第8話 抱き枕を手に入れた
(side.セシオン)
これほど穏やかな心持ちで朝を迎えられたのは、果たして何十年ぶりだろうか。
いや何百年、か。
悪夢に魘されることもなく、朝まで一度も目覚めることなくぐっすり眠れたのは、随分久方ぶりのことだ。
慌ただしく王位を継いで以来のことだから、およそ二百年ぶりと言っていい。
最初の朝はあまりに無防備に眠っていた自分に驚くと同時に腕の中にいるテュシアの姿に動揺して逃げるように部屋を後にしたが、それも三日、四日と続けば気まずさも薄れ、互いに誘い合わせて朝食の席を共にできるくらいにはなった。
尤も、竜は基本的に食事を必要としないため、セシオンはテュシアの食事風景を見守りつつちびちびと茶器に口をつけるだけではあるが。
「旨いな」
テュシアが手ずから淹れてくれた茶を啜り、セシオンはしみじみと呟いた。
味はよくわからないが、とにかく香りが素晴らしい。口に含んだ瞬間から爽やかな緑の香気が体内を駆け巡り、四肢の隅々まで覚醒していくようだ。
なんとも満たされたこの気分を表す言葉を、セシオンは知らない。けれども自身の魔力がこれほど安定しているのは物心ついて以来初めてのことであるのは、自覚している。
「朝だからね、すっきりするように、ローズマリーとレモングラスのブレンドティーにウィンドグラスのエッセンスを一滴いれてみたの」
先ほどから延々と口の中で咀嚼していた一欠片の肉を思い切った様子で飲み下したテュシアがそう言って、次の肉片をスプーンですくいあげた。
ここ数日、満足に眠れているお陰ですこぶる体調もよく、気持ちまでもが晴れやかなセシオンとは反対に、手にしたスプーンをじっと見据えるテュシアの顔色は冴えない。
具材の乗ったスプーンを口に運ぶことなく器に沈め、今度は反対の指先で何やら茶色の草らしきものをスープの中から摘まみ上げている。
鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅ぎ、草の端をちみりと齧る。そして、盛大に顔を顰めた。
「それは食える草なのか?」
「食べられない……わけではない、かも?」
思わず発した問いに曖昧な答えが返ってくる。
「……?」
「まあ一応薬草だからね。食べても平気なものではある。けどこれは若芽じゃないし、あんまりそのまま食べたりはしないかなぁ」
草の名まではシゴカといい、効能は滋養強壮だという。
が、ならば何故齧ったのか。
疑問を口にはしなかったが、ちらりとこちらを見たテュシアは肩を竦めた。
「せっかくだから味見してみようかと思って」
「そうか」
彼女は魔女だ。魔女という種には探求心の旺盛な者が多い。
そのせいかと納得したセシオンだが、草を戻し、そのままスプーンも置いて食事を終えようとしたテュシアに眉を寄せた。
「もう仕舞いか?」
「……やっぱり太らせようと……?」
途端に猜疑の目を向けてくるテュシアに、セシオンは渋面を作った。
「違う、そういう意味ではない」
「……まあ、今のところ朝ご飯にはなってもいないしね」
なにやらブツブツ呟いているテュシアは、本気でまだ喰われる心配をしているのだろうか。
長い歴史を紐解いてみても、竜が人を喰ったという話は聞いたことがない。
が、そういう問題ではないのだろうということはわかっている。
人間にとって竜というのは、恐怖の対象なのだ。
時おり訪れるチェロヴィクの辺境でも、怯えられ、悲鳴を上げられたことは一度や二度ではない。特に、人化した姿から竜体に戻った際にはいつも騒がれる。
だから仕方がないのだ。
仕方がない……のだが。そうとわかってはいても、テュシアから化け物を見るような目を向けられることを想像すると胸の辺りがチクンと痛む。
「明日も――」
小さな胸の痛みを誤魔化すように、セシオンは新緑の水色も美しい茶を飲み干した。
「明日も、これを頼む」
「ん、わかった」
素直に頷いて、一拍の間を置いてから「え、じゃあ今夜も来るってこと⁈」と目を剥くテュシアには気づかぬふりをした。
日中も、気づけばテュシアのことをぼんやり考えているし、暇があればここへと足が向く。
それが何故なのかは、自問しても答えは出ていない。
ただひとつわかっていることは。
どこがどう、というのではなく。
甘く心地のよい匂いのせいばかりでもなく。
テュシアの傍らにいると、驚くほどよく眠れるのだ。
「ねえ、抱き枕と間違えてない?」
ああなるほど。合点がいった。
「そうか、抱き枕か」
あの妙に落ち着く心地は、ぴったりフィットする抱き枕と出会えたためか。
「しまった藪蛇」
テュシアの眉間にきゅっと皺が寄った。
「違うからね、ワタシニンゲン、抱き枕チガウ」
「当たり前だ」
妙なカタコトで主張するテュシアは、今度は少しばかり唇を尖らせている。
