⑧
――自分の死を「都合がいい」と言い捨てるこの男。
璃華は怒りに喉を震わせた。これが父娘だというのなら、人の情など、この者たちには一片もない。
「大香炉は破壊されてしまったけれど、蠱毒の完成は目前です。これさえ陛下の御身に入り込めば、弱体化は必至。うまくいけば、命を奪ることもできるかもしれません」
(な、なんてことを……!)
璃華は思わず、喉の奥で息を詰まらせた。
蠱毒。それは、幾種もの毒虫を一つの器に閉じ込め、互いに食らわせ合い、最後に生き残った最も邪悪な毒を呪いや暗殺に用いる、古代の禁呪。
まさか貴妃の目的が、黎煌の命を狙うことだったとは……。背筋が凍る思いだった。
なぜ、そこまでの企みを。璃華の脳裏に疑問が浮かぶも、その答えはすぐに語られた。
「……本当に、やるのですね」
玉蘭の声はわずかに震えていた。
「迷いは捨てよ。お前の覚悟がなければ、我らが悲願は果たせぬ」
「ですが、私がやらなくても、お父様にも呪術は使えるはず……」
「何度も言わせるな。司馬の血脈は、代々呪術を操ってきた。だが、男の身では大きな呪を制御できぬ」
「……だから、女である私が必要なのですね」
「そうだ。お前の力ならば、現皇帝を廃し、黎泰様を新帝に擁立できる」
司馬嶺は両腕を広げ、勝利の美酒をすでに喉に流し込んだかのような笑みを浮かべた。
黎泰――黎煌の兄。
黎煌は血の争いの末、兄たちを退けて皇位を手にした。
璃華の心は激しく揺れた。
(司馬家は、最初から黎煌様を排除し、操りやすい黎泰様を皇帝にして、王朝を乗っ取るつもりだったのね……!)
「あの愚鈍な黎泰様の妻になるなんて、本当は嫌でした。でも、黎煌様にはもう、ほとほと嫌気が差したのです。閨に一度も訪れてくださらず、挙げ句の果てには、あの身分の低い徳妃のもとへ夜渡りをなさったと聞き、ようやく決心がつきましたわ」
玉蘭の声には、悔しさと嫉妬が滲んでいた。
「……黎泰様が新皇帝になられた暁には、私を再び後宮の妃にしてくださるのでしょう?」
「無論だ。前皇帝の妃が、新たな皇帝のもとへ再入内するのは珍しくはあるが、前例がないわけではない。次こそは子を成し、皇后となるがよい」
「ふふ、考えようによっては、愚鈍な方が扱いやすいですもの。必ずや、女帝としてこの後宮に君臨してみせますわ」
「そう、それでこそ我が娘。賢き皇帝など不要だ。皇帝はただ、余の意のままに動く傀儡であればそれでよい」
司馬嶺は満足げに笑うと、ふと表情を曇らせて呟いた。
「だが、やはり余の読みは正しかった。皇帝の座を継ぐのは黎煌になるだろうと、七年前からわかっていた。あの子は、幼い頃から群を抜いて聡明で、志も強かった。皇帝となった今、案の定、余を国政の場から遠ざけようとしている」
司馬嶺の声音には、確かな怨念がこもっていた。
「七年前のあの祭祀……あの時に、確実に仕留めておけていれば……! 余の呪術の力は弱くとも、あの祭祀の強大な力を利用すれば、水面に投じた一石のように余波が広がり、霊獣の力で幼き黎煌を亡き者とできる手はずだった」
璃華の心臓は、凍りつくように静かになった。
(……七年前の、あの祭祀)
やはり、あの場に司馬嶺はいたのだ。そして――あの惨劇は、彼によって仕組まれたものだったのだ。
吐き気を催すほどの怒りがこみ上げる。今すぐにでも司馬嶺の顔に飛びかかり、爪を突き立てたい衝動に駆られる。
(お前の……せいでっ!)
だが、怒りに身を任せれば命を落とすだけ。今の自分は猫。人間の姿ではない璃華には、勝ち目などあるはずもない。司馬嶺の持つ長剣に、一太刀で貫かれて終わる。
ここで死んではならない。自分が命を落とせば、黎煌を守れなくなる。
――今は、耐えるしかない。
司馬嶺の陰謀は、はっきりとした。これを黎煌に伝えなければならない。
その後も二人は、今後の打ち合わせと称して密談を続けたが、もはや新たな情報は出てこなかった。
やがて小屋を出た二人は、月明かりの下、別々の方向へと去っていく。司馬嶺は宮廷へ。玉蘭は、何事もなかったように貴妃の宮へと戻っていった。
夜がほのかに白み始めた空の下、璃華はふと、七年前、黎煌と共に逃げ込んだ神域で目にした光景を思い返す。
風にたゆたう薄絹の帳――まるで今宵の夜のように儚く、美しかった。
その布には、麒麟や鳳凰、青龍、白虎といった霊獣に混じって、一匹の霊猫が静かに描かれていた。
(なぜ自分が猫になったのか、不思議に思っていたけれど……ああ、そうか。あのとき私は――)
霧がかかるように、記憶の扉がそっと開く。
あの日の神域は、静寂の中に神々しさを湛え、幼い璃華の胸に、言葉では言い表せぬ感情を刻みつけた。
始まりは、木洩れ日がきらめくあの昼下がり――




