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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第六章 そして妃は寵愛の冠を戴く

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その場に残された璃華と阿李は、顔を見合わせる。


「えっ、しょ、初日からですか……⁉」


 阿李が目を見開いて叫ぶ。


「た、大変ですっ、娘々! すぐに、すぐにお着替えを!」


 声も動きも慌ただしくなった阿李に急かされ、璃華は持参した中で一番豪華な装いに着替えることになった。

 とはいえ、衣はすべて質素なもので、刺繍や飾りは最小限しかない。

 それでもなんとか見映えのするものを選び、持ってきた装飾品を全部つける。


(……これで、少しは妃らしく見えるかしら)


 心細さを押し込めるように胸元を正し、やがて迎えにきた内侍の案内で、璃華は謁見の場へと向かった。


 案内されたのは──御花殿ぎょかでん

 皇帝が後宮の妃たちと対面するための、大広間だった。

 扉が音もなく開かれた瞬間、璃華と阿李は思わず息を呑む。

 そこは、まさに絢爛たる殿堂だった。


 高くそびえる天井には、金箔を施した雲龍の彫刻が這うように巡らされ、天窓から差し込む光にきらめいている。

 白玉のような床は磨き上げられ、反射した陽光が淡く空間を照らしていた。

 正面奥には、金の屏風。

 天井には雲龍の彫刻が巡り、そこから垂れた絹の帷が風に揺れている。


 御花殿の正面──

 深紅の龍袍を纏った皇帝が、静かに腰掛けていた。

 高くそびえる玉座。その圧に、璃華は視線を上げることすらできない。

 ただ、額を下げたまま、胸の鼓動を必死に抑える。


 その左右には、金張りの胡床こしょうが整然と並び、三人の妃たちが着座していた。

 貴妃・賢妃・淑妃──いずれも、並ぶ姿だけでその威厳が伝わる。

 紫の礼服に金糸をあしらった装い。きらめく髪飾り、染め抜かれた紅。

 その美しさのなかに、うっすらと浮かぶ微笑は、どこか冷たく、そして、見下すような視線をはらんでいた。


 阿李を後ろに残し、璃華は震える手で拱手の礼をとる。

 室内の中央まで進み出ると、緋色の絨毯の上でそっと膝をついた。

 張り詰めた空気の中、声が響いた。


「──顔を上げよ」


 低く、威厳に満ちた声。

 それはまるで、大地の奥から響くような重みを持っていた。

 璃華はおそるおそる顔を上げる。

 そして──


(この人は……誰?)


 心の中で問いかけるまでもなく、わかっている。

 玉座に座するその人物こそ──璟嘉国の皇帝、黎煌。

 けれど、璃華の記憶にある黎煌とは、あまりにも違っていた。

 あのとき出会った少年は、はにかんだ笑みが可愛らしくて、あたたかい手を差し伸べてくれた人だった。

 優しい声で名を呼んでくれた、忘れられない存在。


 それなのに──

 今、目の前にいる彼は。

 まるで感情というものをすべて削ぎ落とされたような、人形めいた美貌をしている。


 漆黒の瞳は黒曜石のように光を吸い、視線ひとつで人を射抜くような鋭さを持っていた。

 その眼差しには、温もりも情けも、ひと欠片も見えない。

 見つめられた瞬間、背筋が凍る。

 その視線には、あらゆる感情が欠落しているように感じられた。

 怒りも、喜びも、憐れみも、そこにはない。

 ただ、すべてを突き放したような、完璧すぎる無表情。


(……まるで、感情の失われた硝子ガラス人形みたい)


 完璧であるがゆえの恐ろしさ。

 そこに人の温度はなく、ただ静かに、厳かに、玉座に在る。

 胸の奥が、ひどく痛んだ。

 そこにあるのは、記憶の温もりなど微塵もない、氷のような眼差しだった。

すると、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。


「なに、あの身なり。貧乏くさいわね」


「侍女が一人しかいないなんて、見たことないわ」


「妃の入内じゃなくて、女官の入内じゃないの?」


 くすくすと笑う声は、妃たちのものだった。

 その毒を含んだ囁きは、璃華の胸を鋭く刺す。


 璃華の身にまとっているのは、朱鷺色ときいろの衣だった。

 朝焼けの光を溶かしたような、やわらかな紅。

 けれど、それは絹とはいえ上質とは言い難く、光沢は控えめで、袖口の刺繍も簡素なものだった。


 袖から覗く手首には飾りひとつなく、肌の白さだけが際立っていた。

 玉のかんざしなど持ち合わせていないため、揺れる細工の簪を一本、丁寧に差し込み、そこに薄紅の花を添えた。


 これが、持てる中で最も華やかな装いだった。

 それでも、金糸をふんだんに織り込み、宝玉を飾り立てた四夫人の華麗さには遠く及ばない。


 静寂が、殿内を満たしていた。

 本来ならば、ここで挨拶を述べなければならない。

 けれど、璃華の喉はぴたりと凍りついたように、声を拒んだ。


(しゃべらなきゃ……でも……)


 緊張で心臓の音が耳に響く。

 もし声を出してしまえば、また吃音が出てしまう。

 震える声を晒せば、きっと、笑われる。

 それを思うだけで、唇がわなないた。

 袖の中に通した腕が、細かく震える。

 じっとりと嫌な汗がにじみ、背筋を伝うように流れ落ちる。

 そのとき。


「──侍女は、ひとりか?」


 低く、響く声が璃華の頭上に落ちた。

 黎煌の声。

 それだけで、璃華の体がびくりと揺れる。

 返事など、とてもできなかった。

 璃華は、ただ黙って頷くことしかできない。

 視線を上げることもできず、肩をすくめるようにして、ひたすらうつむいたまま震えていた。


「……もう良い。下がれ」


 短く、冷ややかな声音。

 黎煌は失望を隠そうともしなかった。


(……ああ、失敗した)


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 せっかく徳妃という位まで授かって、こんなにも厚遇してもらったのに。

 初対面で、璃華は皇帝を落胆させてしまった。

 周囲から、くすくすと笑う声が聞こえる。

 妃たちの冷笑。

 けれど、嘲られるよりも何よりも──


(……陛下に、見限られた)


 その事実が、何よりも、胸に堪えた。


(黎煌様に、お会いできることを……ずっと、楽しみにしていたのに)


 璃華の中にあった、淡い初恋は、音を立てて終わりを告げた。

 目の前にいた黎煌は、あの日の少年ではなかった。

 優しく笑ってくれた、温かな人ではなかった。

 きっと、璃華のことなど、もう覚えていないのだろう。

 ただの人質として、この後宮に迎えられただけ。

 阿李は「寵愛されている」と言ってくれた。

 璃華はそれを否定した。けれど……


 心のどこかで、ほんの少しだけ、期待していたのだ。

 もしかしたら、黎煌は覚えていてくれているかもしれない。

 この婚姻は、人質なんかじゃない。

 ──けれど。

 璃華の密やかな願いは、木っ端みじんに砕け散った。



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