第14話 おまえは俺の奴隷だ!
(side.セシオン)
聞かなければよかったと、悔やんだところでもう遅い。セシオンはひとり中庭に佇んで、きつく奥歯を噛みしめた。
素っ頓狂なテュシアの絶叫が響いてきたから、何事かとつい耳を傾けてしまったのが間違いだった。
首輪が外れたら。国に帰るのかと問われ、帰るに決まっている、と答えていた。
――なんで? 首輪がなければ別に離れても死なないでしょう?
心底不思議そうな声だった。
途端にセシオンの心が凍りつく。
どうしてだ? どうして、そんな風に言える?
――私は竜じゃないし、竜に興味もなかったし。関係ないもの。
関係ない、と彼女は言い切った。
関係ない。
そうだ。たしかに関係ないだろう。そのはずだったろう。
セシオンが隷属の首輪などを嵌めなければ。そうしたら彼女はいまもチェロヴィクの魔女の元で平穏に暮らしていたはずだ。
しかし、それでも!
彼女を城に連れてきてから、もう一月近くになる。
初めの頃は怒ってばかりいたが、このところはごく普通に笑いかけてくれるようにもなっていた。ここでの暮らしも、それなりに楽しんでいると言っていた。
それなのに、そうもあっさり「帰りたい」と言うのか。
セシオンを置いて。
未練のひとつも残さずに。
噛みしめた奥歯が頬の柔肉を食い破る。口のなかに血の味がした。
胸のうちに激情が吹き荒れる。
連れて帰ると、遅れてやってきた魔女は言っていた。もう二度と攫われないよう防御の魔法でもかけようか、と。
テュシアの師だというあの魔女は、おそらくただの魔女じゃない。
そうすると彼女が言うならば、確実にそうするだろう。
奪われる、と思った。
テュシアを奪われる。
「……めだ。させない。そんなことは……」
させるものか。
ただの養い親などに、テュシアを奪わせるものか。
セシオンは低く唸った。
喉から漏れたのは、人の声ではなかった。人のものとは違う、狂猛な竜の悲憤が大地を震わせる。
静かに岩を震わせるその慟哭は、城に住まう竜だけが聴いた。
痛まし気に目を伏せた親子が一組。そして、不穏に眉を顰めた者がひとり。
「俺の……俺のものだ」
悲嘆と、愛惜と、憤激と、失意と、恐慌と。あらゆる感情が入り混じり、最後に残ったのが強い憤りだった。
何故こうも己が心を乱しているのか、セシオンは理解してはいなかった。ただただ胸のうちにあったなにか温かなものが打ち砕かれたことだけを感じる。
迸る激情のままに竜化しようとした、そのときだ。微かな足音を耳が拾う。
「セシオン」
静かな声に、セシオンは動きを止めた。
「どこへ行く?」
冴え冴えとした月光を浴び、ミエーネがこちらを見つめている。
普段の彼女とは違い、ミエーネは騎士服ではなく真っ黒なシュミーズドレスを纏っていた。シンプルなドレスのせいで、その美貌と身体の細さが際立つ。真っすぐに流れる漆黒の髪に、蝋のように白い肌。その姿はまるで、不吉の象徴のように見えた。
己のその発想に震撼し、次いで、ミエーネに対してそんな風に感じたことにやりきれない思いが湧く。
「あの娘のところか?」
「それがどうした」
「あの娘は、おまえの何だ?」
答えられなかった。
彼女がそれをわかっていないはずがない。セシオンが答えを持ち合わせていないことなど承知の上で、敢えて訊ねてきているのだ。
怒りが募る。
「セシオン」
気づいたときには、ミエーネの腕が首に絡みついていた。
凍えそうに冷たい吐息が耳朶に触れる。
「私がいるだろう。人間の娘など忘れてしまえ。あの弱い生き物は、どうせ瞬きする間にこの世からいなくなる」
細い指が頬をさっと掠め、上着の隙間から忍び込んでくる。
反射的に身体が震えた。ぞくっと背筋が粟立つ。
「すべてくれてやると言ったはずだ。おまえがただ王であり続けるために」
約束したろう? 囁く声に、寒気を覚えた。
「離せ!」
絡みつく細腕を振り払う。
テュシアなら吹き飛んだかもしれないその拒絶にも、ミエーネは平然としている。華奢に見えても、竜は竜だ。
しばし無言で睨み合う。
「そうか。わかった」
やがて、素っ気なく呟いたミエーネが踵を返した。
「ミエ……」
その背を呼び止めようとして、声が喉につかえた。
ひたひたと岩を踏む足音が遠ざかっていく。
「くそっ!」
ひとり中庭に取り残されて、セシオンは吠えた。
これでは子どもの癇癪だと自分を嗤ってみても、胸に渦巻く焦燥交じりの苛立ちを消すことはできない。
ひどく取り返しのつかないことをしてしまった予感がしていて、だけど今更だと打ち消す臆病な自分もいる。
「テュシア……」
無意識にその名を口にしてしまったら、もう彼女のことしか考えられなくなってしまう。
先ほどのミエーネの振る舞いの意味をきちんと考えなくてはいけないと思うのに、そんなことはどうでもいいと、たちまちのうちに気が逸れる。
「テュシア」
セシオンは、唇を噛みながら瞑目する。
次いで瞼を開いたときには、その瞳の内側からすべての光が消えていた。
勢いよく踵を返し、中庭を抜ける。向かうのは通い慣れたいつもの部屋だ。
食事を終えた彼女が部屋に戻っていることはわかっていた。ノックもせずに扉を開くと、振り向いた翡翠の瞳が驚いたように見開かれる。
「あれ、セシオン? 今日は早かったんだ――」
大股に歩み寄り、言葉の途中で細いその喉に手をかけた。
