⑤
璃華は跳ねるように駆け出し、大香炉に全身をぶつけるようにして押し倒した。
ごうっ、と重たい音が響く。
龍を象った大香炉がゆっくりと傾き、ついには横倒しになった。
「だ、大香炉が――っ!」
「結界が壊れる……っ!」
女官たちの声が絶叫に変わり、霊廟の空気がびりびりと震え始める。
灰が舞い、香煙が暴れ、空間そのものが軋んだ。
(この混乱に紛れて、逃げなきゃ!)
璃華は反転し、来た道を戻ろうと足を踏み出した。
だが、玉蘭だけは動じていなかった。目を細め、低く鋭い声が霊廟に響く。
「侵入者よ。早く捕らえなさい!」
その一言で、怯えていた女官たちが一斉に正気を取り戻す。
呪いでも霊でもないと悟った瞬間、彼女たちの眼差しは獣のように鋭くなった。
(まずい……!)
璃華はとっさに柱の影へと身を滑り込ませた。
けれど、いずれ見つかるのは目に見えている。逃げ道は、もうほとんど残されていなかった。
(窓から戻る……? だめ、追いつかれる。なら、正面突破? でも、複数人の間をすり抜けるなんて……)
考えれば考えるほど、選択肢は削られていく。
背中に冷たい汗が伝い、呼吸がうまくできない。
(どうすれば……どうしたら……!)
「どこだ、どこへ行った!」
「早く見つけなさい!」
女官たちの足音が迫る。
あと少しでこの隠れ場も、見つかってしまう。
(捕まったら……殺される!)
璃華の身体が震え出す。膝に力が入らない。視界が揺れる。
――そのときだった。
「いました! ここです!」
女官の叫びが、静寂を裂くように響いた。
視線が合った。終わりだ。そう思った。
(……お母様!)
思わず、心の奥で叫んでいた。
亡き母の面影が、走馬灯のように浮かぶ。
優しかった声、抱きしめてくれた温もり。
もうこの世にいないはずの存在。それなのに、なぜかその瞬間だけ、すぐ傍にいるような気がした。
魂が、呼応する。
亡き母を心の奥底から呼んだ瞬間、何かが胸の奥で弾けた。
次の瞬間、璃華の身体に、異変が走った。
視界が揺れた。世界が、音もなく遠ざかる。
指先がじんわりと痺れ、力が抜けていく。
衣がすべり落ち、重力が急に変わったかのように、身体がふわりと浮く感覚に包まれた。
そして――
「……なによ、ただの猫じゃない」
女官のひとりが、足元を指さして小さくつぶやいた。
「あら? たしかにここに誰かいたような……でも、なんでこんなところに猫が?」
「そうだけど、それより侵入者を見つけなきゃ! 逃したら、私たちが玉蘭様に叱責されるわ!」
バタバタと足音が遠ざかっていく。
(……猫?)
璃華は思わず、呆けた。
目に映るすべてが巨大に見えた。
床が近く、棚は山のように高くそびえている。
それだけではない。自分の目の前に広がっていたのは、先ほどまで着ていた衣だった。
その最上に、黒い披帛がふんわりと折り重なっている。
女官たちは衣の山の下に本人がいたことに、とうとう気づかなかったようだ。
(え……えええ⁉)
璃華は、己の手……ではなく、前足を見つめた。
黒く、柔らかな毛に覆われた小さな脚。
試しに声を出してみると、「ふにゃ」と小さな鳴き声が漏れた。
(こ、こんな……こんなことって……!)
とんでもないことになってしまった。だが、今は考えている場合ではない。
追っ手が再び戻ってくる前に、この場を離れなくては。
璃華は小さな体をぎゅっと縮め、身を低くして助走をつける。
そして、ひらりとひと跳びで、窓枠へ飛び移った。
黒く小さな身体は、そのまま月影に紛れるように、闇へと溶けていった。
玉蘭の宮殿を離れる頃には、背後の騒ぎもすっかり遠のいていた。
ようやく、安堵の息が、ふう、と小さく漏れる。
璃華はひとまず屋根の上に身を伏せ、しっぽを巻きながら、月を見上げた。
(……助かった、のよね……?)
ふわふわの胸元が上下し、心臓の鼓動が、まだ早鐘のように打っていた。
(……よ、良かった。とりあえず逃げ切れた。これでひと安心……)
そう思った次の瞬間――
(じゃなぁぁいっ!!)
璃華は、思わず心の中で絶叫した。
改めて、自分の体を見下ろす。
しっとりと艶を帯びた漆黒の毛並み。
柔らかくてぷにぷにの桃色の肉球。
そして、ふわふわと風にそよぐ長い尻尾。
(ど、どこからどう見ても……猫! か、可愛い……じゃなくて! そうじゃなくてっ! 私、どうなってるの⁉)
思わず四つ足でその場をぐるぐると回ってしまう。
けれど、何度見ても、触れても、そこにあるのは、小さな黒猫の姿だった。
どうやら、自分は本当に、猫になってしまったらしい。
あの場で捕まるよりはまだ救いがあるように思える。とはいえ、猫になるなんて、どこをどう取っても異常事態だった。
(どうして猫なの⁉)
問いかけても、返事はない。
頭の中は疑問だらけだが、今は深く考える余裕もない。
(と、とにかく……いったん帰ろう。寝て起きたら元に戻ってるかも……)
そんな根拠のない希望にすがりつつ、璃華は芙蓉殿へ戻った。
ひとけのない宮の屋根を駆け抜け、熟練の猫のような身のこなしで寝台の上へ。
自分の寝床にぽふりと飛び乗ると、そこで小さく丸くなる。
ふわりと、安心が広がった。
疲れていたせいか、猫の身体の影響か。
ぽかぽかとした温もりに包まれ、璃華のまぶたはすとんと落ちていった。
そうして、漆黒の小さな猫は、すやすやと静かな眠りへと落ちていったのだった。




