第19話 私のこと好き?
メルーがいなくなって、大人しくしていろと言われたところでテュシアの日常はあまり変わりがなかった。メルーのいない調合部屋で彼女の置いていったレシピを元に薬を作り、厨房で食事を作る。
部屋に閉じこもっているほうが安全なのかもしれないが、それも癪だ。
首輪の解呪が可能になるまで、あと五日。
そして遂にテュシアの魔の十八歳が終わる日まで、あと一日。
根が楽天的なテュシアではあるが、かつての自分はミエーネに殺されたのかもという疑念を持ってしまってからは、さすがに今までみたいに安穏とはしていられなかった。
でも、それも明日までだ。明日で十八歳が終わる。
それで完全に大丈夫とは言い切れないけれど、気持ちの面では安心感がだいぶ違う。
「あと一日、か」
メルーが去ったのと相次いで、城のなかの雰囲気がピリピリし始めていた。それはどうやら、ドライヤダリスでの調印式が近づいているかららしいのだが。
それも明日だ。
明日、王がドライヤダリスに発つと聞いた。
かの国との調印式は二百年に一度だが、タイミング的にはチェロヴィクでの式を終えたあとに執り行うのが慣例になっているらしい。そしてどうもその調印式で二百年前になにか事件があったらしいのだが……詳しいことは教えてもらえなかった。
ただなんとなく、アミやスウスの言葉の端々から亡くなった先代の王が関係しているのかなと予想している。
「セシオンは大丈夫なのかな……」
歴代最強の王と言われているらしいセシオンだから、心配はいらないのかもしれない。だけどどうしてだが、もやもやと不穏な予感がして拭えないのだ。
ベッドに入ったはいいけれども寝つけないまま、テュシアはぼんやりと窓の外を眺めた。
一度目の前世、最後に見たのもここからの空だった。
いまは夜だから、外は真っ暗だ。それでも目を凝らしていると、チカチカと瞬く星々を見つけられる。
トン、と扉を叩く密やかな音を耳が拾ったのは、深夜に近づいた頃だ。
「どうぞ」
そうだったらいいのになという期待と、違っていたらどうしようという不安と。静かに扉が開くまでの短い間に、目まぐるしく巡る感情にテュシアの鼓動が跳ねた。
そして、滑るように入ってきたシルエットを目にした瞬間に、テュシアは自分でも思いがけず毛布を撥ね退けてベッドから飛び出していた。
一直線に部屋を横切り、ぶつかるようにしてやってきた者へと抱き着く。
「テュシア……?」
予想だにしていなかっただろう行動に戸惑う声をしていながらも、頑丈な胸は危うげなく飛びついたテュシアを受け止めた。
躊躇いがちに肩を押し戻そうとする手に抗い、ぎゅうぎゅうと背中に回した腕を絞めつける。しばらく迷うように肩に触れていた手が、やがておずおずとテュシアの背に回された。
突き放そうと思えば簡単にできるはずだ。
なのに、そうしない。
それは、こちらに一瞥もくれなかったいつかの冷たい彼じゃなく、おまえは奴隷だと苦しそうに言い放った乱暴な彼でもなくて、テュシアが知っていたはずのセシオンだ。
そのことが嬉しく、安堵もして、テュシアはますます強く彼を抱きしめた。
「何しに来たの?」
胸に顔を押しつけているせいで、くぐもった声になった。
口にしてしまったのは可愛くない一言だったが、それだけ言うのが精いっぱいだったのだ。
セシオンの匂いがする。最初は無臭だと思っていたのに、いつからだったろう。テュシアの鼻はいつの間にか彼の匂いを憶えてしまっていた。
涙が出そうだ。
「話を……しに来た」
答えた声が微かに震えている。なにかに耐えるみたいに、顔を押しつけた胸が数回、深く上下した。
「まだあと五日あるよ」
首輪の解呪が可能になるまで、まだあと五日ある。
自分が何を求めているのかもよくわからないままで、テュシアはそう言った。
「それは……ああ、そうだな。星が廻るか」
今思い出したとでも言わんばかりの口調に、テュシアはようやく顔を上げた。
「その話をしに来たんじゃないの?」
