④
心臓を、氷の手で掴まれたような感覚。
鳥肌がぶわりと立ち、呼吸が浅くなる。
璃華は理解していた。
ここが、非常に危険な場所であるということを。
そして今まさに、この場所の奥で、何かが始まっているということを。
極限の恐怖が、喉元までせり上がってくる。
それでも璃華は、ひるまなかった。
歩を、進めた。
(阿李の命が、かかっている。なら、わたしが、行かなきゃ)
震える足に力を込め、歯を食いしばる。
闇の中、霊廟の扉が、静かにその存在を主張していた。
霊廟の扉の横に身を寄せると、内側から、低くくぐもった声が聞こえてきた。
それはお経とも呪文ともつかぬ、不気味な抑揚をもった言葉の連なり。何かを呼ぶような、あるいは縛るような、聞く者の背筋をぞくりと震わせる奇妙な響きだった。
ごくり、と喉が鳴る。
璃華はおそるおそる扉の隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い灯りに照らされた広間。そこには五人ほどの女官が、膝をついて香炉を囲み、何かを唱えていた。
その中央、ひときわ艶やかな姿で立っていたのは――ひとりの妃。
(……玉蘭様)
謁見の場で見かけた、美しき貴妃。
その姿が、視線の奥に鮮明によみがえる。
鋭く引かれた紅の化粧が、吊り上がった目尻の艶を際立たせ、白粉の上に引かれた深紅の唇は、血の色にも似て艶めき、見る者の正気を奪うような妖しさを纏っていた。
いま目にするのは後ろ姿だけだったが、それだけで、玉蘭であると分かった。
艶やかな黒髪は丁寧に梳かれ、頭頂から流れる簪や金の花かんざしが、まるで夜空の星々のようにかすかに瞬いている。
髪の先端はしなやかに背を滑り、裾を引く衣の刺繍と溶け合うように馴染んでいた。
そこにあるだけで場の空気を支配するような存在感。あの麗しき妃以外にはあり得ない。
けれど、今まさにその手で行われているのは、後宮において禁じられている呪術そのものだった。
(呪術の儀式……。まさか、あの玉蘭様が……)
息が詰まりそうだった。
これが表沙汰になれば、いかに貴妃とて、無事では済まされないはずだ。
だが――
(密告なんて、無理よ。貴妃の名を出したところで、誰が信じてくれるの? 私の立場が危うくなるだけ。むしろ、口封じされかねない)
手が汗ばむ。心臓が早鐘のように鳴っている。
けれど、決して逃げ出してはならない。
(だったら……この儀式を、壊すしかない)
璃華は小さく息を吸い、披帛の奥で奥歯を噛みしめた。
璃華の胸に、あの夜の記憶が蘇る。
黎煌と出会った、あの祭祀の日。
最愛の母を喪ることとなった、血と炎に染まる凄惨な光景。
あれがすべての始まりだった。
湛州国で璃華は、罪人の娘として義母に虐げられ続けた。
胸の奥が、手で握り潰されるように痛む。
けれど今は、過去に囚われている場合ではない。
(阿李を助けるのよ)
璃華は小さく息を吸い、正面の扉を離れて霊廟の周囲をそっと巡った。
どこか、内部に通じる隙がないか。慎重に視線を走らせていると、背面にひとつ、小さな格子窓があるのを見つける。
手を伸ばし、格子を音を立てぬように外す。冷たい木枠が、震える指先に触れる。
よじ登るようにして身を潜り込ませ、細い窓枠を抜けた。
着地の際にわずかに衣擦れの音がしたが、誰かに気づかれた様子はない。
息を殺し、耳を澄ませる。外とは別世界のような静寂の中、どこかで燻る香の音が、微かに空気を撫でている。
(……入れた。でも、これからどうするの?)
心臓が早鐘を打つなか、璃華は物陰に身を潜める。
霊廟の正面には、重厚な大香炉が一基、据えられていた。
玉蘭はその前に立ち、低く呪文のような言葉を延々と紡ぎ続けている。
腰のあたりまである大香炉は、青銅で鋳造されており、年月を物語るように、ところどころ緑青が浮かんでいた。
胴体には雲間を割る龍の姿が彫られている。うねる鱗、鋭い爪、裂帛のごとき口。単なる装飾では済まされぬ威圧感が、そこにはあった。
三本の脚は獣の足を模しており、地を踏みしめるような重々しさ。
香炉の口には獅子の面が象られ、そこから煙が、絶え間なく吐き出されていた。
白くゆらめく煙は、まるで魂が天へ導かれるかのように天井へと昇ってゆく。しかし、その軌跡は奇妙だった。
真っ直ぐではなく、蛇のように螺旋を描きながら、まるで意志を持つように空中を漂っていく。
甘く、濃密な香り。
だがその奥底に、かすかに鉄錆のような、鼻をつく臭気が混ざっていた。
それは、血を乾かした後のような、忌まわしく、生々しい匂い。
(……この香。やっぱり、普通のものじゃない)
璃華の背に、ひたりと冷たい汗が流れた。
(大香炉を壊さなきゃ)
璃華は息を呑んだまま、暗がりの中で身を潜めた。
何を為すべきかは、はっきりしている。
問題は、どうやって、それを実行するか。
儀式が終わるまでじっと隠れて、誰もいなくなってから壊すべきだろうか。
(……違う。意味がないわ。儀式の最中に壊さなければ)
母は霊獣を祀る巫女だった。璃華もまた、その血を継ぐ者。
儀の力が最も強く、最も危ういのは、今なのだ。
今このときに香炉を断たねば、阿李は治らない。
(でも……どうやって?)
必死に目を凝らし、周囲を探る。
壁際には、儀式に使う供物らしき薬草の束、灯明用の油脂壺、さまざまな壷が供えられている。
その中に、見覚えのあるものを見つけた。
乾いた山椒。
母と共に薬草を分けた記憶が、脳裏によみがえる。
乾いた山椒の実は、強い熱を受ければ皮が裂け、弾け飛ぶ。
それが香の中に混ざれば、きっと。
迷いは、なかった。
璃華は供物壺に手を伸ばし、山椒をひとつかみする。
足音を殺して大香炉へと近づき、その中へと放り込んだ。
――パンッ!
鋭い破裂音が霊廟内に轟いた。
瞬間、香炉の中で何かが炸裂し、橙色の火花がぱっと閃いた。
舞い上がる香の灰、弾ける火花。空気が熱を帯び、ざらりとした気配が肌を撫でる。
「きゃあっ!」
「霊が、出た……!」
黒い衣で頭と顔を隠した璃華は、幽霊のように見えたのかもしれない。
女官たちの悲鳴が飛び交い、玉蘭は反射的に身を屈めた。
呪詛の儀が暴走したとでも思ったのか、霊廟内はたちまち混乱に包まれる。
(――今しかない!)




