②
その日のうちに、阿李は内庭を駆け回って食材をかき集め、竹籠に山盛りにして帰ってきた。
洗濯桶や畑を耕すための鍬も手に入れ、着々と後宮自給生活の準備を整えていく。
璃華は、自らも台所に立ち、皆のために料理を作ることにした。
最初、阿李は必死に止めようとしたが、璃華の意志は固かった。
これからは、食事も洗濯も身の回りのことも、できる限り自分でやっていく――そう心に決めたのだ。
やってもらうより、自分でやった方が、気が楽だった。
高貴な妃が自ら火を起こし、野菜を刻み、洗濯桶に手を突っ込むなど前代未聞のことだったらしく、最初は下女たちも目を丸くした。
だが、口数は少ないながらも黙々と手を動かす璃華の姿に、いつしか皆の心がほどけていった。
吃音のことは、なるべく気づかれぬよう、言葉数を抑えて過ごしていた。
けれど、もともと高位の妃が下女と会話を交わすこと自体が稀だという。だから不審がられることもなく、静かに日々を重ねていく。
そうして、忙しなくも穏やかな時が流れ――気づけば、一ヵ月が経っていた。
妃たちからの嫌がらせは、相変わらずだった。
贈り物と称して虫の詰まった箱が届いたり、宮の外門に卑猥な言葉を書き殴られたりと、手口は悪質さを増していく。
それでも、璃華は極力、宮殿の外へ出ないようにしていた。
静かに過ごしていれば、いつか嵐は過ぎると信じていたのだ。
――それよりも、胸を締めつけるのは、陛下のことだった。
黎煌と顔を合わせたのは、入内したあの夜ただ一度きり。
それ以来、夜渡りはおろか、言葉も交わしていない。
(やっぱり……あの夜の私に、失望されたのね)
そう思うたび、胸の奥がずきりと痛んだ。
あれほど会いたいと願っていたのに、いまや顔を見ることさえ叶わない。
こんなにも近くにいるというのに、まるで手の届かぬ遠い人になってしまったようで、璃華の心は、日に日に寂しさに沈んでいった。
(それにしても……なんだか最近、後宮の空気が妙なのよね)
空気が澱んでいる。目に見えない何かが、ゆっくりと染み込んでくるような――そんな感覚だった。
璃華の母は、湛州国の南奥にて霊獣を祀る巫女だった。璃華にもまた、その血が受け継がれている。人には見えぬ気配、香に紛れた異の波。そうした揺らぎを、微かに感じ取ることができるのだ。
「ね……ねぇ、阿李。さい……最近、後宮の香の匂い……ちょ、ちょっと、きつくない?」
畑に鍬を入れていた阿李に声をかけると、彼女は動きを止め、手拭いで額の汗をぬぐってから首を傾げた。
「香の匂い、ですか? 私は特には……あ、でもそういえば、最近よく聞きます。女官が立て続けに倒れたとか、原因のわからない高熱や眩暈に悩まされているって。芙蓉殿の下女も、頭が重いと訴えておりましたね。何か関係あるのでしょうか」
そんなことになっているとは、璃華はまったく知らなかった。
自分がほとんど宮の外へ出ないせいで、後宮内の異変にはとんと疎い。
「そ……それは、大変だわ。あ……阿李は、だ、だいじょうぶ……なの?」
心配そうに尋ねると、阿李は朗らかに笑いながら、土のついた手を腰に当てた。
「わたしは大丈夫ですよ。風邪ひとつひいたことありませんから。丈夫だけが取り柄なんです」
その声に、璃華の表情も少し和らぐ。
阿李は奴婢の身分で生まれ、幼くして捨てられた孤児だった。璃華が彼女と出会ったのは、璃華が十二歳の頃。すでに阿李の人生には、語り尽くせぬほどの苦難が刻まれていた。
それでも彼女は、いつも笑っていた。傷を隠すように、明るく笑うその姿に、璃華は救われてきた。
――と、その瞬間だった。
風がふわりと流れた。次いで、どこからともなく、ねっとりとした香気が立ち込める。麝香のような甘く刺激的な匂いだが、その香りはどこか異様に重たく、まるで意志を持つように空気を這う。
鼻腔にまとわりついたその匂いが、目に見える形を成したように、黒い霧が立ちのぼる。
そしてそれは、まるで蛇のようにうねりながら、阿李の体へと、ぬるりと巻きついた。
「あっ……阿李っ!」
思わず大きな声を張り上げた。璃華にしては、まるで別人のような勢いだった。
けれど、阿李はまったく気づいていない。黒い霧となって、蛇のようにうねるそれは、彼女には見えていないのだ。
それは阿李の体を螺旋のように絡み上がり、ぽかんと開かれた口元へと滑り込んでいく。
(ま、まずいっ……!)
血の気が引いた。璃華は土を蹴って駆け寄り、阿李の肩をつかんだ。
阿李は何が起こったのか分からないという顔でこちらを見ていたが、次の瞬間――
「っ……う、うぅ……!」
頭を抱え、呻きながらその場に崩れ落ちた。璃華はとっさに背を支え、さすりながら額に手を当てる。
「か、顔が……赤い……っ。あ、熱もあるわ!」
掌に伝わる体温は、明らかに異常だった。
「だ、大丈夫ですって……。これくらい、平気です。私、風邪なんて、生まれてから一度も――」
「だ……だめよ! そ、そんな強がり……今は聞きたくないっ!」
震える声で遮った璃華の剣幕に、阿李は目を丸くし、しばし呆けたようにしていた。だがすぐに、小さくうなずき、素直に身を任せる。
璃華は彼女の肩を支えて部屋へと連れていき、寝台に寝かせる。
阿李の額には濡れた手巾を置き、水を汲み、背を拭き、薬草の煎じ湯を用意した。
それでも熱はなかなか下がらず、うわごとのように呻く声が夜気に滲んでいく。
(私が、もっと早く……気づいていれば)
璃華は、ひとときも彼女のそばを離れなかった。
やがて、阿李がようやく静かな寝息を立てた頃には、外の空はすっかり夜の帳に包まれていた。
(あれは一体、何だったの? 私にしか見えていなかった。あの黒い霧のような蛇と、後宮で続いている女官たちの病……関係があるとしたら)
璃華は阿李の額に浮かぶ汗を、そっと手巾で拭った。
寝台の上で苦しげに身じろぐ姿が、胸を締めつける。
(あれは、きっと、呪術の類。香に混ぜて、何かを――)
すぐ傍にいる大切な人が、目に見えぬ何かに蝕まれていく。
その恐怖と焦燥が、璃華の中でゆっくりと形を成していった。
(元を、断ち切らないと。阿李は――きっと、治らない)
そう確信すると、璃華は静かに立ち上がった。
手は小刻みに震えていたが、心の中には一本、芯のようなものが通っていた。
(私が、阿李を助ける……!)
決意と共に、黒の披帛を頭から被り、口元を布で覆う。
音を立てぬよう扉を開き、宮殿の外へと足を踏み出した。