「違う……いや、そうでもあるんだが」
言い淀むセシオンの顔からは、いくら見つめてみても彼がなにを考えているのか読み取れなかった。
不器用な奴なのだ、とアミは言っていた。
だけどテュシアの知る夜のセシオンはいつもとても表情豊かだった。いつも少しばかり表情筋が死んでいるだけで、無表情に見える顔の下にはいろいろな感情が隠れている。
それを察知できるようになっていたと思ったのに。
何も。何もわからなかった。
「じゃあ……何の話?」
「すまない、この体勢では」
微かに眉尻が下がり、そこでようやく彼が困っているらしいことがわかった。
「離れたい? 離れたいなら突き飛ばしてよ。いいよ、そうして」
「テュシア……」
もう一度ぐりぐりと胸に顔を押しつけてから、テュシアは衝撃に備えて身を固くした。
けれどいつまで待っても衝撃はやって来ず、代わりにやんわりと肩を押される。そして諦めて身を引こうと瞬間に、ふわりと身体が浮いた。
「うぎゃっ⁈」
「おまえはいつも……」
子どものように抱き上げられて、着地したのは長椅子に腰を下ろしたセシオンの膝の上だった。
「いつも、そうやって俺を困らせてくれる」
同じ高さで視線が絡む。セシオンの瞳には哀し気な微笑が浮かんでいた。
「明日、ドライヤダリスに発つ」
知っている、とテュシアは頷いた。
抱き枕だったのだ。至近距離で見つめ合ったことは、これまでにもたくさんあった。それなのに、いやにドキドキしてしまう。
久しぶりに間近で目にしたセシオンの顔はまだいくらか窶れてみえるけれど、やっぱりとても綺麗だ。
「調印式、だよね」
しかし彼の口調から大事な話をしようとしているのだと察したテュシアは、慌てて呼吸を整えた。
「ああ。式典のあとで夜会がある。その後、すぐに帰城する予定だ」
「泊まらないの?」
「あの国には長居できない」
「そんなに危ないの……?」
「そうだな、エルフは危険だ」
竜は強い。その竜がこれほど危険視しているエルフとは、いったいどんな種族なのだろう。
「前の王サマ……」
思わずぽろりと呟くと、知っていたのかとセシオンが頷く。
「そうだ。先王はエルフに殺された」
薄々予想していたことだったけれど、直接肯定されるとぞっとする。
セシオンの大きな手がそっとテュシアの頬を包んだ。
「迷っている。おまえのことだ」
「私?」
「ああ。調印式の日程を組むときに考えるべきだったんだが。星が廻るまでに五日、離れていても平気なのは三日だ。俺が死ねば、自ずと魔法は解呪される。だが万が一、死なずに囚われてしまった場合には――」
平然と話すセシオンの声を、テュシアは大声で遮った。
「待って! 死ぬってなに? 捕まるってなに? なんでそういうことになるの⁈」
「相手がエルフだからだ。そういうこともあり得る」
「そうじゃなくて! なんでそんなに平気そうに言うの? 危ないかもしれないのはセシオンなのに!」
動揺するテュシアを宥めるみたいにゆっくりと頬を撫でながら、セシオンは静かに答えた。
「俺は王だ。王とは、そういうものだ」
「そういう、もの……?」
自分の命なんか、どうでもいいと言わんばかりだ。
「迷っているのは、おまえだ。連れて行くのは危険すぎる。しかし、拘束される恐れがあることを考えると、ここに置いて行くのも同じだけ危ない。だからもし明日中に俺が戻らなかったら、すぐさまチェロヴィクに戻れ。おまえの師に解呪を試みてもらうと同時に、カマラとアミにはどうにかして俺を殺してもらうつもりだ。いいか?」
「いいか、って……」
「死なずに囚われてしまったら、極力速やかに自害するつもりではいる。だが、それができない状況に陥ることも考えておかねばならない。おまえには不安な思いをさせるが」
あまりにも淡々と、それでいて信じられないことばかり言うセシオンの口を、テュシアは両手でぐっと塞いだ。
「もういい! セシオンのバカ!」
彼の語る策は、すべて自分の身が犠牲になることを前提としてのものだ。
