第10話 聖域へ
――とかいう平和な日常を送っていたはずなのに、それがどうしてこうなったのか。
「ぎえぇぇぇーっ」
テュシアは今、真っ白な竜の背の上で、半ば魂を飛ばしかけている。
勝手に口から零れる悲鳴に、ちらりと首だけで振り向いた美しい竜が不満そうに「ガルゥ」と鳴いた。
静かにしていろと言いたいのだろう。
善処したいところだが、こちらにもできない事情があるのだ。わかって欲しい。
そうこうしている間に、時間にして凡そ十分にも満たないほどだったろうか。飛び立ってからさほど間を置かず、岩山をひとつ越えた辺りでセシオンがぐんと高度を下げた。
ゴツゴツした岩肌に、まばらに緑が生えている。
人の足ではおいそれと登れなさそうな峻険な岩山だ。その狭間へと竜は降りて行く。
眼下に望む、岩と少しばかりの緑が竜の翼越しにぐんぐんと近づいてくる。
「ひぃぃぃーっ」
今度は違う意味で悲鳴が零れた。
「ぶつかるぶつかるぶつかるーっ!」
「グルルゥ」
叫ぶテュシアに振り向きもせず、再び竜が不満そうに鼻を鳴らす。
ぶつかるわけがないだろう、と言っているのだと思う。その気持ちは伝わってきた。
だからと言って安心できるかと言われれば、まったくそんなことはなく。
いよいよもう抜けかけた魂がスポンとどこかへ飛んで行くのじゃないかと思ったところで、今度は不意に、正面に森の入り口が見えてきた。スピードを緩めることなく、竜は木々の中へと突っ込んで行く。
背中の鱗に全力でしがみつき、テュシアはぎゅっと固く目を閉じた。
「ぎゃあぁ……あ、れ……?」
絶対にぶつかると思った。
しかし恐れていた衝撃はなく。一瞬の隙に空気が変わった気がして、恐る恐る目を開けてみたテュシアは、間抜けにぽかんと口を開けたまま固まった。
緑の濃い匂いが立ち込めている。そこを、何と呼べばいいのだろう。
テュシアの知っている森とは違う。
森の中なのに、森ではなかった。
まるで別の世界に迷い込んでしまったかのような。
あらゆる種類の木々がぐるりと周囲を取り囲む真ん中に、あらゆる種類の草花の生い茂る草原がある。その中心へと、純白の竜が静かに降り立った。
バサッと翼を畳む音がひとつ大きく響いて、すぐに静寂がふたりを取り巻く。
異質なのは、生き物の気配がしないことだ。
鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
虫の声も。
そういえば、風も吹いていない。
燦々と明るい陽射しが空から降り注ぐなか、草花の茂る地面の下からは、ゆらゆらと魔力が――エテルが立ち昇っているのが見える。
静かで、どこか畏ろしい
「聖域……?」
「そうか、おまえにはそう見えるのか」
二度も死んだくせに、空には上り損ねたテュシアだ。未だ天の国を目にしたことはないのだが、それは或いは、こんな場所なのではなかろうか。
「立てるか?」
問われて、テュシアはハッと我に返った。
「ぎゃあッ⁈」
「うわ、急に叫ぶな!」
そういえばセシオンが普通に喋っている。ということは既に人化しているということで、テュシアはいつの間にかセシオンの背におぶさる形になっていた。
「立てる! 立てるから下ろしてぇーっ!」
「わかったから暴れるな」
ジタバタするテュシアに、セシオンがやれやれと息を吐きながら腰を屈める。
いつだったかアミに、竜の背に乗るのも人の姿の背におぶさるのも同じことだと言われたが、あの時はそれもそうかと思ったものの、やっぱり何か違う。
特にセシオンだと、全然違う。
「なんという辱めを……ッ!」
気合で踏ん張り、どうにか自力で立ったテュシアを眺めながらセシオンがしきりに首を捻っている。
言いたいことはわかる。だが、こればかりは主に乙女心の問題なので。
強い気持ちでキッと見返せば、セシオンがついと目を逸らした。
「ここは〝王の叢〟と呼ばれる場所だ」
「王の?」
「ああ。森の入り口に見えた、あれは結界だ。王の魔力にだけ反応して開かれる」
