第16話 涙
そうしてテュシアたちが食堂で蟠っているのと同じ頃、子竜たちを適当なところで放流したセシオンはミエーネを伴い執務室に戻っていた。
中庭の向こう側にテュシアがいたことには気づいていた。どこかへ出かけていたらしいアミと魔女が戻ってきて、共に居館へと入っていったことも。
彼らがなにを話しているのか、聞こうと思えば聞けた。が、そうはしなかった。
耳をそばだてることで知りたくない事実まで知らされたくはない。
「……の件ですが、そろそろ対処しておく必要が……。……種は……なので、揉めると後が厄介で――」
すうと息を吸う音に続いて、「おい!」というカマラの怒声が響いた。
「てめぇ、さっきから俺の話聞いてたか⁈」
「あ……」
「『あ』じゃねぇ! ったく。ここんとこ、ずっとだぞセシオン」
カマラが舌打ちする。
「もういい。今日は休め」
「しかし」
「そんな調子じゃ決まるもんも決まらねぇ。休んで、いい加減しゃっきりしろ」
「だが」
「なにをウジウジしてんだか知らねぇが、おまえがそんなんじゃ困るんだよ。じきにドライヤダリスの調印式だ。それまでに調子を戻しとけ」
集中できていない自覚はあるだけに、反論することもできなかった。
逡巡していると、更に強く促される。
「ぼんやりした置物が座ってるくらいなら、勝手に片付けたほうが早い。邪魔だ」
ちらりと目をやったミエーネはこちらに目もくれず、黙々と書類を捲っている。
セシオンはのろのろと腰を上げた。
「すまない」
鼻息で返事をして片手を振ったカマラに急かされるようにして執務室を後にする。
休めと言われたところで、休んでどうなるものでもないのだが。
自室に戻ろうと足を踏み出しかけたところで思い直し、塔の上部へと行き先を変える。階段を昇り、外に出ると胸壁に手をつき辺りを見渡した。
谷を渡る乾いた風が鼻先を擽って流れて行く。
ここからの眺めは昔から好きだった。地に足を着けていながら城郭だけでなく、ファトスの街やその先の村々まで一望できる。
竜とは本来、自由な生き物だった。竜そのものの姿で、空を中心に暮らしていた時代もあったと聞いている。遠い遠い、昔のことだ。
あまりに不穏な小競り合いが続く大陸の趨勢を見兼ねて、自ら覇者となることを何代も前の王が決めた。その瞬間から、竜は自由を手放したのだ。
以来、連綿と続いてきた平穏を、たとえそれが表面上のものだったとしても、自分の代で壊してはならない。ここから国を見下ろしていると、自然とそう気が引き締まった。
セシオンは、風に乱れた髪を片手で掻き上げた。
見慣れた景色に目を細める。
兄のように、父のように、慕っていた者がいた。先代の王だ。綺麗な黄金色の鱗をした竜だった。
二百年前、彼は自らの命を賭してこの国と、次代を引き継ぐ王を守った。
ヒュードルは、竜の国と銘打ってはいるが、はぐれ者たちが寄せ集まってできた国である。どこの国にも属さない、属せない者たちが肩を寄せ合うようにして集った場所がそのまま国になった。
初代の王がそう定め、一度そうして国が出来上がってしまったら、あとは王のやるべきことなど他の国と変わらない。人の国でも、エルフも国でも。為政者の成すべきことはその国に暮らす民の命を、暮らしを守るための施策を執り行うこと。
大地の下に流れる竜脈を制御するというこの国の王にしかなせない大事を除き、残りはほとんどが雑務でしかない。それが政というものだ。
けれど、不満はなかった。
ここは歴代の王が守った国であり、先代の王が守った国だ。竜珠の欠けた自分にはたとえ番を見つけられなくても、自らの血を遺せなくても、民を子と思い、彼らのために成すべきことを成せばいい。正しく王であり続けられれば、それでいい。それが自身に課された義務であり、唯一の生きる理由だと思っていた。
そう思っていた……はず、だったのに。
遮ることなく吹き付ける風に乗って、甘い匂いが届く。テュシアの匂いだ。
もう何日もテュシアに触れていない。千年を超えて生きる竜にとって、数日など、さして問題にならない時間だ。それなのにこのところの一日、一日がいやに長く感じられる。
満足に眠れていないせいもあるだろうが。
遠くを眺めていたはずの目が、無意識に居館の一点へと注がれる。
あそこに彼女がいる。
テュシア。
どれほど微かなものであっても、無意識のうちに己の鼻が彼女の匂いを嗅ぎ分けてしまっている。
妙に落ち着く心持ちがして、それでいて理性を掻き乱されるようでもあり、凶暴な竜の本性が暴かれてしまうようでもある。彼女の甘い匂い。あれはいったい何なのだろう。
遠くにある匂いを少しでも近くに感じたくて、すうっとセシオンは息を吸い込んだ。