そんなのは聞きたくない。
口を塞いだ手で、テュシアは今度はセシオンの両頬を思い切り引っ張った。子どもの喧嘩みたいなことしかできない自分が情けなくて悔しいけれど、この憤りをぶつけるほかの方法がわからない。
頬を引っ張られているセシオンも変な顔になっているが、自分も大概だろう。そう思いながら、今度は彼の額にゴンと頭突きをする。
「痛っ! もう、自分のほうが痛いってなに? セシオンの石頭!」
涙目になって目を上げれば、唖然としていたセシオンの表情がじわじわと、見たことのない形に変化していく。
それはまるで花が綻ぶような変化だった。そうして、おかしくてたまらないというふうに、セシオンが笑い崩れる。
「な、何を……おまえは……ふっ、くくっ」
まさしく爆笑だった。肩を震わせ、喉を引き攣らせながら声を上げて笑っている。
「笑った……セシオンが笑った!」
それまでの怒りも忘れて叫んでしまったのも、仕方がないだろう。
「俺だって笑うことくらいあると言ったはずだが? 本当におまえは俺を、いったい何だと思ってるんだ?」
「えっと……仏頂面の王サマ?」
「なんだそれは」
「冷血な氷竜王、ってのは間違いだって知ってるけど、でも仏頂面だから」
「そうか。まったくおまえは、いつも予想外の言動をする」
まだ笑いの余韻を残したまま、セシオンが柔らかく目を細める。
「ああ本当に、おまえは可愛いな」
想いが溢れてしまった。そんな眼で、テュシアを見る。
じわじわと頬が熱くなった。
いくら図太くなった魂年齢五十五歳でも、愛や恋を知らずにきたテュシアはその点に関してだけは普通の十八歳と変わらない。真っ赤な顔になってしまったことを自覚していながらも、必死に言い返した。
「そ、そういうことは好きなひとにしか言わないんだよ!」
「そうだな」
なのに、セシオンはあっさりと答えた。
焦るテュシアとは裏腹に、彼は見たこともない穏やかな表情を浮かべている。
「テュシア、俺はお前が好きだ」
「……へ?」
「ずっと自分でも気づいていなかったが、初めからだ。おまえが愛しい」
「う……え……あぅ……」
言葉を失くしてあたふたするテュシアの髪を、セシオンは愛おしむように撫でた。その手が頬に滑り、感触を味わうみたいに指先が肌をくすぐる。
「一度だけでいい。唇に触れてもいいか?」
答えられずにいるうちに、ただでさえ近かった距離がますます縮んでいく。
テュシアは紫色の瞳を呆然と見つめた。
すっかり見慣れてしまった縦長の瞳孔が目の前にある。セシオンもまた、瞬きもせずにテュシアを見つめていた。
互いの唇が触れ合うまで、あとほんの僅かな距離しかない。
「テュシア、愛してる」
囁く声に、心臓がバクンと跳ねた。
それと同時にカッと痣が熱を持った。
「なんで……」
いつも以上に熱く痛む痣の上を片手で押さえつけながら、テュシアは真っすぐにセシオンを見つめた。
「なんで、一度だけ?」
誤解したのだと思う。セシオンが悲しそうな顔で謝罪する。
「すまない」
「なんで謝るの? なんで一度だけ? 嬉しかったのに。私だって好きだよ」
「……な……?」
「私だってセシオンのことが好きだよ!」
人生で初めての告白だったのに、色気もなにもありやしない。ほとんどやけくそみたいに叫んだテュシアの前で、セシオンが固まる。
「ちょっと! どうしてそこでびっくりするの⁈ 私だってセシオンのことが好きだってば!」
「俺は……まさか……いや、その、テュシア、本当に……?」
「初めからじゃなかったけど、でもいつの間にか好きになってた。もうずっとだよ!」
信じられないといった顔つきで、セシオンが目を見開いている。
「だが、俺はおまえにひどいことを……奴隷だなどと」
「奴隷扱いしたことなんか一度もなかったじゃない。私の嫌がることはしたくないって、言ったのはセシオンだよ? ……あー、たしかに一回だけひどいこと言われたけど」
あれもきっと勘違いじゃなかった。