「え、てことは、王サマしか入っちゃいけない場所ってことじゃないの⁈」
ぎょっとするテュシアに、セシオンはどうということもなさげに答えた。
「別にそういうわけでもない。ただ、ある程度の魔力がないと入れないというだけだ」
ということは、だ。
さっき突然「行くぞ」と問答無用でここに連れて来られる前に、スウスから聞いた話を思い出す。
「ひょっとして、竜脈の活性が一番強い場所?」
「ああ、スウスから聞いたのか。ファトスに都を構えて以来、変わっていない。この大陸の竜脈が一番暴れる場所だ」
そう聞いてしまうと、一気に怖ろしさが湧くが。
「心配ない。最近は落ち着いたものだ」
「こんなにゆらゆらしてるのに……?」
意外そうにセシオンが目を見開く。
「見えるのか?」
「うーん、なんとなく?」
驚かれたということは、これもまたあまり一般的な人間の能力じゃないのかもしれない。そう思って適当に誤魔化したテュシアだが、セシオンはそれ以上追求しようとはしなかった。
「あ、アルケミラの雫!」
ふと、視界の隅にきらりと光るものを見つけた。
アルケミラ、別名レディースマントルとも呼ばれる薬草だ。円形をしたギザギザの葉の上に、金色に光る露を湛えている。
薬草自体はさほど珍しいものではないが、ここまでしっかりエテルを含んだ露はなかなか集められない。
「わ、マレインもある。え、あっちにあるのはフロストセージじゃない?」
長寿のハーブとして料理に使われることもあるセージとは違って、フロストセージは滅多にお目にかかれない薬草だ。
「すごい! 自生してるところなんて初めて見た」
花はつけず、すっきりとした一本立ちの全身が霜を纏ったように銀色に輝いている。浄化の力がとても強い薬草で、触れると少しひんやり冷たい。
「ん? これはもしやアンジェリカの匂い」
太い茎と強い生命力を持つ大型の薬草だけあって、さすが主張が強い。
天使のハーブとも呼ばれるアンジェリカは、魔女の呪いから身を守ると言われている。その効能自体は眉唾ものなのだが、チェロヴィクでは縁起物として、玄関などにこのハーブのサシェを飾っている家も多い。
「うわぁ、エテリアだ……噓でしょ、こんなに群生してるなんて……」
エテリアは、大気中に溶け出したエテルを葉脈に吸い上げて育つ半透明の淡い緑の草だ。普通の土壌では満足にエテルを吸えないらしく、あっという間に枯れてしまう。
それがこれほど生き生きとしているのは、さすがだ。この場所だからこそ、だろう。
いつしかテュシアは夢中になって叢の中を飛び回っていた。
「そうか、竜脈……」
これもまた活発な竜脈の力の恩恵を受けているのであろうことが、その生え方からわかる。ちょうど地表からエテルがゆらゆら立ち昇っている辺りにエテリアが群生しており、そのエテリアたちに寄り添う形でヴェイン・リリーの白い花が揺れていた。
ヴェイン・リリーもまた、平地にはあまり咲かないと言われている花だ。柔らかな曲線を描いて連なるその白い花の列に目を留めて、テュシアは唐突に理解した。
魔女を名乗ってはいても、ほんの少しながら竜脈に触れられるという特技を持ってはいても、実は今まであまりよくわかっていなかったのかもしれない。
この世の中心は竜脈だ。
植物も、それから植物によって生かされている動物たちも、皆、竜脈がなければ生きてはいけない。竜脈によってすべての生き物は生かされている。
そう思うと。
「すごいんだね」
竜の王というのは、まるで〝重し〟みたいなものではないか。
たったひとりでこの世界を丸ごと守っている、存在自体が要なのだ。
思わず振り仰いだ先に、アメジストの瞳があった。
表情の読めない縦長の瞳孔はそのままなのに、不思議とその眼差しは凪いで見えた。
薬草たちに夢中ですっかり存在すらも忘れていたのに、黙ってテュシアを見守ってくれていたらしいことが窺える。
「王サマは」
「セシオンだ」
「あ、うん」
すごいね、とは思ったが、伝えたいのはそれではなかった気がする。
「辛くない?」
考える間もなく、そう訊ねていた。
