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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第二章 猫になったら、陛下に拾われました

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璃華は跳ねるように駆け出し、大香炉に全身をぶつけるようにして押し倒した。

 ごうっ、と重たい音が響く。

 龍を象った大香炉がゆっくりと傾き、ついには横倒しになった。


「だ、大香炉が――っ!」


「結界が壊れる……っ!」


 女官たちの声が絶叫に変わり、霊廟の空気がびりびりと震え始める。

 灰が舞い、香煙が暴れ、空間そのものが軋んだ。


(この混乱に紛れて、逃げなきゃ!)


 璃華は反転し、来た道を戻ろうと足を踏み出した。

 だが、玉蘭だけは動じていなかった。目を細め、低く鋭い声が霊廟に響く。


「侵入者よ。早く捕らえなさい!」


 その一言で、怯えていた女官たちが一斉に正気を取り戻す。

 呪いでも霊でもないと悟った瞬間、彼女たちの眼差しは獣のように鋭くなった。


(まずい……!)


 璃華はとっさに柱の影へと身を滑り込ませた。

 けれど、いずれ見つかるのは目に見えている。逃げ道は、もうほとんど残されていなかった。


(窓から戻る……? だめ、追いつかれる。なら、正面突破? でも、複数人の間をすり抜けるなんて……)


 考えれば考えるほど、選択肢は削られていく。

 背中に冷たい汗が伝い、呼吸がうまくできない。


(どうすれば……どうしたら……!)


「どこだ、どこへ行った!」


「早く見つけなさい!」


 女官たちの足音が迫る。

 あと少しでこの隠れ場も、見つかってしまう。


(捕まったら……殺される!)


 璃華の身体が震え出す。膝に力が入らない。視界が揺れる。

 ――そのときだった。


「いました! ここです!」


 女官の叫びが、静寂を裂くように響いた。

 視線が合った。終わりだ。そう思った。


(……お母様!)


 思わず、心の奥で叫んでいた。

 亡き母の面影が、走馬灯のように浮かぶ。

 優しかった声、抱きしめてくれた温もり。

 もうこの世にいないはずの存在。それなのに、なぜかその瞬間だけ、すぐ傍にいるような気がした。


 魂が、呼応する。

 亡き母を心の奥底から呼んだ瞬間、何かが胸の奥で弾けた。

 次の瞬間、璃華の身体に、異変が走った。

 視界が揺れた。世界が、音もなく遠ざかる。

 指先がじんわりと痺れ、力が抜けていく。

 衣がすべり落ち、重力が急に変わったかのように、身体がふわりと浮く感覚に包まれた。

 そして――


「……なによ、ただの猫じゃない」


 女官のひとりが、足元を指さして小さくつぶやいた。


「あら? たしかにここに誰かいたような……でも、なんでこんなところに猫が?」


「そうだけど、それより侵入者を見つけなきゃ! 逃したら、私たちが玉蘭様に叱責されるわ!」


 バタバタと足音が遠ざかっていく。


(……猫?)


 璃華は思わず、呆けた。

 目に映るすべてが巨大に見えた。

 床が近く、棚は山のように高くそびえている。

 それだけではない。自分の目の前に広がっていたのは、先ほどまで着ていた衣だった。

 その最上に、黒い披帛がふんわりと折り重なっている。

 女官たちは衣の山の下に本人がいたことに、とうとう気づかなかったようだ。


(え……えええ⁉)


 璃華は、己の手……ではなく、前足を見つめた。

 黒く、柔らかな毛に覆われた小さな脚。

 試しに声を出してみると、「ふにゃ」と小さな鳴き声が漏れた。


(こ、こんな……こんなことって……!)


 とんでもないことになってしまった。だが、今は考えている場合ではない。

 追っ手が再び戻ってくる前に、この場を離れなくては。

 璃華は小さな体をぎゅっと縮め、身を低くして助走をつける。

 そして、ひらりとひと跳びで、窓枠へ飛び移った。


 黒く小さな身体は、そのまま月影に紛れるように、闇へと溶けていった。

 玉蘭の宮殿を離れる頃には、背後の騒ぎもすっかり遠のいていた。

 ようやく、安堵の息が、ふう、と小さく漏れる。

 璃華はひとまず屋根の上に身を伏せ、しっぽを巻きながら、月を見上げた。


(……助かった、のよね……?)


 ふわふわの胸元が上下し、心臓の鼓動が、まだ早鐘のように打っていた。


(……よ、良かった。とりあえず逃げ切れた。これでひと安心……)


 そう思った次の瞬間――


(じゃなぁぁいっ!!)


 璃華は、思わず心の中で絶叫した。

 改めて、自分の体を見下ろす。

 しっとりと艶を帯びた漆黒の毛並み。

 柔らかくてぷにぷにの桃色の肉球。

 そして、ふわふわと風にそよぐ長い尻尾。


(ど、どこからどう見ても……猫! か、可愛い……じゃなくて! そうじゃなくてっ! 私、どうなってるの⁉)


 思わず四つ足でその場をぐるぐると回ってしまう。

 けれど、何度見ても、触れても、そこにあるのは、小さな黒猫の姿だった。

 どうやら、自分は本当に、猫になってしまったらしい。

 あの場で捕まるよりはまだ救いがあるように思える。とはいえ、猫になるなんて、どこをどう取っても異常事態だった。


(どうして猫なの⁉)


 問いかけても、返事はない。

 頭の中は疑問だらけだが、今は深く考える余裕もない。


(と、とにかく……いったん帰ろう。寝て起きたら元に戻ってるかも……)


 そんな根拠のない希望にすがりつつ、璃華は芙蓉殿へ戻った。

 ひとけのない宮の屋根を駆け抜け、熟練の猫のような身のこなしで寝台の上へ。

 自分の寝床にぽふりと飛び乗ると、そこで小さく丸くなる。

 ふわりと、安心が広がった。

 疲れていたせいか、猫の身体の影響か。

 ぽかぽかとした温もりに包まれ、璃華のまぶたはすとんと落ちていった。

 そうして、漆黒の小さな猫は、すやすやと静かな眠りへと落ちていったのだった。

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