⑥
――翌朝。
ゆっくりと意識が浮かび上がる。
目を開けて最初に見えたのは、変わらぬ寝台の天蓋……ではなく、見慣れない高さの天蓋と、ぽかぽかと暖かい日差しだった。
璃華は、そっと身体を起こしてみる。
もふり、とした音が、聞こえたような気がした。
(……え?)
前足。しっぽ。ふわふわの黒毛。
……そうだった。夢じゃなかった。璃華はまだ、猫のままだった。
(そんな……まだ戻っていない……)
がっくりと肩を落とした――つもりだったが、猫の体にそんな肩はない。
そのとき。
「娘々っ! おはようございます! 阿李はすっかり元気になりましたよ!」
元気な声と共に、扉が勢いよく開かれる。
いつもの数倍は朗らかな様子に、璃華は思わず胸を撫で下ろす。
(……よかった。呪術、解けたんだわ)
だが、その安心も束の間。
寝台の上で丸まっていた黒猫と目が合った阿李は、ぴたりと動きを止め、目を丸くした。
「……えっ、ええっ? 猫? 娘々の寝台に、猫が……って、だめじゃない!」
眉を寄せて、両手で追い払う仕草をする。
「こらこら、野良猫さん、ここはだめです! しっ、しっ!」
(ち、違うの! わ、私よ! 璃華なのっ!)
叫びたくても、喉から出るのはか細い「ニャー」という鳴き声だけ。
抵抗むなしく、寝台から追い出された璃華は、ぽすんと床に落ちて、そのまま部屋の外へと押し出されてしまった。
ぱたん、と無情に扉が閉じられる。
(えぇぇぇ~~っ⁉)
内側から、阿李の声が聞こえてくる。
「……あれ? 娘々、どこにいらっしゃるの? 娘々~?」
廊下の外で丸くなる黒猫の璃華。
(ここにいるのに……!)
切なさとやるせなさに身をよじる。
「娘々~? にゃんにゃん~? どこですか~?」
(……にゃんにゃん、て……)
文字通り“にゃんにゃん”と呼ばれた璃華の心は、複雑極まりなかった。
それからというもの、璃華の行方が分からないという知らせに、芙蓉殿は一転して騒然となった。
誰もが口々に「娘々はどこへ?」「昨夜までは確かに……」と慌てふためき、下女たちは手分けして殿内を探し回っていた。
当の璃華――いや、猫の姿となった璃華はというと、何度もこっそり建物に忍び込もうと試みては、あえなく追い出されていた。
(ちがうの、私なのよっ……!)
そう叫んでも、口から漏れるのは可愛らしい「ニャア」という鳴き声のみ。
野良猫と思われているらしく、下女たちは容赦なく追い払ってくる。
どうにかして、自分が璃華であることを伝えられないか。
けれど、もし本当に「徳妃が猫になった」などという噂が広まれば、それはそれで騒動になりかねない。
(うぅ……どうしたらいいの……)
庭園の片隅、生垣に身を潜めたまま、璃華はしょんぼりと長い尻尾を丸めた。
そのときだった。
芙蓉殿の外門が静かに開き、数名の宦官を従えてひとりの男が姿を現した。
金色の刺繍をあしらった黒衣の裾が風に揺れる。
(……えっ⁉)
目を見張る璃華。来訪者は――黎煌、その人だった。
皇帝自らが、日中に後宮を訪れるなど、極めて異例のこと。
後宮に足を運ぶのを好まぬことで有名な黎煌が、自らこの場所へ現れたのだ。
「へ、陛下……⁉ 一体どうなされたのですか……⁉」
阿李が、場の空気も礼儀も忘れたように駆け寄る。
ふだんなら、平伏し目を合わせることすら恐れ多い相手に、真っ直ぐ顔を向けていた。それほどに、璃華の失踪は衝撃だったのだろう。
だが、黎煌は咎める様子など一切見せなかった。むしろ、焦りと怒りを押し殺すような声音で言い放つ。
「璃華がいなくなったと聞き、公務を中断して来た。――どういうことだ」
その一言に、阿李も女官たちも、息を呑んで黙り込む。
阿李が事情を説明し終えるやいなや、黎煌はすぐさま命じた。
「芙蓉殿だけでなく、後宮全土を捜索させよ!」
その命に従い、後宮中に号令が響く。
大規模な捜索が始まり、黎煌自身も裾を翻して捜索に乗り出した。
