①
黄道吉日の、雲ひとつない晴天の日。
璃華は、後宮へと入内した。
薄絹の帳を垂らした輿のなかで、璃華はそっと膝の上に指を添える。
その布を握る指先に、自然と力がこもっていた。
軋む車輪の音、規則正しい靴音、どこか遠くから聞こえる鳥のさえずり──
すべてが霞の向こうにあるようで、現実感は薄い。
薄絹の帳が風にふわりと揺れるたび、微かな光が輿のなかを照らしては、璃華の顔を淡く浮かび上がらせる。
翡翠を溶かしたような澄んだ瞳に、雪の気配を残すような白い肌。
顔立ちは小さく華やかさには乏しいが、どこか人目を惹くものがあった。
たとえるなら、白椿。
紅梅が枝いっぱいに花をつける傍らで、そっと風に揺れる、ひと枝の静かな花。
声を上げることなく、ただそこにあるだけで、不思議と心を引き寄せる。
そんな璃華が身にまとうのは、色褪せた薄衣だった。
金糸どころか飾り一つなく、袖口にかろうじて控えめな花刺繍があるだけ。
とても、皇帝に迎えられる妃の装いとは思えない。
(……これでは、侍女と間違えられてもおかしくないわ)
璃華は小さくため息をついた。
けれど、この姿は彼女自身の望みではない。
湛州という小国の公主ではあるが、璃華は正妃の娘ではなかった。後ろ盾もなければ、義母からの情もない。
これは、冷たい仕打ち。義母が与えた、静かな嫌がらせだった。
従二品である徳妃の位を授かった璃華には、驚くほどの額の結納金が支払われた。
本来であれば、それは嫁入り道具や侍女の手配、妃としての体裁を整えるために使われるはずの金子だった。
けれど現実は違った。
金子はすべて、璃華の義母に取り上げられ、彼女に与えられた嫁入り道具は、あまりにも質素なものばかり。
後宮に上がるその日でさえ、璃華の傍には、たったひとりの侍女しかいなかった。
徳妃という高位に就いた妃であれば、本来ならば絢爛な迎親の儀が用意される。
鮮やかな衣をまとい、儀仗を従えての入内。宮門の前には楽人が並び、華やかな鼓と笛が響くものだ。
けれど、璃華にはそれがなかった。
今回の入内は、璟嘉国という大国からの「指名」によるもの。
名目上は選ばれし妃であっても、実際には、小国・湛州からの人質のような立場だった。
璃華は、皇帝が寄こした輿に揺られながら、後宮の正門──承天門を見上げた。
朱塗りの巨大な門扉には、金の鋲が整然と打ち込まれている。
その上には瑠璃瓦を戴いた重層の牌楼造り。見上げるほど高く、どこまでも威容を誇っていた。
門の左右には、白い朝服をまとった宦官がふたり。
まるで石像のように微動だにせず、じっと立ち尽くしている。
彼らは、輿に掲げられた玉牌の紋様を目で追い、わずかに顎を動かした。
合図を受けた者が門を押し開くと、朱塗りの扉は重たげな音を響かせながら、ゆっくりと開いていった。
その向こうに広がっていたのは──
(……わあ)
言葉にならない息が、璃華の胸からふっとこぼれる。
敷き詰められた白石の回廊が、左右対称にまっすぐ伸びていた。両脇には夾竹桃が植えられ、淡紅の花びらが風に揺れている。
その先に見えるのは、いくつもの宮殿。
どれも、琉璃瓦を頂いた優美な建築で、連なる玉甍が天の青に映え、ひときわ鮮やかだった。
重なる屋根の曲線は、まるで鳳凰の翼。
所々に吊された彩絹が、風にたなびき、かすかな音を立てて揺れている。
湛州──璃華の育った国は、山と水に恵まれた穏やかな土地だった。
建物も、こんなふうに壮麗ではない。
文明の違いをまざまざと感じ、その大きさに息を呑むばかりだった。
璃華に与えられたのは、芙蓉殿という、後宮の中でもひときわ格式の高い殿舎だった。
玉石が敷き詰められた前庭には、薄紅葵が咲き誇り、風が吹くたびにほのかな香りが漂う。
四方を囲む回廊は朱塗りの柱で支えられ、欄干には金糸で花鳥を織り出した織帳が垂れていた。
正殿の屋根には、碧緑の琉璃瓦が幾重にも重なり、陽を受けてきらきらと玉のように輝いている。
軒先から吊るされた風鈴が、そよ風に揺れて、澄んだ音を奏でていた。
殿内へ足を踏み入れると、壁には淡い桃色の絹が張られ、天井には雲龍をかたどった金の彫刻が巡らされている。
目に入るものすべてが、あまりにも絢爛で──
(……まるで、夢の中にいるみたい)
付き従っていた侍女もぽかんと口を開けたまま、辺りを見回している。
高位の妃とはいえ、小国からやってきた璃華には、あまりにも広く、あまりにも豪奢な空間だった。
部屋の奥にまで行くのに迷ってしまいそうなほどの、途方もない広さ。
現実味のない空間に、璃華の胸はそっと高鳴っていた。
「お嬢様、やりましたね! 大出世ですよ!」
侍女の阿李は、両手をぎゅっと握りしめて声を上げた。
そばかす混じりの丸い頬を紅潮させ、目を輝かせている。璃華と同じ十七歳。湛州では数少ない、璃華の味方だった。
けれど、当の本人は、呆然としていた。
「や……やっぱり……こ、これは……な、なにかの……ま、間違いだと……思うの」
璃華は震える唇を懸命に動かしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
極度の緊張に加え、持ち前の吃音が、その声を途切れ途切れにさせた。
かつては、こんな話し方ではなかった。
母が健在だった頃の璃華は、明るく、よく笑う少女だったのだ。
けれど、母の死と同時にすべてが変わった。
義母や異母姉妹たちのいじめの中で、璃華の声は、少しずつ塞がれていった。
それでも、今はまだいい。
傍にいるのは、阿李だけだから。
彼女の前だけは、言葉が出る。かろうじてでも。
「間違いなんかじゃありませんよ!」
阿李は力強く言い切った。
「だって、あの璟嘉国の皇帝陛下が、お嬢様をご指名なさったんですよ? 湛州では、ただの人質だなんて言っている人もおりますが、でも、あの結納金の額……あれを見たら、誰だってわかります! お嬢様は、陛下に選ばれたんです。寵愛されているんですよ!」