テュシアもわかっていなかったけれど、セシオンもわかっていなかった。
だからそういうことだ。どこにも行くなと言いたかった、それだけ。
「あの時は私が帰りたいって言ってたから怒ったんでしょ? 寂しかったんだよね?」
「……そう、だ」
バツが悪そうに目を伏せたセシオンの首にテュシアはぎゅっと抱き着いた。
そして、心のなかで思う。
ねえスウス。やっとわかったよ。
――それでも見つけてしまったら。出逢ってしまったら。もうどうにもならないんですよ。
本当だった。もうどうにもならない。
気づいてしまった想いには蓋をして、思い出にできればいいなんて間違えてた。そんなことはできるはずがなかったのに。
彼に会えたと思った瞬間には走って飛びついてしまうくらいの、そんな想いに蓋をするなんてできるはずがなかったのに。
「もう一回言って?」
なにをとは言わなかったのに、セシオンは迷いもしなかった。
「愛してる。テュシア、愛してる」
湿った声で言いながら、テュシアの身体をきつく腕のなかへと閉じ込める。
「テュシア……離したくない。どこにもやりたくない。だが、俺は……」
「うん」
「俺は、おまえになにも与えてやれない」
「……うん?」
「おまえに……おまえと番たいのに、俺の竜珠は……」
なんだそうか、と腑に落ちた。
そんなことに悩んでいたのか、と。
「欠けてるんだよね。知ってる」
「知って、いたのか」
「アミが教えてくれたから」
そうか、と呟くように応じたセシオンの声は暗い。
「ねえセシオン。私は竜じゃないから、セシオンが番じゃなかったとしてもどうでもいいんだ」
「どうでも、いい……?」
「うん、どうでもいい。番かそうじゃないかは関係なくて、好きだと思ったひとから好きだと言ってもらえたらそれだけで幸せなんだよ」
たとえいつか、セシオンの本物の番が見つかったとしても。
それはそれで仕方がないと覚悟を決められるくらいには。
「長生きしたいとは思ったけど、別に何百年も生きたかったわけじゃないし。何かが欲しくてセシオンのことを好きになったわけでもない。だから竜珠はいらない」
本当は、怖くないと言ったら嘘になる。いつかセシオンの本物の番が見つかってしまうかもしれないことも、自分だけが老いていくのにいつまでも変わらない彼の傍らに居続けられるかどうかも。
だけど、おまえは考えるのには向いていないとメルーにも言われた。まったくその通りで、考えるのには向いていないから、そんな先のことまではどうでもいいと思ってしまうのだ。
そう口にすると、セシオンの抱き締める腕の力が強くなった。
「俺は耐えられない。おまえがたった数十年で先にいなくなるなど……っ」
「そうは言うけどね? どっちかというと、心配なのは私のほうだよ。私ばっかりどんどん老けていくのに、セシオンはずっと綺麗なままでしょう? 愛想つかされちゃうんじゃないかと思ったら怖いよ」
「そんなことはない! どんなおまえでも変わらず愛しいに決まっている!」
「そういうところだけ断言するんだから、ずるいよね」
テュシアは身を起こし、セシオンの頬を両手で包み込んだ。そしてメルーにしてもらったのと同じように、こつんと額を合わせる。
覗き込んだセシオンの瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。
「私のこと好き?」
「好きだ」
「じゃあ、いいじゃない。私も好き。セシオンも好き。ほら、幸せだね」
言い聞かせているみたいでいて、実は単純に自分がそう思っているだけだったりする。
うふふと笑うと、セシオンの目も緩んだ。
近づいてくる唇を、けれどテュシアは顔の前に翳した両手で受け止めた。
「テュシア……」
へにょりとセシオンの眉が下がる。
だけど、やっぱり今じゃないとテュシアの心が言っている。
ぐいとセシオンを押し退けて、テュシアは立ち上がった。
「まだ駄目」
「俺に触れられるのは……嫌か……?」
