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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第四章 交わした約束

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 湛州国は南の果てに位置する小さな国で、常に温暖な気が流れ、霧深い山々と碧き河川に恵まれた地であった。香草の香りが風に乗り、緋色の花が一年中咲き誇るその土地は、霊獣の加護を受けし聖地とされている。


 十年に一度、最も陽の力が満ちる季節に、王宮の麓にある神域で大祭が執り行われる。

 璃華の母・明霞めいかは、この大祭で舞を奉じる巫女だった。十年前の祭祀の折、明霞に一目惚れした湛州国の王は、彼女に夜伽を命じた。そうして生まれたのが璃華である。


 明霞は巫女であり、身分も他の妃に比べて低かったため、後宮に召し上げられることはなかったが、璃華は王の血を引く公主として、自然豊かな土地でのびやかに育てられた。


 今宵は、十年に一度の霊獣祭。湛州国では、天と地の狭間を結ぶとされる神域の殿堂にて、霊獣の加護を乞う大祭が執り行われる。

 祭祀が行われるのは、蒼穹台そうきゅうだいと呼ばれる神殿。白瑠璃の石段を登りきった先、高台にそびえるその建物は、翡翠色の瓦と金糸の垂れ幕に彩られ、夜風に揺れるたび微かに鈴の音を響かせていた。


 屋根の四隅には霊獣を象った彫刻が鎮座し、軒には鳳凰の羽根を模した彫り込みが施されている。扉を開けば、祭殿の奥へと続く回廊に香が焚かれ、玉灯が柔らかな光を投げかけていた。

 満天の星と灯火の海を映すように、天井には星宿を象った絵が広がり、床には霊獣たちが舞い踊る緋絨毯が敷かれている。


「いいこと、小璃。私は儀式で忙しいから、ちゃんと大人しくしているのよ。今日は近隣諸国から要人たちが集まっているのだから、くれぐれも粗相のないようにね」


 蒼穹台の脇に設けられた待殿たいでんでは、舞人や楽官がっかんたちが着替えや支度に追われ、慌ただしい気配に包まれていた。その一角で、明霞は娘の璃華にそう言い聞かせる。


「大丈夫よ、お母様。璃華はいつだっていい子じゃない」


「このやんちゃ娘が。大人しくしていられたことなんて、一度もなかったでしょうに」


 明霞は呆れたように口を尖らせたが、その目はどこか優しく、心配の色を含んでいた。けれど、本日の主役である彼女には、璃華を構っている時間などない。今は儀式に向けて、化粧の仕上げに入っていた。


(お母様、綺麗……)


 緋色の衣に、金糸を織り込んだ薄絹の披帛ひはく。長く艶やかな黒髪は滑らかに結い上げられ、紅を差した目尻には長い睫毛が影を落とす。

 まるで、花神が地上に舞い降りたかのような美しさに、璃華は思わずため息を吐きそうになった。


 巫女の血を引く璃華も、いずれは母と同じように儀式で舞を捧げることになる。すでに稽古は始めていたが、気が乗らず練習を嫌がるため、今回は儀式に参加せず、見学という形になっていた。


 明霞が楽官たちとの打ち合わせに入り、手持ち無沙汰になった璃華は、そっと待殿たいでんを抜け出した。

 蒼穹台には次々と人々が出入りしていたが、それを横目に、璃華はいたずらっ子のような瞳を輝かせる。翠色の薄衣を纏ったその身は、陽の光を受けて淡く透け、揺れる袖が風をはらんで舞った。少女は音もなく、森の奥へと駆けていく。


 神域へと続くその森は、大祭の喧騒が嘘のように、俗世から隔てられた静寂に包まれていた。

 朝露に濡れた葉は陽光を受けてきらきらと光を返し、鳥の囀りすらも遠慮がちに響いている。天へまっすぐに伸びる木々の幹は、どれも人の手に余るほど太く、重なり合う深緑の葉が、森の奥へと濃い影を落としていた。


 足元には柔らかな苔が一面に広がり、踏みしめるたびにしっとりとした感触が伝わる。ところどころに咲く白い花々が風に揺れ、淡い甘さを含んだ香りがふわりと漂った。

 霧がうっすらとたなびく森の奥で、璃華はひときわ大きな木を見つける。

 太い幹は人の腕を何本も重ねたほどで、地に張り出した根が、まるで誰かを包み込むように広がっている。


 その根元に、ひとりの少年が座っていた。

 璃華は思わず足を止める。

 背を向けたまま動かないその肩が、かすかに震えていた。

 風の音も、鳥の囀りも消えたような静けさの中、小さな背中は、まるで泣いているように見えた。

 璃華はためらいながらも、そっと一歩を踏み出す。

 草を踏む音に、少年の肩がぴくりと揺れた。


「……誰?」


 低く掠れた声だった。怯えでも怒りでもない、閉ざされた心が発するような響き。


「え、えっと……ここに住む者だけど、もしかして、迷子?」


 璃華がおずおずと問いかけると、少年はゆっくりと振り返った。

 黒曜石のような瞳。日差しに溶けるような、やわらかな髪。泣き腫らしたような赤い目元。

 息を飲むほどの美しさだった。

 少年はじっと璃華を見つめ、ふいに口を開く。


「迷子じゃない。ひとりになりたかっただけだ」


 苛立ちを隠さない声音でそう言い放つと、少年はおもむろに立ち上がった。

 深紫の朝服に、金の帯を締めたその姿。背丈は璃華より、拳ふたつ分ほど高かった。


「……そう。じゃあ、私が側にいてあげる」


 璃華は満面の笑顔を浮かべると、大木の根元にちょこんと腰を下ろした。


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