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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第二章 猫になったら、陛下に拾われました

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――翌朝。

 ゆっくりと意識が浮かび上がる。

 目を開けて最初に見えたのは、変わらぬ寝台の天蓋……ではなく、見慣れない高さの天蓋と、ぽかぽかと暖かい日差しだった。

 璃華は、そっと身体を起こしてみる。

 もふり、とした音が、聞こえたような気がした。


(……え?)


 前足。しっぽ。ふわふわの黒毛。

 ……そうだった。夢じゃなかった。璃華はまだ、猫のままだった。


(そんな……まだ戻っていない……)


 がっくりと肩を落とした――つもりだったが、猫の体にそんな肩はない。

 そのとき。


「娘々っ! おはようございます! 阿李はすっかり元気になりましたよ!」


 元気な声と共に、扉が勢いよく開かれる。

 いつもの数倍は朗らかな様子に、璃華は思わず胸を撫で下ろす。


(……よかった。呪術、解けたんだわ)


 だが、その安心も束の間。

 寝台の上で丸まっていた黒猫と目が合った阿李は、ぴたりと動きを止め、目を丸くした。


「……えっ、ええっ? 猫? 娘々の寝台に、猫が……って、だめじゃない!」


 眉を寄せて、両手で追い払う仕草をする。


「こらこら、野良猫さん、ここはだめです! しっ、しっ!」


(ち、違うの! わ、私よ! 璃華なのっ!)


 叫びたくても、喉から出るのはか細い「ニャー」という鳴き声だけ。

 抵抗むなしく、寝台から追い出された璃華は、ぽすんと床に落ちて、そのまま部屋の外へと押し出されてしまった。

 ぱたん、と無情に扉が閉じられる。


(えぇぇぇ~~っ⁉)


 内側から、阿李の声が聞こえてくる。


「……あれ? 娘々、どこにいらっしゃるの? 娘々~?」


 廊下の外で丸くなる黒猫の璃華。


(ここにいるのに……!)


 切なさとやるせなさに身をよじる。


「娘々~? にゃんにゃん~? どこですか~?」


(……にゃんにゃん、て……)


 文字通り“にゃんにゃん”と呼ばれた璃華の心は、複雑極まりなかった。

 それからというもの、璃華の行方が分からないという知らせに、芙蓉殿は一転して騒然となった。

 誰もが口々に「娘々はどこへ?」「昨夜までは確かに……」と慌てふためき、下女たちは手分けして殿内を探し回っていた。


 当の璃華――いや、猫の姿となった璃華はというと、何度もこっそり建物に忍び込もうと試みては、あえなく追い出されていた。


(ちがうの、私なのよっ……!)


 そう叫んでも、口から漏れるのは可愛らしい「ニャア」という鳴き声のみ。

 野良猫と思われているらしく、下女たちは容赦なく追い払ってくる。

 どうにかして、自分が璃華であることを伝えられないか。

 けれど、もし本当に「徳妃が猫になった」などという噂が広まれば、それはそれで騒動になりかねない。


(うぅ……どうしたらいいの……)


 庭園の片隅、生垣に身を潜めたまま、璃華はしょんぼりと長い尻尾を丸めた。

 そのときだった。

 芙蓉殿の外門が静かに開き、数名の宦官を従えてひとりの男が姿を現した。

 金色の刺繍をあしらった黒衣の裾が風に揺れる。


(……えっ⁉)