「そうじゃなくてね。お預け」
「うん?」
「帰ってくるまで」
ハッとした顔でセシオンが目を見開いた。
「明日の調印式から、無事に帰ってきたら」
「そうか……。そうだな」
噛みしめるみたいに頷いたから、セシオンにも伝わったはずだ。
思い出になんか、させてやらない。
これが最後かもしれないから、なんて、乙女の唇はそんなに安くないのだ。
「ね、ほら、なんとしてでも帰ってこなくちゃいけないね?」
自分を犠牲にすることを当たり前に思わないで欲しい。
それが王なら、そんなものやめてしまえばいいのに。
言わないけど、言うつもりもなかったけど、顔には出てしまったのかもしれない。
「ああ……本当におまえは……」
急に顔を歪めたセシオンが言葉を詰まらせた。
それを見て、この短時間で驚くほど表情豊かになったなとテュシアは目を見張った。
「必ず……戻る」
「絶対ね。帰って来なかったら、泣くから」
「それは……困る」
セシオンは、ふっと吐息交じりに小さく笑った。
「帰ってきたら、まずはデートをしよう」
「ああ、そうだな」
すぐさまセシオンが肯く。
「それで、メルーにも報告ね」
「あ、ああ、そうだな……」
今度は少しばかり引き攣った声だった。
「それでね、またあそこに連れて行ってくれる?」
「王の叢か。いつでも何度でも連れて行ってやる」
「今度はエテリアを採取してみたいんだ」
「わかった、俺に任せろ」
何を言っても肯定を返してくるセシオンに、テュシアの喉がぎゅっと詰まった。
急に不安が込み上げてくる。
だけど、それを顔に出しちゃいけない。
そう思ってみて、ふと疑問が湧いた。
昔――前世と、前々世の時と、テュシアの知る今のセシオンと、あのセシオンは同じセシオンだ。わかりにくいけれど、そしてたしかに不器用かもしれないけれど、こんなに優しいひとだ。
変わったのは彼じゃなく、きっとテュシアのほう。一度目の昔も、二度目の昔も、彼の本当の心にテュシアが気づけなかっただけ。
たぶん、それだけのことではないだろうか。
「あとね、明後日で私十九歳になるから。無事に帰ってきたら一緒にお祝いする権利もあげるね。ミラベルのケーキを焼くよ」
「誕生日、なのか?」
「そう。明日で、魔の十八歳も終わり」
「魔の……?」
訝し気な顔するセシオンに、なんでもない、と首を振った。
「そうか……十九……おまえはまだ、たったそれしか生きていないのか」
「あー、うん。そりゃあ竜と比べたらねぇ」
正確には五十五年かもしれないけど、それはまあ内緒でいい。
「明後日だな。必ず、一緒に祝おう」
そう言った声には力強さがあった。
それでも何故か、依然として嫌な予感は消えていない。けれどセシオンの眼が前を向いたことがわかったから、それで大丈夫だと信じたい。
「テュシア、シア。帰ってきたらもうひとつ褒美が欲しい。いいか?」
「なに?」
「セオと呼んでくれ」
ああもう、可愛いなぁと悶えそうになった。
たったそれだけのことが褒美だなんて、欲がないにもほどがある。
「いいよ。帰ってきたら、ね。何度だって、いくらだって、この先ずーっと名前を呼び続けてあげる。だからね、気をつけていってらっしゃい、竜王サマ」
明日の見送りはしない。
今は頑張っているけど、きっと泣いてしまうと思うから。
だから朝になって、セシオンがこの部屋から出て行く時がテュシアのお見送りの時間だ。
「待ってるから、ここで。夜には、この部屋で」
「わかった」
好きな場所にいてもいい、とはセシオンも言わなかった。
代わりに両手を広げ、抱き枕を迎える姿勢を取った。
「夜には帰る。そうしたら、いつものお茶を淹れてくれ」
「任せて。よく眠れるように、アルケミラの雫を多めに入れてあげる」
ぎゅっと抱き締められながらシーツに潜り込んだら、お喋りの時間は終わりだ。
慣れた匂いと温もりにきつく目を閉じて、いつもならすぐに寝息を立てるセシオンがそっと額に唇を寄せてきたことには気づかなかったふりをした。