太陽が西に傾き、夕闇が迫っても、徳妃・璃華は見つからなかった。
――無理もない。
当の本人は、いま、猫になって庭の植え込みでしょんぼりしているのだから。
「陛下、そろそろお戻りになりませんと……」
控えていた宦官が、遠慮がちに声をかける。
だが、黎煌は視線を動かさぬまま、静かに応じた。
「……わかっている。少しだけ、ひとりにしてくれ」
宦官たちが下がると、芙蓉殿の庭園には、黎煌ひとりだけが残された。
夕暮れの光が沈み、空は藍に染まりつつある。
朱塗りの柱と石畳に、長く寂しげな影が落ちていた。
黎煌は、咲き残る薄紅葵の傍に立ち尽くしていた。
人払いをしてあるため、庭には物音ひとつない。
「……璃華。どこに行った」
ぽつりと落とされた声は、風に消えるにはあまりにも切なかった。
「そんなに、余のもとを離れたかったのか……?」
ふだんは感情を表に出さない彼が、肩を落として独りごちている。
(そんなこと、ないのに……)
璃華の胸がぎゅっと痛んだ。
こんな黎煌を見るのは初めてだった。冷たくも尊い光を湛えた彼の眼差しが、いまはどこまでも寂しげに揺らいでいた。
堪えきれず、璃華は静かに足を踏み出す。
「……ニャー」
そっと、鳴いた。
黒猫の姿で、しずしずと黎煌の足元へ近寄っていく。
「……猫?」
黎煌が目を細め、ふと膝を折った。
「どこから入った?」
その声には、普段のような威厳も冷たさもなかった。
まるで、大切なものを扱うような柔らかさを帯びていた。
璃華は、ちょこんと腰を下ろし、翡翠のような瞳で黎煌を見上げた。
黎煌の唇が、わずかに動く。
「……黒く艶やかな毛並みに、翡翠を溶かしたような澄んだ瞳。その愛らしさは、まるで璃華のようだな」
その声音は、まるで恋文をささやくかのように甘く、低く。
(……っ)
璃華の胸が、どくんと跳ねた。
こんなにも優しい眼差しを、自分に向けてくれる日が来るなんて。
けれど、いまの彼には、璃華が璃華だとはわからない。
それが、歯がゆくて。
涙の代わりに、またひとつ、小さく鳴いた。
「……にゃあ」
黎煌が静かに手を差し出す。
「……おいで」
低く響くその声に、璃華は思わず足を止めた。
胸の鼓動が早鐘のように跳ねる。
(だ、駄目よ、近づいたら。でも……)
迷いながらも、おずおずと前脚を踏み出す。
その様子を見て、黎煌はふっと目元を和らげた。
次の瞬間、璃華はふわりと宙に浮いた。
(……ひゃあ!)
黎煌の大きくあたたかな手が、そっと璃華の体を包み込んでいる。
そのまま、璃華を胸元へと抱き寄せた。
(ま、待ってください陛下っ……! 今の私は猫です、猫なんですからっ!)
必死に心の中で叫ぶが、もちろん声にはならない。
それどころか、黎煌は璃華の柔らかな毛並みに頬を寄せた。
「……おまえ、本当に璃華に似ているな。愛らしく、懐かしい香りがする」
(や、やめてください、それ以上はほんとにっ……!)
璃華の体が、きゅっと固まる。
けれど、その胸の中はあたたかくて、優しくて。
どうしようもなく、泣きたくなってしまう。
それでもじっと耐えていると、黎煌がそっと微笑んだ。
「良い子だな。璃華のように、心をくすぐる愛らしさだ。……気に入った。余のもとに来い」
その言葉に、璃華の心臓が跳ね上がる。
思わず耳がぴくりと揺れた。
そのまま黎煌は、璃華を胸に抱えたまま歩き出す。
芙蓉殿の外で待っていた宦官が、驚いたように顔を上げた。
「陛下、お戻りになりますか」
「ああ。……この子も一緒に連れて帰る」
「えっ? で、ですが……」
「余が気に入った。文句はあるまい?」
「……はっ」
黎煌の一声に、宦官は平伏するほかなかった。
こうして、璃華は猫の姿のまま、皇帝・黎煌に拾われ、後宮を出ることとなった。
(な、なんでこうなるのよぉ……!)
胸の奥で泣きながら、璃華は抱かれたまま、しずしずと運ばれていった。