初めの頃は、テュシアがこの城にいると思うだけでいくらか気持ちも安らいだ。
だが、今は駄目だ。それだけでは足りない。
しかしでは、何が足りないのかと言われれば、それがわからない。
この腕の中に捕らえて、閉じ込めて、テュシアのすべてを自分のものにしたいと凶暴なまでに思う。
ただそれは、無理やりにでも奪ってしまえるものでは、きっとない。最後に見た彼女の哀しい眼差しがいまも脳裏にこびりついている。
笑っていて欲しい。
泣かれると苦しい。
思えば一瞬にして焦がれてしまったチェロヴィクでの出逢いのあの瞬間から、彼女の涙には胸を掻き乱されて仕方がないのだ。自分を害する者なのではと疑っていながらも、宥めることに必死になってしまっていたくらいに。
奴隷などではない。
卑劣な魔法を使ってしまったが、彼女を奴隷だと思ったことなど、断じて一度もない。それなのにあろうことか、面と向かっておまえは奴隷だと言い放ってしまった。
次に顔を合わせたとき、テュシアはどんな目を向けてくるのだろう。それが恐ろしくて、どうにも会いにいく勇気が出ない。
とんだ臆病者だ。
もし欲に溺れた自分が下手な命令を口にして、それがテュシアの首を絞めてしまったら。そうならないという保証がないことも恐ろしい。
彼女を自らの手で殺してしまう。そんな恐怖は、想像だにしたくないというのに。
「テュシア……」
国に帰りたいと口にしていた彼女を老獪な魔女に奪われると思った、あの夜の激情はとうに消え失せている。
いっそ目の届かない、匂いの届かないチェロヴィクに帰してしまったほうがいいのだろうと思いもする。
隷属の解呪がなせるまで、もう半月足らずだ。それまでの間は彼女に近づかず、帰りもアミに送らせればいい。
そうすれば、きっと彼女はすぐに忘れる。
ここでの日々も、セシオンのことも。
セシオンの目元がくしゃりと歪んだ。
「……駄目だ」
忘れてなど欲しくない。
自分の元を離れることなど許せない。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ……ッ!」
セシオンは拳を握り、目の前の胸壁へと叩きつけた。
国に帰してしまえばいいなんて、嘘だ。
どこにもやりたくない。
自分だけのものにしたい。
いつでもこの腕のなかに閉じ込めて、あの翡翠の瞳に自分の姿だけを映したい。
「テュシア……テュシア、愛してる……」
彼女が楽しそうならば、それでいい。それが嬉しい。
本当は、ただそれだけなのに。
それだけでいいはずなのに。
「愛してる……愛してるんだ……」
呟いた己の声に涙が滲んでいることに気づき、次いでセシオンはハッとした。
「俺は今……」
いったい何を口走った?
「愛している、だと……?」
誰を?
テュシアを?
愛して……いる……?
呆けたように遠くを見つめ、セシオンは半ば無意識に胸元を握り締めた。
「ああ、そうか……」
そうだったのか。
自分はテュシアを愛しているのか。
この感情がそうなのかと、理解してみればすとんと胸に落ちる。
「愛している、テュシア」
けれどその途端に、別種の哀惜に胸が締めつけられた。
人のテュシアと、竜のセシオンと。互いに生きる時が違いすぎる。
もしも彼女がセシオンの番だったとしたなら、まだ望みはあったろうかと自問して、すぐにそれもないと否定した。
人である彼女には、番を見つけられない。
竜珠の欠けたセシオンにも、番は見つけられない。
そしてどのみち欠けた竜珠では、テュシアに何も与えてはやれない。
「俺は……」
どうしてこんな身体に生まれついてしまったのか。
セシオンは、その場に膝をついた。
まだ、何ひとつ失ってなどいない。そのはずなのに、ひたひたと押し寄せる喪失感が胸を浸していく。
生まれてから一度も流したことのなかった涙が一筋、頬を濡らした。
「テュシア。すまない……すまなかった」
チェロヴィクで出逢ったあの夜、どうして彼女にあれほどまでに焦がれたのか。それは一目で彼女に恋をしていたからだった。
気づかなかった。
自分ですら気づいていなかったその気持ちのせいで、テュシアには不自由を強いた。それはセシオンの身勝手さのせいだった。
隠れていた感情を見つけてみれば、自身の咎だけが浮き彫りになる。
帰りたいと彼女は言っていた。チェロヴィクが彼女の家なのだ。
その時が来たら、迷わず解放してやらねばならない。彼女を、彼女のあるべき場所へと。
「……ないでくれ……テュシア、行くな……俺を置いて」
行くなと、そう言えたらいいのに。
こそりとも鳴らない欠けた竜珠のある左胸を、セシオンはひとり、きつくきつく握り締めた。




