱いことがわかる。
以前、この辺りには使われなくなった作業棟があったはずだ。取り壊した後に植えたのだろうが、おそらくそのせいだろう。人工物で土を塞いでいると、竜脈からのエネルギーが届かなくなることが多い。
細い糸をたくさん伸ばしていくイメージで、地中深くに流れる竜脈のエネルギーをいくらか拝借して苗木の根元へと手繰り寄せていく。
植物の生育に欠かせない程度の、ごくごく薄い流れでいい。じわじわと集められたエネルギーが苗木の根に絡むと、次第に若芽が淡く発光し始める。
「よし、できた!」
適当なところで手を離すと、あとは自然にできた竜脈の流れが周囲にも浸透してくれる。
「これで大丈夫だと思いますよ、師長様」
「おお、素晴らしい! 相変わらず見事なものだ」
輝き出した若芽の変化は当然、師長にも見えているのだろう。素直な賛辞をテュシアは面映ゆく受け取った。
竜脈に触れるというのは希少な能力ではあるだろうが、まあ、言ってみればそれだけの地味な力だ。劇的に植物を育てることができるわけでもないし。
そんなわけで、褒められると普通に結構嬉しい。
「しかし……ふむ。何度目の当たりにしても驚きますし、面白いですね。テュシアさんのその力は、どうも我々とは違う気がする」
「そ、そうですか……?」
「ええ。なんと言えばいいんでしょうか。人の持つ魔力とは気配が違うというか」
師長様には竜脈のことを打ち明けてしまっても大丈夫なんじゃないかなと内心で思いつつも、メルーからの忠告を無視するのはよくない気もする。
逡巡するテュシアをじっと見つめ、師長が顎を擦った。
「テュシアさんは、ひょっとしたら遠い血脈にエルフかニンフの者がいたのかもしれませんね。或いは……そうですね、竜族か」
思わず顔をしかめたテュシアに、師長が苦笑する。
「失礼、私の勝手な想像ですよ。気を悪くしたら申し訳ありません」
「あー、いや、そういうわけじゃないんですけど……」
竜族が嫌いなわけじゃない。
わけじゃないのだが、咄嗟に「うぇ」と思ってしまうのは、絶賛関わりたくない男ナンバーワンのあいつのせいだ。ヤツが竜族なのである。
アレは、姿だけならばとても美しい真っ白な竜だった。
けれど中身は知らない。
まともな会話をしたこともほとんどなかったし、問答無用で半ば攫われるようにして彼の国に連れて行かれた後、比較的すぐテュシアは死んでしまったので。
二度ともだ。
別に彼に殺されたとかそんな物騒な話ではないのだが、あの男と関わらず、彼の国へ行くことがなければテュシアはきっと一度だって死ななくて済んだはずだと思っている。
だからテュシアは今世、早々に孤児院を出た。あいつとエンカウントしなくて済むように。
この国では一番竜が多く飛来する故郷を出て、生きる場所も生き方も、全部変えてみようと思った。
いくら前世の記憶があるとはいえ、まだ幼児と呼べる年齢のうちに単身故郷を離れるのはそれだけでも中々にハードモードな道のりだったのだが、それはともかく。
そうまでしても避けたいあれが竜族なので自然と「竜」の単語に余計な反応をしてしまう。
でもって、積極的に自分からその手の話をした覚えはないのだが、何故か皆にはテュシアは竜嫌いなのだと思われているらしい。
なんでだ。
「苦手なもののひとつやふたつは誰にでもありますからね」
「あはは、そうですね……」
曖昧に笑って答えたが、テュシアに他種族の血が混ざっているというのは絶対にあり得ない。
だって二度の前世では魔法など使えなかったのだ。
魔法を使えるようになったのは今世が初めて。
それが何故なのかはわからない。
ひょっとしたら左胸の痣と何か関係があるのかもしれないが、あまり深く追及して考えないようにしている。
痣も魔法も今までの二度の人生とは違っていて、だから実は薄々感じていることがあるからだ。
たぶんこれが最後。今世で死んだらもう、次はない。
そんな予感がしている。
「ところで、テュシアさんも知らないであろう花を手に入れたのですが」
「え、どんな花ですか⁈」
「エキナセアという花です。こちらは獣人の国、ズヴェーリエから渡ってきたものなんですがね。どうやら歯や喉の痛みに効果がありそうでして」
「炎症止めですか? それは万能薬になりそうですね!」
声を弾ませたテュシアに、師長が相好を崩した。
