③
音を立てぬよう扉を開き、宮殿の外へと足を踏み出した。
ひとりで夜の宮を出歩くのは、これが初めてだった。
広大な後宮の地図は、頭の中にあるわけでもない。
けれど、不思議と迷いはなかった。
――辿るべきは、あの香り。
重く濃い香の匂いが、空気に溶けて漂っている。
それを頼りに、璃華は歩みを進めた。
手燭も持たず、月影も雲に隠れた闇の中。
けれど、不思議と怖さはなかった。
やがて、璃華は気づいた。
夜の帳の中でも、木々の葉が揺れるのが見える。瓦のひび割れさえ、はっきりと目に映る。まるで、昼のように。
(……おかしい。こんな暗さで、ここまで見えるなんて)
見えるだけじゃない。香の流れが、風のように肌を撫で、まるで導くように鼻腔をくすぐる。
(これって、人間の感覚じゃない……私、いったい何なの?)
胸の奥に、微かにうずく何かがある。
湛州の霊山で、かつて感じた気配に似たもの。
璃華の瞳に、暗闇の中に揺らめく霧のような気流が映った。
――人には見えぬものを見る目。
――香に混じる異の力を感じ取る鼻。
自分の身に起こっている変化に、ぞくりと寒気が走った。
霊獣を祀る巫女の血を継ぐとはいえ、これまで璃華が特別な力を感じたことなど、一度もなかった。
(私が、こんな……)
まるで別人のようだった。
夜の宮をひとり歩くなど、かつての自分なら想像もできなかったこと。
けれど、それを恐れぬほどに、阿李を守りたいという気持ちが、心の奥で火を灯している。
もしかすると、その強い想いが、眠っていた力を呼び覚ましたのだろうか。
暗がりでも、目の前の景色がくっきりと見える。
手燭を持たぬ璃華の視界は、不思議なほど鮮明だった。
遠くの灯りの向こうを歩く宦官の姿も、隠れるには十分な距離から捉えることができる。
宦官たちは手燭の明かりの届く範囲しか視界に入らないが、璃華にはその何倍も先を見通せた。
まるで、夜目を持つ獣のように。
歩を進めるごとに、空気が変わっていった。
香の匂いが濃くなる。重たく湿った香煙が、肌に纏わりついてくるようだった。
胸の奥がざわつく。風は止み、葉擦れひとつ聞こえない。すべてが息を潜め、ただ何かが潜んでいる気配だけが濃くなる。
そして、璃華はその前に立った。
後宮の奥、ひときわ大きく、威容を誇る宮殿。
昼間見たことがあるはずのその建物は、夜の帳に包まれるとまるで異なる姿をしていた。
金箔を施した軒先が、月明かりを受けて淡く光り、黒漆の柱が闇に溶けるように立ち並ぶ。
そのすべてが、異様だった。
(……ここだ)
確信めいた感覚があった。
香の匂いが最も濃く、空気の流れさえ歪んでいる。
(ここは、たしか……貴妃、玉蘭様の宮)
その名を思い浮かべた途端、足元がすっと冷たくなった気がした。
後宮内で最も華麗なその宮殿は、噂に聞く以上に壮麗で、黒漆の屋根に金の装飾が重々しく光を帯びている。
普段、宮殿の外にほとんど出ない璃華でさえも、ここが何者の住まいであるかは知っていた。
玉蘭は、名実ともに後宮の頂点に君臨する貴妃。その者が、もし呪術に手を染めているのだとしたら――璃華のような新参の妃に、太刀打ちできる相手ではない。
もし、この場所に無断で立ち入ったことが明るみに出れば、罪は重い。死罪すら免れぬだろう。
それでも……
璃華は唇を噛みしめながら、拳をぎゅっと握りしめた。
(阿李を助けたい)
たったひとりの侍女。
自分の側にいてくれた、優しくて、健気で、あたたかい人。
あの子が苦しんでいるのを、ただ見ているだけなんてできない。
震える膝に力を込め、袂の上から打ち叩いた。
(……違う、助けたいじゃない。助けるのよ!)
璃華はそっと呼吸を整え、披帛で口元を覆い直すと、音を立てぬよう足を進めた。
足を踏み入れた瞬間、空気が一段と重たく感じられた。外の後宮を歩いていたときよりも、何倍も心臓の音が大きく響いて聞こえる。
まるで大罪を犯しているかのような気分だった。
春を引きずるような花蘇芳が咲き誇る見事な庭園を、息を潜めて駆け抜ける。
誰にも見つかってはならない。ここで捕まれば、阿李を救うどころか、すべてが終わる。
やがて、宮殿の扉の前に辿り着いた。だが――
(……違う)
璃華はそこで立ち止まり、鼻先に集中した。
香りが、微かに流れている。だがそれは、この建物では終わらない。
(香りは、この奥……まだ、先に何かがある)
本能が告げていた。
ここが終点ではない。もっと深くに、もっと邪な気配が潜んでいる。
玉蘭の宮殿を迂回して進むと、その裏手に、ひっそりと建つ霊廟のような建物が姿を現した。
月の光が雲間から差し込み、青白い光の中で、その霊廟は不気味なほど静かに、しかし圧倒的な存在感をもってそこに佇んでいた。
扉は分厚い木で作られ、固く閉ざされている。
その表には金泥で描かれた対の護符が貼られており、仄かに光を放っていた。
けれどそれが結界として何かを寄せ付けぬためのものなのか、それとも内に潜む何かを封じているのか。璃華には判断がつかなかった。
廟の周囲には、季節外れの曼珠沙華が咲き乱れていた。
深紅の花弁は艶めかしく揺れ、まるで誰かが流した血を吸い上げて咲いたかのように、どこか毒々しく、妖しい美しさを放っている。
扉の隙間から、香炉の煙が静かに立ち上っていた。
それはまるで、意志をもった生き物のように蠢きながら、屋根の上をなぞり、やがて闇夜へと溶けていく。
近づくにつれ、背中をなぞるような冷気が肌を刺し、衣の下まで忍び込んできた。
(……いる。中に、人がいる)




