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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第二章 猫になったら、陛下に拾われました

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音を立てぬよう扉を開き、宮殿の外へと足を踏み出した。

 ひとりで夜の宮を出歩くのは、これが初めてだった。

 広大な後宮の地図は、頭の中にあるわけでもない。

 けれど、不思議と迷いはなかった。


 ――辿るべきは、あの香り。

 重く濃い香の匂いが、空気に溶けて漂っている。

 それを頼りに、璃華は歩みを進めた。

 手燭も持たず、月影も雲に隠れた闇の中。

 けれど、不思議と怖さはなかった。


 やがて、璃華は気づいた。

 夜の帳の中でも、木々の葉が揺れるのが見える。瓦のひび割れさえ、はっきりと目に映る。まるで、昼のように。


(……おかしい。こんな暗さで、ここまで見えるなんて)


 見えるだけじゃない。香の流れが、風のように肌を撫で、まるで導くように鼻腔をくすぐる。


(これって、人間の感覚じゃない……私、いったい何なの?)


 胸の奥に、微かにうずく何かがある。

 湛州の霊山で、かつて感じた気配に似たもの。

 璃華の瞳に、暗闇の中に揺らめく霧のような気流が映った。


 ――人には見えぬものを見る目。

 ――香に混じる異の力を感じ取る鼻。


 自分の身に起こっている変化に、ぞくりと寒気が走った。

 霊獣を祀る巫女の血を継ぐとはいえ、これまで璃華が特別な力を感じたことなど、一度もなかった。


(私が、こんな……)


 まるで別人のようだった。

 夜の宮をひとり歩くなど、かつての自分なら想像もできなかったこと。

 けれど、それを恐れぬほどに、阿李を守りたいという気持ちが、心の奥で火を灯している。


 もしかすると、その強い想いが、眠っていた力を呼び覚ましたのだろうか。

 暗がりでも、目の前の景色がくっきりと見える。

 手燭を持たぬ璃華の視界は、不思議なほど鮮明だった。

 遠くの灯りの向こうを歩く宦官の姿も、隠れるには十分な距離から捉えることができる。

 宦官たちは手燭の明かりの届く範囲しか視界に入らないが、璃華にはその何倍も先を見通せた。


 まるで、夜目を持つ獣のように。

 歩を進めるごとに、空気が変わっていった。

 香の匂いが濃くなる。重たく湿った香煙が、肌に纏わりついてくるようだった。

 胸の奥がざわつく。風は止み、葉擦れひとつ聞こえない。すべてが息を潜め、ただ何かが潜んでいる気配だけが濃くなる。


 そして、璃華はその前に立った。

 後宮の奥、ひときわ大きく、威容を誇る宮殿。

 昼間見たことがあるはずのその建物は、夜の帳に包まれるとまるで異なる姿をしていた。

 金箔を施した軒先が、月明かりを受けて淡く光り、黒漆の柱が闇に溶けるように立ち並ぶ。

 そのすべてが、異様だった。


(……ここだ)


 確信めいた感覚があった。

 香の匂いが最も濃く、空気の流れさえ歪んでいる。


(ここは、たしか……貴妃、玉蘭ぎょくらん様の宮)


 その名を思い浮かべた途端、足元がすっと冷たくなった気がした。

 後宮内で最も華麗なその宮殿は、噂に聞く以上に壮麗で、黒漆の屋根に金の装飾が重々しく光を帯びている。


 普段、宮殿の外にほとんど出ない璃華でさえも、ここが何者の住まいであるかは知っていた。

 玉蘭は、名実ともに後宮の頂点に君臨する貴妃。その者が、もし呪術に手を染めているのだとしたら――璃華のような新参の妃に、太刀打ちできる相手ではない。

 もし、この場所に無断で立ち入ったことが明るみに出れば、罪は重い。死罪すら免れぬだろう。

 それでも……

 璃華は唇を噛みしめながら、拳をぎゅっと握りしめた。


(阿李を助けたい)


 たったひとりの侍女。

 自分の側にいてくれた、優しくて、健気で、あたたかい人。

 あの子が苦しんでいるのを、ただ見ているだけなんてできない。

 震える膝に力を込め、袂の上から打ち叩いた。


(……違う、助けたいじゃない。助けるのよ!)


 璃華はそっと呼吸を整え、披帛ひはくで口元を覆い直すと、音を立てぬよう足を進めた。

 足を踏み入れた瞬間、空気が一段と重たく感じられた。外の後宮を歩いていたときよりも、何倍も心臓の音が大きく響いて聞こえる。

 まるで大罪を犯しているかのような気分だった。


 春を引きずるような花蘇芳はなずおうが咲き誇る見事な庭園を、息を潜めて駆け抜ける。

 誰にも見つかってはならない。ここで捕まれば、阿李を救うどころか、すべてが終わる。

 やがて、宮殿の扉の前に辿り着いた。だが――


(……違う)


 璃華はそこで立ち止まり、鼻先に集中した。

 香りが、微かに流れている。だがそれは、この建物では終わらない。


(香りは、この奥……まだ、先に何かがある)


 本能が告げていた。

 ここが終点ではない。もっと深くに、もっと邪な気配が潜んでいる。

 玉蘭の宮殿を迂回して進むと、その裏手に、ひっそりと建つ霊廟のような建物が姿を現した。


 月の光が雲間から差し込み、青白い光の中で、その霊廟は不気味なほど静かに、しかし圧倒的な存在感をもってそこに佇んでいた。

 扉は分厚い木で作られ、固く閉ざされている。

 その表には金泥で描かれた対の護符が貼られており、仄かに光を放っていた。

 けれどそれが結界として何かを寄せ付けぬためのものなのか、それとも内に潜む何かを封じているのか。璃華には判断がつかなかった。


 廟の周囲には、季節外れの曼珠沙華まんじゅしゃげが咲き乱れていた。

 深紅の花弁は艶めかしく揺れ、まるで誰かが流した血を吸い上げて咲いたかのように、どこか毒々しく、妖しい美しさを放っている。

 扉の隙間から、香炉の煙が静かに立ち上っていた。


 それはまるで、意志をもった生き物のようにうごめきながら、屋根の上をなぞり、やがて闇夜へと溶けていく。

 近づくにつれ、背中をなぞるような冷気が肌を刺し、衣の下まで忍び込んできた。


(……いる。中に、人がいる)

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