③
その場に残された璃華と阿李は、顔を見合わせる。
「えっ、しょ、初日からですか……⁉」
阿李が目を見開いて叫ぶ。
「た、大変ですっ、娘々! すぐに、すぐにお着替えを!」
声も動きも慌ただしくなった阿李に急かされ、璃華は持参した中で一番豪華な装いに着替えることになった。
とはいえ、衣はすべて質素なもので、刺繍や飾りは最小限しかない。
それでもなんとか見映えのするものを選び、持ってきた装飾品を全部つける。
(……これで、少しは妃らしく見えるかしら)
心細さを押し込めるように胸元を正し、やがて迎えにきた内侍の案内で、璃華は謁見の場へと向かった。
案内されたのは──御花殿。
皇帝が後宮の妃たちと対面するための、大広間だった。
扉が音もなく開かれた瞬間、璃華と阿李は思わず息を呑む。
そこは、まさに絢爛たる殿堂だった。
高くそびえる天井には、金箔を施した雲龍の彫刻が這うように巡らされ、天窓から差し込む光にきらめいている。
白玉のような床は磨き上げられ、反射した陽光が淡く空間を照らしていた。
正面奥には、金の屏風。
天井には雲龍の彫刻が巡り、そこから垂れた絹の帷が風に揺れている。
御花殿の正面──
深紅の龍袍を纏った皇帝が、静かに腰掛けていた。
高くそびえる玉座。その圧に、璃華は視線を上げることすらできない。
ただ、額を下げたまま、胸の鼓動を必死に抑える。
その左右には、金張りの胡床が整然と並び、三人の妃たちが着座していた。
貴妃・賢妃・淑妃──いずれも、並ぶ姿だけでその威厳が伝わる。
紫の礼服に金糸をあしらった装い。きらめく髪飾り、染め抜かれた紅。
その美しさのなかに、うっすらと浮かぶ微笑は、どこか冷たく、そして、見下すような視線を孕んでいた。
阿李を後ろに残し、璃華は震える手で拱手の礼をとる。
室内の中央まで進み出ると、緋色の絨毯の上でそっと膝をついた。
張り詰めた空気の中、声が響いた。
「──顔を上げよ」
低く、威厳に満ちた声。
それはまるで、大地の奥から響くような重みを持っていた。
璃華はおそるおそる顔を上げる。
そして──
(この人は……誰?)
心の中で問いかけるまでもなく、わかっている。
玉座に座するその人物こそ──璟嘉国の皇帝、黎煌。
けれど、璃華の記憶にある黎煌とは、あまりにも違っていた。
あのとき出会った少年は、はにかんだ笑みが可愛らしくて、あたたかい手を差し伸べてくれた人だった。
優しい声で名を呼んでくれた、忘れられない存在。
それなのに──
今、目の前にいる彼は。
まるで感情というものをすべて削ぎ落とされたような、人形めいた美貌をしている。
漆黒の瞳は黒曜石のように光を吸い、視線ひとつで人を射抜くような鋭さを持っていた。
その眼差しには、温もりも情けも、ひと欠片も見えない。
見つめられた瞬間、背筋が凍る。
その視線には、あらゆる感情が欠落しているように感じられた。
怒りも、喜びも、憐れみも、そこにはない。
ただ、すべてを突き放したような、完璧すぎる無表情。
(……まるで、感情の失われた硝子人形みたい)
完璧であるがゆえの恐ろしさ。
そこに人の温度はなく、ただ静かに、厳かに、玉座に在る。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
そこにあるのは、記憶の温もりなど微塵もない、氷のような眼差しだった。
すると、どこからともなく笑い声が聞こえてきた。
「なに、あの身なり。貧乏くさいわね」
「侍女が一人しかいないなんて、見たことないわ」
「妃の入内じゃなくて、女官の入内じゃないの?」
くすくすと笑う声は、妃たちのものだった。
その毒を含んだ囁きは、璃華の胸を鋭く刺す。
璃華の身にまとっているのは、朱鷺色の衣だった。
朝焼けの光を溶かしたような、やわらかな紅。
けれど、それは絹とはいえ上質とは言い難く、光沢は控えめで、袖口の刺繍も簡素なものだった。
袖から覗く手首には飾りひとつなく、肌の白さだけが際立っていた。
玉のかんざしなど持ち合わせていないため、揺れる細工の簪を一本、丁寧に差し込み、そこに薄紅の花を添えた。
これが、持てる中で最も華やかな装いだった。
それでも、金糸をふんだんに織り込み、宝玉を飾り立てた四夫人の華麗さには遠く及ばない。
静寂が、殿内を満たしていた。
本来ならば、ここで挨拶を述べなければならない。
けれど、璃華の喉はぴたりと凍りついたように、声を拒んだ。
(しゃべらなきゃ……でも……)
緊張で心臓の音が耳に響く。
もし声を出してしまえば、また吃音が出てしまう。
震える声を晒せば、きっと、笑われる。
それを思うだけで、唇がわなないた。
袖の中に通した腕が、細かく震える。
じっとりと嫌な汗がにじみ、背筋を伝うように流れ落ちる。
そのとき。
「──侍女は、ひとりか?」
低く、響く声が璃華の頭上に落ちた。
黎煌の声。
それだけで、璃華の体がびくりと揺れる。
返事など、とてもできなかった。
璃華は、ただ黙って頷くことしかできない。
視線を上げることもできず、肩をすくめるようにして、ひたすらうつむいたまま震えていた。
「……もう良い。下がれ」
短く、冷ややかな声音。
黎煌は失望を隠そうともしなかった。
(……ああ、失敗した)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
せっかく徳妃という位まで授かって、こんなにも厚遇してもらったのに。
初対面で、璃華は皇帝を落胆させてしまった。
周囲から、くすくすと笑う声が聞こえる。
妃たちの冷笑。
けれど、嘲られるよりも何よりも──
(……陛下に、見限られた)
その事実が、何よりも、胸に堪えた。
(黎煌様に、お会いできることを……ずっと、楽しみにしていたのに)
璃華の中にあった、淡い初恋は、音を立てて終わりを告げた。
目の前にいた黎煌は、あの日の少年ではなかった。
優しく笑ってくれた、温かな人ではなかった。
きっと、璃華のことなど、もう覚えていないのだろう。
ただの人質として、この後宮に迎えられただけ。
阿李は「寵愛されている」と言ってくれた。
璃華はそれを否定した。けれど……
心のどこかで、ほんの少しだけ、期待していたのだ。
もしかしたら、黎煌は覚えていてくれているかもしれない。
この婚姻は、人質なんかじゃない。
──けれど。
璃華の密やかな願いは、木っ端みじんに砕け散った。