この花の仕入れも師長自らが行ったそうで、少しばかり得意げだ。
「塔のほうで調合しているので、ぜひテュシアさんも参加してください」
「わ、嬉しいです!」
負けていられないなと鼻息荒く、テュシアは師長と共に塔へ足を向けようとして――ぐうぅ、と遠慮なくお腹の虫が鳴った。
おや、と師長が目を見開いた。
「もしかして、朝食を召し上がらなかったのですか?」
「お、お恥ずかしい……寝坊してしまったもので、そのまま来ました」
えへへ、と頭を掻くテュシアに、師長は微苦笑を浮かべた。
なんだか出来の悪い弟子に向けるみたいな視線を向けられた気がするのだが、気のせいだろうか。
「腹が減ってはなんとやら、ですよ。おそらくまだ食堂も開いているでしょう。急いで行ってらしてください」
「すみません、そうします……」
「私は先に塔でお待ちしてますから、焦らずに。ゆっくり、ちゃんとよく噛んで食べるんですよ」
訂正。弟子ではなくて、孫だったかもしれない。
年長者の意見には素直に従うべし。テュシアはびしっと手を挙げて、良いお返事をした。
「ありがとうございます師長様、行ってきます!」
***
薬草園の入り口で師長と別れ、テュシアは使用人棟の一階にある食堂へと急いだ。
早番と夜番の入れ替わり時間も過ぎ、ほとんどの使用人は既にあちこちに散っている時間なので、棟内はガランとしている。
誰ともすれ違わないまま中央にある大食堂に駆け込むと、そこも既に閑散としていた。
「テュシア!」
顔見知りの女中が厨房から手を振っているのを見つけ、笑顔で駆け寄る。
「おはようエリサ!」
「もう! おはようじゃないわよ、どこ行っちゃったかと思ったじゃない」
「ごめんごめん。寝坊しちゃったから、先に薬草園に行ったの」
「で、お腹が鳴って、師長様に食事してらっしゃいって送り出された?」
「うわ、なんでわかるの……?」
あまりにぴたりと言い当てられて慄くテュシアに、エリサがやれやれと首を振る。
「それはね、テュシア。これで三度目だからよ」
「あれ?」
そうだったっけ? 小首を傾げたテュシアに笑って、エリサが卵を持ち上げてみせた。
「卵はいるよね?」
「いる。半熟で」
了解、と早速卵を割りながらエリサが言う。
「この前会ってから、もう半年経ったのね。久しぶりだけど、あんまり久しぶりな感じがしないわ」
「うーん、そうだけど……エリサはちょっと変わった? 綺麗になったよね」
「やめてよ急に、なに?」
手際よくトレイに皿を並べながら、エリサがはにかむ。
癖のある赤毛の傷みを気にしていた彼女に、テュシアお手製の香油をわけてあげたのが親しくなるきっかけだった。かつてはパサついてみえた髪は、いまではもうすっかりしっとりまとまっているし、それになんだか肌艶もいい。
思わずまじまじと彼女の顔を見つめてしまい、それで思い出した。
「そうだエリサ、結婚おめでとう! わかった。なんか輝いてみえるのは新婚だからだね?」
「うん、だって幸せだもの」
いくらか恥じらいながら、それでも頬を赤く染めてエリサが臆面もなく惚気る。
あまりに堂々と惚気られて、かえってテュシアのほうが照れてしまった。
「そ、そっか。さすが新婚さんだね……」
「やだもう、なんでテュシアのほうが赤くなってるのよ。その調子だと、おめでたい話を聞けるのはもっと先かしらね。半年もあったんだから恋バナのひとつやふたつは聞かせてもらえるんじゃないかと期待してたんだけど」
「あ、あー……うん、そういうのはないかな」
「相変わらずねぇ。枯れてるっていうか、なんていうか」
卵を焼きながら、エリサが呆れたように笑う。
ジュウジュウと音を立てて焼けるソーセージの良い匂いがする。
「エリサ、お腹空いたぁ」
「色気より食い気ね。テュシアらしいけど。でもねぇ、もったいないわぁ。テュシアは可愛いんだから、その気になったらモテるのに。知ってる? 魔法師塔でもテュシアが来るのを心待ちにしてる奴らが何人もいるんだから」
「え、そうなの?」
全然知らなかった。
緩く波打つ小麦色の髪に、翡翠の瞳。鼻はあまり高くないけれど、ふっくらした頬は柔らかく、小ぶりの唇は化粧などしていなくても薄紅に色づいている。