 目を見張る璃華。来訪者は――黎煌、その人だった。

 皇帝自らが、日中に後宮を訪れるなど、極めて異例のこと。

 後宮に足を運ぶのを好まぬことで有名な黎煌が、自らこの場所へ現れたのだ。


「へ、陛下……⁉ 一体どうなされたのですか……⁉」


 阿李が、場の空気も礼儀も忘れたように駆け寄る。

 ふだんなら、平伏し目を合わせることすら恐れ多い相手に、真っ直ぐ顔を向けていた。それほどに、璃華の失踪は衝撃だったのだろう。

 だが、黎煌は咎める様子など一切見せなかった。むしろ、焦りと怒りを押し殺すような声音で言い放つ。


「璃華がいなくなったと聞き、公務を中断して来た。――どういうことだ」


 その一言に、阿李も女官たちも、息を呑んで黙り込む。

 阿李が事情を説明し終えるやいなや、黎煌はすぐさま命じた。


「芙蓉殿だけでなく、後宮全土を捜索させよ!」


 その命に従い、後宮中に号令が響く。

 大規模な捜索が始まり、黎煌自身も裾を翻して捜索に乗り出した。

 太陽が西に傾き、夕闇が迫っても、徳妃・璃華は見つからなかった。


 ――無理もない。

 当の本人は、いま、猫になって庭の植え込みでしょんぼりしているのだから。


「陛下、そろそろお戻りになりませんと……」


 控えていた宦官が、遠慮がちに声をかける。

 だが、黎煌は視線を動かさぬまま、静かに応じた。


「……わかっている。少しだけ、ひとりにしてくれ」


 宦官たちが下がると、芙蓉殿の庭園には、黎煌ひとりだけが残された。

 夕暮れの光が沈み、空は藍に染まりつつある。

 朱塗りの柱と石畳に、長く寂しげな影が落ちていた。

 黎煌は、咲き残る薄紅葵の傍に立ち尽くしていた。

 人払いをしてあるため、庭には物音ひとつない。


「……璃華。どこに行った」


 ぽつりと落とされた声は、風に消えるにはあまりにも切なかった。


「そんなに、余のもとを離れたかったのか……?」


 ふだんは感情を表に出さない彼が、肩を落として独りごちている。


(そんなこと、ないのに……)


 璃華の胸がぎゅっと痛んだ。

 こんな黎煌を見るのは初めてだった。冷たくも尊い光を湛えた彼の眼差しが、いまはどこまでも寂しげに揺らいでいた。

 堪えきれず、璃華は静かに足を踏み出す。


「……ニャー」


 そっと、鳴いた。

 黒猫の姿で、しずしずと黎煌の足元へ近寄っていく。


「……猫?」


 黎煌が目を細め、ふと膝を折った。


「どこから入った?」


 その声には、普段のような威厳も冷たさもなかった。

 まるで、大切なものを扱うような柔らかさを帯びていた。

 璃華は、ちょこんと腰を下ろし、翡翠のような瞳で黎煌を見上げた。

 黎煌の唇が、わずかに動く。


「……黒く艶やかな毛並みに、翡翠を溶かしたような澄んだ瞳。その愛らしさは、まるで璃華のようだな」


 その声音は、まるで恋文をささやくかのように甘く、低く。


(……っ)


 璃華の胸が、どくんと跳ねた。

 こんなにも優しい眼差しを、自分に向けてくれる日が来るなんて。

 けれど、いまの彼には、璃華が璃華だとはわからない。

 それが、歯がゆくて。

 涙の代わりに、またひとつ、小さく鳴いた。


「……にゃあ」


 黎煌が静かに手を差し出す。


「……おいで」


 低く響くその声に、璃華は思わず足を止めた。

 胸の鼓動が早鐘のように跳ねる。


(だ、駄目よ、近づいたら。でも……)


 迷いながらも、おずおずと前脚を踏み出す。

 その様子を見て、黎煌はふっと目元を和らげた。

 次の瞬間、璃華はふわりと宙に浮いた。


(……ひゃあ!)


 黎煌の大きくあたたかな手が、そっと璃華の体を包み込んでいる。

 そのまま、璃華を胸元へと抱き寄せた。


(ま、待ってください陛下っ……! 今の私は猫です、猫なんですからっ!)


 必死に心の中で叫ぶが、もちろん声にはならない。

 それどころか、黎煌は璃華の柔らかな毛並みに頬を寄せた。


「……おまえ、本当に璃華に似ているな。愛らしく、懐かしい香りがする」


(や、やめてください、それ以上はほんとにっ……!)


 璃華の体が、きゅっと固まる。

 けれど、その胸の中はあたたかくて、優しくて。

 どうしようもなく、泣きたくなってしまう。

 それでもじっと耐えていると、黎煌がそっと微笑んだ。


「良い子だな。璃華のように、心をくすぐる愛らしさだ。……気に入った。余のもとに来い」


 その言葉に、璃華の心臓が跳ね上がる。

 思わず耳がぴくりと揺れた。

 そのまま黎煌は、璃華を胸に抱えたまま歩き出す。

 芙蓉殿の外で待っていた宦官が、驚いたように顔を上げた。


「陛下、お戻りになりますか」


「ああ。……この子も一緒に連れて帰る」


「えっ? で、ですが……」


「余が気に入った。文句はあるまい?」


「……はっ」


 黎煌の一声に、宦官は平伏するほかなかった。

 こうして、璃華は猫の姿のまま、皇帝・黎煌に拾われ、後宮を出ることとなった。


(な、なんでこうなるのよぉ……!)


 胸の奥で泣きながら、璃華は抱かれたまま、しずしずと運ばれていった。



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