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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第二章 猫になったら、陛下に拾われました

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心臓を、氷の手で掴まれたような感覚。

 鳥肌がぶわりと立ち、呼吸が浅くなる。

 璃華は理解していた。

 ここが、非常に危険な場所であるということを。

 そして今まさに、この場所の奥で、何かが始まっているということを。

 極限の恐怖が、喉元までせり上がってくる。

 それでも璃華は、ひるまなかった。

 歩を、進めた。


(阿李の命が、かかっている。なら、わたしが、行かなきゃ)


 震える足に力を込め、歯を食いしばる。

 闇の中、霊廟の扉が、静かにその存在を主張していた。

 霊廟の扉の横に身を寄せると、内側から、低くくぐもった声が聞こえてきた。

 それはお経とも呪文ともつかぬ、不気味な抑揚をもった言葉の連なり。何かを呼ぶような、あるいは縛るような、聞く者の背筋をぞくりと震わせる奇妙な響きだった。


 ごくり、と喉が鳴る。

 璃華はおそるおそる扉の隙間から中を覗き込んだ。

 薄暗い灯りに照らされた広間。そこには五人ほどの女官が、膝をついて香炉を囲み、何かを唱えていた。

 その中央、ひときわ艶やかな姿で立っていたのは――ひとりの妃。


(……玉蘭様)


 謁見の場で見かけた、美しき貴妃。

 その姿が、視線の奥に鮮明によみがえる。

 鋭く引かれた紅の化粧が、吊り上がった目尻の艶を際立たせ、白粉の上に引かれた深紅の唇は、血の色にも似て艶めき、見る者の正気を奪うような妖しさを纏っていた。


 いま目にするのは後ろ姿だけだったが、それだけで、玉蘭であると分かった。

 艶やかな黒髪は丁寧に梳かれ、頭頂から流れる簪や金の花かんざしが、まるで夜空の星々のようにかすかに瞬いている。

 髪の先端はしなやかに背を滑り、裾を引く衣の刺繍と溶け合うように馴染んでいた。

 そこにあるだけで場の空気を支配するような存在感。あの麗しき妃以外にはあり得ない。

 けれど、今まさにその手で行われているのは、後宮において禁じられている呪術そのものだった。


(呪術の儀式……。まさか、あの玉蘭様が……)


 息が詰まりそうだった。

 これが表沙汰になれば、いかに貴妃とて、無事では済まされないはずだ。

 だが――


(密告なんて、無理よ。貴妃の名を出したところで、誰が信じてくれるの? 私の立場が危うくなるだけ。むしろ、口封じされかねない)


 手が汗ばむ。心臓が早鐘のように鳴っている。

 けれど、決して逃げ出してはならない。


(だったら……この儀式を、壊すしかない)


 璃華は小さく息を吸い、披帛の奥で奥歯を噛みしめた。

 璃華の胸に、あの夜の記憶が蘇る。

 黎煌と出会った、あの祭祀の日。

 最愛の母を喪ることとなった、血と炎に染まる凄惨な光景。

 あれがすべての始まりだった。

 湛州国で璃華は、罪人の娘として義母に虐げられ続けた。

 胸の奥が、手で握り潰されるように痛む。

 けれど今は、過去に囚われている場合ではない。


(阿李を助けるのよ)


 璃華は小さく息を吸い、正面の扉を離れて霊廟の周囲をそっと巡った。

 どこか、内部に通じる隙がないか。慎重に視線を走らせていると、背面にひとつ、小さな格子窓があるのを見つける。

 手を伸ばし、格子を音を立てぬように外す。冷たい木枠が、震える指先に触れる。

 よじ登るようにして身を潜り込ませ、細い窓枠を抜けた。


 着地の際にわずかに衣擦れの音がしたが、誰かに気づかれた様子はない。

 息を殺し、耳を澄ませる。外とは別世界のような静寂の中、どこかで燻る香の音が、微かに空気を撫でている。


(……入れた。でも、これからどうするの?)


 心臓が早鐘を打つなか、璃華は物陰に身を潜める。

 霊廟の正面には、重厚な大香炉が一基、据えられていた。

 玉蘭はその前に立ち、低く呪文のような言葉を延々と紡ぎ続けている。


 腰のあたりまである大香炉は、青銅で鋳造ちゅうぞうされており、年月を物語るように、ところどころ緑青が浮かんでいた。

 胴体には雲間を割る龍の姿が彫られている。うねる鱗、鋭い爪、裂帛れっぱくのごとき口。単なる装飾では済まされぬ威圧感が、そこにはあった。

 三本の脚は獣の足を模しており、地を踏みしめるような重々しさ。


 香炉の口には獅子の面がかたどられ、そこから煙が、絶え間なく吐き出されていた。

 白くゆらめく煙は、まるで魂が天へ導かれるかのように天井へと昇ってゆく。しかし、その軌跡は奇妙だった。

 真っ直ぐではなく、蛇のように螺旋を描きながら、まるで意志を持つように空中を漂っていく。


 甘く、濃密な香り。

 だがその奥底に、かすかに鉄錆のような、鼻をつく臭気が混ざっていた。

 それは、血を乾かした後のような、忌まわしく、生々しい匂い。


(……この香。やっぱり、普通のものじゃない)


 璃華の背に、ひたりと冷たい汗が流れた。


(大香炉を壊さなきゃ)


 璃華は息を呑んだまま、暗がりの中で身を潜めた。

 何を為すべきかは、はっきりしている。

 問題は、どうやって、それを実行するか。

 儀式が終わるまでじっと隠れて、誰もいなくなってから壊すべきだろうか。


(……違う。意味がないわ。儀式の最中に壊さなければ)


 母は霊獣を祀る巫女だった。璃華もまた、その血を継ぐ者。

 儀の力が最も強く、最も危ういのは、今なのだ。

 今このときに香炉を断たねば、阿李は治らない。


(でも……どうやって?)


 必死に目を凝らし、周囲を探る。

 壁際には、儀式に使う供物らしき薬草の束、灯明用の油脂壺、さまざまな壷が供えられている。

 その中に、見覚えのあるものを見つけた。

 乾いた山椒さんしょう


 母と共に薬草を分けた記憶が、脳裏によみがえる。

 乾いた山椒の実は、強い熱を受ければ皮が裂け、弾け飛ぶ。

 それが香の中に混ざれば、きっと。


 迷いは、なかった。

 璃華は供物壺に手を伸ばし、山椒をひとつかみする。

 足音を殺して大香炉へと近づき、その中へと放り込んだ。


 ――パンッ!

 鋭い破裂音が霊廟内に轟いた。

 瞬間、香炉の中で何かが炸裂し、橙色の火花がぱっと閃いた。

 舞い上がる香の灰、弾ける火花。空気が熱を帯び、ざらりとした気配が肌を撫でる。


「きゃあっ!」


「霊が、出た……!」


 黒い衣で頭と顔を隠した璃華は、幽霊のように見えたのかもしれない。

 女官たちの悲鳴が飛び交い、玉蘭は反射的に身を屈めた。

 呪詛の儀が暴走したとでも思ったのか、霊廟内はたちまち混乱に包まれる。


(――今しかない!)


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