「おまえは俺のものだ」
「……え?」
きょとんと見返してくる翡翠の瞳に恐怖はない。
ほんの少しでもこの手に力を入れたならば、彼女の首くらい容易く捻じ切れる。
理解していないのだろうか。圧倒的な力の差を。
セシオンは、細い首を掴む手に力を入れた。手のひらに脈打つ鼓動が伝わってくる。
苦しかったのか、テュシアが微かに眉を寄せた。
ようやくそこでセシオンの様子がおかしいことに気づいたらしく、見上げてくる瞳に懸念の色が浮かぶ。
「どうしたの? なにか――」
「おまえは俺のものだ、テュシア」
呻くように発したその声は、自分でもおそろしくなるほど低く底冷えのするものだった。
「セシオン……?」
それでも尚、テュシアの顔には怯えの気配すらない。
そのことに安堵する自分がいて、同時に無性に苛立つ自分もいた。
下顎を掴み、ふっくらした唇を親指で押さえ無理やり口をこじ開ける。小さな歯が形よく並んでいるのが剥き出しになった。
なにをするのだと言わんばかりにテュシアが眉を吊り上げ、こちらを睨みながらセシオンの腕を掴む。
どうやら引き離そうとしているらしいのだが、冗談かと思うくらい弱々しい抵抗だ。
そんなものか、と思った。呆れるほど非力で、脆い。それが人の女なのか。
「他愛ないな」
ふっと漏らした途端、テュシアの顔色が変わった。瞳に浮かぶ非難の色が、じんわり失望へと変わっていく。見えたのは、そこまでだった。
「おまえは……おまえは俺の奴隷だ! 国に帰ることは許さない!」
深く顔を俯けたテュシアに向かって押し殺した声で叫んだ瞬間、またひとつ取り返しのつかないことをしでかした気がした。
しばし己の荒い呼気だけが部屋に響く。
やがてのろのろと手首を戒めていた手を離し一歩後ろへ下がると、睫毛を震わせながらテュシアがゆっくりと顔を上げた。
目が合った途端に息が止まりそうになる。
腹を立てているか、それとも怯えているか。そのどちらかだと思っていたのに、視線がかち合ったその一瞬、翡翠の瞳に浮かんでいたのは胸を衝かれる哀しみの色だった。
「…………っ!」
なにか言わなくてはと思うのに、口にできる言葉などなにもない。束の間の逡巡の末、セシオンは無言のままテュシアに背を向けた。
大事なものを自ら手放してしまった。そんな気がしてならないのに、近くにいたらもっと酷いことを仕出かしてしまいそうだから。
ただ黙って遠ざかることしか、セシオンにはできないのだった。
***
(side.テュシア)
そして。
黙って去っていくセシオンの背中を見送っていたテュシアは、実際には猛烈に腹を立てていた。セシオンに対してじゃない。なにひとつ抵抗できなかった自分に対してだ。
「うぅ……悔しい」
悔しい、と言ったつもりだったのに、ぐやじい、になった。
さっきまでは我慢できていたのに、ひとりになった途端に涙が溢れてきたからだ。
がっつり鼻水も垂れてきている。
とにかく顔を洗って、それからお風呂に入ろう。
湯が溜まるのも待てず、テュシアは洗顔だけを済ませてすぐ湯桶にしゃがみこんだ。
メルーの家では薪で火を起こさねばならなかったのに、この城では蛇口を捻るだけで温かい湯が出てくる。その便利さは、ここで一番気に入っているところだ。
勢いよく流れる水音が耳に心地いい。ゆっくりと嵩を増していく湯の表面を見つめながら、テュシアはぼんやりと思った。
昔だったら、同じ目に遭ったら怖くて堪らなかったはずだ。だけど今は、あまり怖いとは思わなかった。
一月足らずでしかないが、竜という種族が理由もなく凶暴なわけではないことくらいはここで過ごすうちに理解している。
――おまえは俺のものだ。
ガラス玉みたいに冷たい眼をして、なのに繰り返されたその声はとても苦しそうだった。
竜が、というよりもセシオンが、だ。いまはもう昔みたいに怖くない。
渾身の抵抗を他愛ないと嗤われたときには咄嗟に昔のことを思い出して嫌な気持ちになりはしたが、無表情にみえてその実、紫水晶に瞳はとても雄弁だし。
テュシアの焼いた菓子に子どもみたいに目を輝かせるし、甘えたいときには首に顔を埋めてくるし、寝起きの顔はぼんやりと無防備だし。
「なんか、まるで……」
どこにも行くなと必死に叫んでいるみたいだったと感じてしまうのは、間違っているだろうか。
おまえは俺の奴隷だ、と口にしたあのときが一番苦しそうだった。本当はそんな風には言いたくないみたいに。
「あ」
国に帰ることは許さない、とも言っていた。
もしかして、聞かれていた? 食堂での会話を。
それで不機嫌になったとか?
テュシアが帰りたいと言ったから?
「いやいやいや! そんな、それじゃまるで……」
帰したくないと思われているみたいだ。
許さない、ではなくて、帰らないで、と。
都合のいい奴隷を拘束しておきたいという、そんな雰囲気ではなかった。
勘違い?
だって、どこにも行くな、自分の傍にいろ、と。あんな風に。
まるで独占欲みたいだ。
もし本当にそれが独占欲なのだとしたら、そんな風に求められる、その理由は……。
「痛っ」
不意に、胸の痣がびりっと痛んだ。
「もう! なんなの⁈」
チェロヴィクの王城でセシオンに見つかってしまって以来、よくこの痣が痛む。
もういいや、疲れたから考えるのをやめようと、テュシアはひとつ溜息を落していっぱいになった湯桶のなかに頭まで沈み込んだ。




