②
少女の声は、信じることを諦めていた璃華の胸に、そっと火を灯した。
あの文書が璟嘉国から届いたときは、さすがに璃華も耳を疑った。
自分が後宮の妃に所望されるなど、なにかの間違いに違いないと。
……けれど。
義母も父も、そろって笑っていた。
璃華が驚いているあいだに、話はとんとん拍子に進み、入内が決まってしまったのだ。
父は結納金の額に目を輝かせ、義母は「妃として望まれた」ことに大層満足していた。
なぜならば……
黎煌──璟嘉国の若き皇帝。
わずか二十二歳で即位し、冷酷無比の暴君と噂されている。
先帝の崩御後、皇位を巡って国中が血に染まった数年間。
その戦で、黎煌は敵を容赦なく討ち、残虐な所業は他国にまで名を轟かせた。
彼が戦場に立てば、敵兵は数刻で壊滅した。
捕虜にした敵将の首を晒し、その妻子を公開処刑したという話もある。
自らの剣で反乱軍の将を一刀両断にした場面を見た兵たちは、口を揃えてこう言った。
「あれは、鬼だ」
後宮でも、侍女のちょっとした過ちに激怒し、無慈悲に打ち首にしたとか、妃の機嫌を損ねただけで冷宮に送り、二度と日の目を見させなかったとか──
そんな噂ばかりが璃華の耳に届いていた。
後宮の妃たちにも情け容赦がないと言われており、妃になりたがる者すらいないほど。
そんな恐ろしい相手の元へ嫁ぐのだから、家族にとっては好都合だったのだろう。
莫大な結納金の大半は湛州の国庫に収められ、璃華にはろくな嫁入り道具も用意されなかった。
「い……いえ。こ、これは……人質よ……」
自分が寵愛されるなんて、そんなことあるはずがない。
きっとこれから、待っているのは冷たい仕打ちと、恐ろしい日々。
それでも、逃げることは許されない。
璃華はそっと拳を握りしめ、静かに覚悟を決めた。
「でも……お嬢様と陛下は、お知り合いなのでしょう?」
先ほどまで勢いよく喜んでいた阿李が、急に不安げな声になった。
自信なさげに小首を傾げながら、璃華の顔をのぞき込む。
「し……知り合い、と……い、いうほどでも……な、ないわ」
璃華は、ゆっくり首を振る。
「たった……一日だけの……出会いよ」
けれど。
その一日は、璃華にとって忘れられない記憶だった。
まだ幼かったあの頃──
あの日起こった凄惨な出来事のせいで、璃華の世界は大きく変わった。
母は、帰らぬ人となった。
しかし、その記憶のすべてが苦しいものだったわけではない。
血の匂いと恐怖の中で、たしかにあの少年は、璃華にとって光だった。
温かな手で、震える璃華を抱きしめてくれた。
優しい声で、名前を呼んでくれた。
(……黎煌様)
まさか、あの少年が──恐ろしい噂に彩られた璟嘉国の皇帝になるとは、夢にも思わなかった。
けれど、もし……あの日の記憶が、彼の中にも残っていたのだとしたら。
もしほんの少しでも、璃華のことを覚えていてくれたのだとしたら。
たとえそれが人質としての入内だったとしても。
彼の妃に選ばれたことは、璃華にとって、望外の喜びだった。
「まあ、なんにせよ、これからお嬢様は徳妃になられるんですから! 私も女官長として頑張らないと!」
阿李は意気込むように胸を張ると、ふと思いついたようにパチンと手を打った。
「そうだ、まずは呼び方を変えないとですね。聞いたんですよ、璟嘉国では皇帝のことを大家、妃を娘々《にゃんにゃん》って呼ぶらしいです。だからこれからは、お嬢様じゃなくて──娘々と!」
「に……にゃ、娘々は……こ、皇后様の……呼び方、でしょ? お……おそれ多い、わ……」
璃華は慌てて首を横に振った。
声が上ずり、いつもより吃音が強く出てしまう。
「高位の妃にも使うらしいですよ。それに、今は皇后様はいないんですし。いいじゃないですか、ね、娘々!」
そう言って、阿李はさっそくその呼び名で璃華を呼んだ。
無邪気な笑顔にはしゃいだ色が浮かんでいて、璃華は思わず苦笑する。
阿李は、璃華と同じ湛州の出身。
この大国に来たことで、ようやくあの息苦しい生活から解き放たれた、そんな気分なのだろう。
璟嘉国の後宮には恐ろしい噂が山ほどある。
妃が次々に失踪したとか、侍女が一夜にして処罰されたとか。
本当なら、震えていてもおかしくないのに。
けれど阿李は、それをまるで忘れたかのように振る舞ってくれる。
その明るさが、璃華にとっては救いだった。
浮かれているだけなのか、それとも励まそうとしてくれているのか。
どちらにしても、阿李の笑顔が、璃華の張りつめた心をそっとやわらげてくれた。
殿内に荷を置き、ようやく寝所の支度を整え始めた頃だった。
一人の宦官が静かに現れ、拱手の礼をとる。
「天恩まことに深く──陛下より、徳妃様を御前に召されるとの勅が下りました。準備が整い次第、内侍がご案内いたします。どうか、お心静かにお待ちくださりませ」
そう言って、宦官は音もなく下がっていった。