なんとなく、テュシア的には自分の見た目はちょうど中くらいの中くらい、だと思っていた。行きつけの商店のおじちゃんやおばちゃんには「可愛い可愛い」と言ってもらえるけれど、あれはそういう意味ではないだろうし。
ピンとこなくて首を捻るテュシアに、エリサが肩を竦めた。
「その様子じゃ、誰にも脈はなさそうね」
「うーん、とりあえず楽しく仕事ができて、平穏に長生きできたら私はそれで充分幸せかなぁ」
「そういうセリフは四十年後くらいに言うものでしょうに」
いや実は五十五歳なので。
――なんて、言えないけど、あれ? ひょっとして、巷に聞く〝青春時代〟とかいうやつをすっ飛ばして五十代になっちゃったせいで、この年にしてもう枯れてしまっているとか……? 突然思い至った可能性に、テュシアは「ひぇ」とひとり百面相をした。
「ちょっとどうしたの? 面白い顔になってるけど」
「な、なんでもないよ……あはは……」
「そう? まあ、いいわ。はい、お待たせ。卵の半熟、美味しくできたわよ!」
差し出されたトレーには、ぴかぴかの朝食が乗っている。
くたくたに煮えた野菜の入ったマイスのミルクスープに、ソーセージと目玉焼き。それにサラダと、ふかふかの白パンが三つも。なんとも豪華だ。
師匠とふたりだと朝は前日に焼いたパンの残りと薬草茶で済ませてしまうことが多いので、実はここの朝食も出張が楽しみな理由のひとつだったりする。
「ぐふふ、嬉しいなぁ。今日も美味しそう!」
「また今度は変な笑い方して、テュシアってば。さ、熱いうちに召し上がれ。急いでるんでしょ? 片づけはこっちでやっておくから、終わったらそのまま行っていいわよ」
「助かる、ありがとうエリサ!」
「いいのいいの。テュシアには感謝してるんだから」
言いながら両手を掲げてみせるエリサの指先は、毎日の水仕事にも関わらず、さほど荒れていない。テュシアがあげたクリームがしっかり効いているようだ。
「うふふ」
「にひひ」
共ににんまり笑い合い、テュシアはトレーを持って近くの席へと向かった。
ゆっくり味わいたいところだが師長を待たせてもいけない。
席に座ったテュシアはまず、スープを一口。その温かさにほっと息を吐いてから、猛然とフォークを動かし始めた。
なにを隠そう、早食いは得意である。
もちろん、噛まずに呑み込むなんてもったいないことはしない。しっかり味わった上での早食いだ。師匠に拾われてからの毎日で身に着けたテュシアの特技である。
ちょっと驚かれるくらいのペースで皿の上のものを空にして、テュシアは満腹になった腹を擦りながら腰を上げた。
「ごちそうさま! エリサ、ありがとう美味しかった! じゃあ、またね!」
厨房のエリサに手を振って食堂を出ようとすると、
「あ、ねえ! そういえばテュシア」
「うん?」
呼び止められて足を止める。
「あなた、こんな時期に来ちゃって大丈夫だったの?」
「こんな時期?」
「まさか気づいてないとか、ないわよね? だってテュシアってば」
「え? なに?」
きょとんとするテュシアに、エリサが微かに眉を寄せた。
「今日は式典だから……と思ったけど、ま、いいか。どうせ宮殿のほうには行かないわよね?」
なにかを言いかけて思い直したように口を噤んだエリサに、テュシアは首を傾げた。
「……? 宮殿なんか行かないよ。塔と薬草園はうろうろしていると思うけど」
「そうよね、それなら大丈夫。引き留めてごめん。行ってらっしゃい」
「うん、じゃあまたね。行ってきます!」
ニコニコと手を振り合って、テュシアは小走りに食堂を後にした。
エリサだって忙しいのに、いつも笑顔ですごいよなぁ。あれも新婚の余裕ってやつなのかなぁ、とかぼんやり考えながら。
だけど本当はこのとき、もう少し落ち着いてエリサと話しておくべきだったのだ。
二度も死ぬ羽目になった魔の十八歳も、もうすぐ過ぎる。
そして、かつて竜と鉢合わせた辺境伯領からは遥か離れた土地にいる。
しかも今のテュシアは魔女だ。
大した魔法は使えないけれども、前の二度のテュシアとは一味違う。
だから大丈夫。今世ではきっと、あの面倒なヤツには捕まるまい。
そんな風に根拠もなく、楽天的に思っていたから。
ついでに久しぶりの登城に浮かれてもいたから。
そう。テュシアは油断していたのだ。
エリサが言いかけたことを、きちんと最後まで聞いておくべきだったのに。