柔らかい金色の髪は寝起きのまま、いくらかモサッと膨らんでいるが当人に気にする素振りはない。そんなところも彼女が少しはこちらに慣れてくれた気がして、セシオンには好ましく思えた。
「スウスを呼ぼう」
いつまででもこうしていたいが、そろそろ執務室に向かわねばならない。
名残惜しく思いつつも腰を上げたところで、セシオンはテュシアがそっと己の腹部を擦っているのに気がついた。
「腹具合が悪いのか?」
「んー、そういうわけでもないんだけど」
「肉や草が食べられないなら、汁だけでも飲んだらどうだ?」
「いやいや、そんなことしたら今度は岩塩に転生しちゃうよ」
ちょっと何を言っているのかわからない。
セシオンは首を傾げた。
「岩塩に転生……?」
「なんでもない。気にしないで」
へらりと笑うテュシアをじっと見降ろしながら、セシオンは思い返していた。
そういえば、今朝だけではない。昨日も一昨日も、テュシアは食が進んでいない様子だった。
人間の一般的な食事量など知らないからさほど気にかけていなかったが、もしやほとんど食べていないのではなかろうか。
竜と違って他の生き物たちは皆、食物を口から摂取しなくては生きていけないはずだ。それなのに。
セシオンはおもむろに手を伸ばし、テュシアが置いたスプーンを手に取った。
「人は食べねば死ぬのだろう。ならば、無理にでも食べろ」
「ひぃ! 無理無理、もういいですお腹いっぱい!」
肉片をひとつ掬ってテュシアの口元に差し出すが、ブンブンと首を振って拒否される。
「やはり具合が」
「悪くない! 元気! ただそれがマズいだけだから!」
「マズい……?」
「あ」
己の口に手を当て、テュシアがしまったという顔をする。セシオンの眉間に皺が寄った。
「これはマズいのか?」
「あー、うん。えぇと、言葉を選ばずに言えば……とっても」
「とっても」
「うん、とっても」
申し訳なさそうにしながらも全力で肯定するところを見ると、よほどひどい味らしい。
どんなものかとスプーンに掬ってあった肉を、セシオンは己の口に放り込んだ。
「あ……」
「……?」
「それ私のスプーン……」
何やら口を丸く開けているテュシアに、セシオンは肉を咀嚼しながら首を傾げた。
「城の備品だと思ったが?」
「そうなんだけど、そういうことじゃなくて。間接キ……」
もごもごと尻すぼみに言葉を濁しつつ、結局は「まあいいか」と呟いて、窺うようにテュシアが見上げてくる。
「少し肉が硬いか」
「少し?」
「それと、少し塩辛いか」
「少し……?」
なるほど、とセシオンは頷いた。
「岩塩か」
無言のまま、テュシアが微妙な表情になる。
「スウスに言っておく。人間が食べられる物を出すようにと」
「なんか申し訳ない……」
眉を下げるが、テュシアは悪くない。
「竜は基本的に食事をしない。だから料理が下手だ」
「え、食べないの⁈」
「そうだ」
セシオンとしてはむしろ、驚かれたことに驚く。
竜の生態は意外と知られていないらしいと知った。
「竜は食物を摂取せずとも生きてはいけるため、生涯一度も食事をしない竜もいる」
「うへぇ」
どういう感情なのか判別のつかない相槌を打って、テュシアがスープの器へ目を落とした。
「食べなくてもいいけど、食べれないわけじゃない?」
「竜にとって食物は……そうだな、嗜好品に近い」
どうやら食事を愉しむ竜は、人間の料理を好むらしいことはセシオンも知っている。
焼いた肉ばかりを喰う獣人たちとは違って人間の料理は多彩だから、と言っていたのはカマラだ。あれは食を愉しむタイプの竜なので。
しかしセシオン自身は、今まであまり興味がなかった。
外交先で振る舞われた酒や料理を口にすることもなくはなかったが、積極的に美食を追い求めたことはない。
「そっか。だから味がわからな――」
「味はわかる」
かぶせ気味に言い置いて、セシオンは胡乱な眼を向けてくるテュシアから逃げるように踵を返した。
「味はわかるから、そのスープがマズいことも理解した」
「……ふーん」
「とにかく、スウスには伝えておく」
背中にじっとりとした視線を感じながらも部屋を後にしたセシオンは、人間の食事情についても学ばねばならないなと考えながら足早に執務室へと向かった。カマラに教えを乞うのは少々癪だが、背に腹は代えられない。
「いや、その前にスウスか」
正直、あのスープがどれほどマズかったのかはわかっていないのだが。
味覚というのも鍛えられるものなのだろうか。
「味はわかる」と言い切ってしまった手前、早急に己の舌を鍛えねばならない。
そう考えながらふと、セシオンは急いでいた足を止めた。
脳裏に過ぎるのは、そっと自らの腹をさすっていたテュシアの姿だ。
「魔女、か」
ならば彼女は自ら調合を手掛けたりもするのだろうか。
少々予定を調整する必要がありそうだ。そう決めて、今度こそセシオンはスウスの元へと足を速めた。