「うん?」
「ひとりで世界を守るなんて、大変なことじゃない?」
「それは……考えたことがなかった」
セシオンがきょとんと瞬く。
「王とは、そういうものだ」
「……そっか」
何かが少しわかりかけた気がする。
テュシアはその場にしゃがみ込んだ。
地表に近づいた分だけ、エテルの流れがよく見えた。主張の強いハーブの香りだけでなく、あらゆる草花の匂いが全身を包む。
鮮やかな青い花を見つけて、手を伸ばしかけた、その時だ。
「嬉しいか?」
「え?」
「どれが何という名なのか俺にはわからないが、珍しい草がたくさんあったのだろう?」
「あ、うん。びっくりしたよ」
反射的に答えてから、テュシアはまじまじとセシオンの顔を見上げた。
嬉しいか、と問われた。
もしかして、テュシアを喜ばせようとしてここへ連れてきてくれたのだろうか。
「嬉しいよ」
「そうか」
よかった、と。
言葉にならない感情が、けれどたしかに、その短い返答に乗っていた。
「とっても嬉しいよ。それに、楽しい!」
「そうか」
同じ言葉で頷いたセシオンの口の端がほんのり緩んでいる。
知らず、テュシアも笑みを浮かべていた。ぽんと弾みをつけるようにして立ち上がる。
「王サマはさ、不眠症なんだよね? 甘い匂いが好きみたいだからアステラはそのままにして、バレリアンとルナリスの配合を少し変えてみようかな。それでアルケミラの雫を加えたら、きっともっとよく眠れるお茶ができると思う」
竜人相手に処方したことがないから手探りだが、人間向けの処方に少しばかり手を加えれば同程度の効能を与えることはできそうな気がする。
「では今夜」
「うん、淹れてあげる」
ごく自然に答えて、テュシアは「あ!」ともう一度しゃがみ込んだ。
「ねえねえ、ここの薬草って採取してもいいもの?」
「ああ、構わない」
「やった! 最強の胃腸薬ゲット!」
先ほど見つけた青い花のゲンチアナだが、最強なのはこの根だ。
とにかく苦いのだけれど、その分効果は覿面。連日の肉と塩攻撃でダメージが蓄積しているテュシアの胃腸を救う、実用性バツグンの特効薬になってくれるはずである。
「掘るのか?」
「うん、根っこが欲しいから」
「わかった」
手で掘り返そうとするテュシアを押し留め、セシオンが指を振る。途端にふわっと周囲の土が盛り上がり、しっかり根のついたゲンチアナが宙に浮き上がった。
「魔法! 便利!」
「手が汚れるだろう。俺を使え」
「お、おぉぅ」
畏れ多いにもほどがあるんじゃないかと思ったら、なんとも妙な声が出た。
苦も無くやってのけるから、本当に苦はないのだろうと思うけれども。
いいのか、それで。仮にも王を、しかも竜の王を、小間使いのように。
「他に、どれを採る?」
「あ、えっとね、まずはアルケミラの雫。それからフロストセージも摘んでもいいのかな?」
「ここの草は皆すぐに生えるからな。どれだけ採っても構わない」
「ひぇー、宝の山だぁ」
嬉しい悲鳴を上げつつ欲しい薬草をあれこれ選びながら、テュシアは思い出していた。
前回と、前々回と。行き先は違ったものの、今日と同じように問答無用で連れ出されたことがあったのを。
まだ高いところが怖くなかった時だ。
あれも、もしかしたら今日みたいにテュシアを喜ばせようとしてくれたのだろうか。
だとしたら、なんてわかりにくい。
最強の力を持っているはずのこの竜の王はきっと氷のように冷酷なんかではないし、表情が動かないだけで、不愛想なわけでもないのかもしれない。
ただ、不器用なだけ。
そうだとしたら――
「難儀だねぇ」
「……? 空が怖いことか?」
「いや、そういう話じゃなかったんだけど……ハッ! そうじゃん、来たからには帰らなきゃいけないじゃん……」
ひぃと青褪めるテュシアに、セシオンが宥める口調で言う。
「大丈夫だ。竜は絶対に背に乗せた者は落とさない。魔法で防護しているからな」
絶対なんて嘘だ。なんせ一回落ちたことがある。
――とは言えないので、テュシアは黙って口をへの字にした。




