⑦
――その夜、黎煌が寝静まったのを確認した璃華は、そっと寝殿を抜け出した。 夜の闇に身を潜め、向かうは貴妃の宮。
(私の読みが正しければ、今宵、貴妃が誰かと会うはず)
璃華は、白梅が貴妃を指していると踏んでいた。白梅は高貴な女性を象徴する比喩として用いられることが多く、貴妃の名「玉蘭」もまた、白い花を咲かせる。
(北の狐が玉蘭様に会いに来る……)
胸の鼓動が激しく打ち鳴るのを必死で抑えながら、璃華は屋根を伝って後宮へと急ぐ。そのとき、黒い布で頭から肩まで覆い、顔を隠した人物が、ひとりの宦官とともに辺りをうかがいながら歩いていく姿をとらえた。
猫の身体ゆえに、闇の中でも遠くの様子を見通せることがありがたかった。璃華は気配を殺し、その後を追う。
後宮の北端――築地の外壁に接する庭園の一隅に、今は誰にも使われていない古びた扉がある。人目は少なく、夜ともなれば、近寄る者すらいない。
璃華は耳を伏せ、身を低くして、気配を消すように草陰へと潜んだ。
やがて、閉ざされていたはずの扉が、ギィ……と重たく軋んだ音を立てて開いた。
禁じられたその門をくぐり、後宮へ入り込んだのは、濃い紫衣に身を包んだ男。痩せた身体に真っ直ぐな背筋。だが、その背には、夜よりもなお深い影がまとわりついているようだった。
門を開けたのは、老いた宦官。顔ははっきりと見えなかったが、男を通すとすぐに頭を垂れ、音もなく門を閉じる。その手慣れた様子は、まるでそれが幾度も繰り返されてきた儀式であるかのようだった。
「時間はあるのか」
「小屋にて、お待ちでございます」
交わされた声は囁きにも満たず、風に紛れるように消える。二人は月の届かぬ森の奥へと、影のように姿を消していった。
璃華は、尻尾を垂らしつつもその後をそっと追う。
葉擦れの音ひとつにすら身を強ばらせながら、静まり返った夜の森を進む。風は凪ぎ、木々は語らず、まるで後宮そのものが、この密会を固唾を飲んで見守っているようだった。
(宦官が、男を後宮に引き入れるなんて。北の狐は只者ではない)
璃華の脳裏に、白梅、青鷺、北の狐……女官たちが交わしていた謎めいた暗号が、ゆっくりと、だが確実に、輪郭を帯びはじめていた。
後宮の奥──獣道のような細い小径を抜けた先に、それはひっそりと存在していた。
低く、こぢんまりとした建物。瓦は褪せ落ち、壁には風雨の痕が深く刻まれている。まるで後宮の記憶からさえ忘れ去られたように、静かに朽ちかけていた。
(……こんな場所に、建物があったなんて)
璃華は猫の姿のまま、草陰に身を潜めながら目を凝らす。
誰の足も踏み入れぬはずの地面に、微かな踏み跡。戸はわずかに開いており、中からは小さな灯りが洩れていた。
黒布を被っていた男は、老宦官を外に残して、音もなく中へと消えていった。
璃華は老宦官に気づかれぬよう、小屋の脇へと移動し、視線を巡らせる。そこに、小さな窓があるのを見つけた。
小屋の脇に張り出した細い庇の上に、璃華は身を縮めて跳び乗った。そのすぐ上、外壁に嵌め込まれた小さな窓がある。格子は粗く、壁の高い位置に嵌め込まれていた。
璃華が見上げると、その窓は風に揺れ、木枠の隙間がわずかに開いている。古びた造りのせいか、格子の一部は欠け、内側の様子を覗き見るには十分だった。
窓枠の隅に前足をかけ、璃華はそっと顔を近づけた。
小屋の床は板張りで、天井は低く、梁には古びた蜘蛛の巣が垂れ下がっている。家具と呼べるものはほとんどなく、壁際に据えられた粗末な木の台に、ひとつだけ灯明が置かれていた。淡い炎が小さく揺れ、室内にほの暗い影を落としている。
その中にいるのは、男と女の二人だけ。
女は下女の衣をまとっていたが、動きのひとつ、姿勢のひとつに至るまで、隠しきれぬ威厳と気品が滲み出ている。――間違いない、貴妃・玉蘭だった。
璃華の心臓は強く脈打つ。後宮で男と密会するなど大罪もいいところだ。だが、二人の間に甘やかな気配はない。
男は無言のまま、頭に被せていた黒布をおもむろに取り払った。
歳は六十前後だろうか。窪んだ眼に鋭い光を宿し、鷲のような鼻梁が影を落とす。髪には白が交じるも、背筋はぴんと伸び、全身からただならぬ威圧感を放っていた。
その姿に、璃華の息が詰まる。
(……この人、どこかで見たことがある)
猫となってから、あちこちを歩き回っているうちに目にしたのか。いや、それよりも――もっと前だ。遠い記憶の底で、警鐘が鳴る。この顔は、危険だ。
(そう……あれは、七年前の祭祀!)
湛州国で行われた大祭。その場に、この男は確かにいた。
当時は髪に白いものなどなかったが、窪んだ鋭い眼光は忘れようもない。黎煌のすぐ傍らに仕えていた、あの男だ。
(まさか……どうして、ここに?)
「お父様、お元気そうで何よりですわ」
「玉蘭も息災そうだな」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
――お父様。玉蘭のその言葉に、璃華の猫耳がぴんと立つ。
貴妃の父。ならば、この男の正体は……
(中書令、司馬嶺……!)
先帝の時代から国政を取り仕切ってきた、三省の頂点に立つ大権臣。
宦官すら従え、後宮の禁域に足を踏み入れることも造作もない立場。
――だが、それでも。
璃華は身を強張らせる。中書令が、密かに娘と会う。その意味は、あまりにも重い。
「呪術の儀が中断されたそうだな。それに――徳妃が行方知れずだと」
いきなり己の名が出たことで、璃華の心臓が激しく跳ねた。
「ええ。何者かが霊廟へ忍び込み、大香炉を破壊しました。その場に残されていたのは、徳妃の衣……。それきり、姿は杳として知れず。あの女が儀式を妨げたのは間違いありません。ただ、どうやって逃げおおせたのか、どこへ姿をくらましたのかは、私にもわかりません」
「陛下は、血眼になって徳妃を捜しておられるようだな」
司馬嶺は嘲るように口端を歪め、続けた。
「湛州国の巫女の血を引く娘だ。なにかしらの不可思議な術でも用いたのかもしれぬ。その反動で、己の命を落としたとも考えられる。……どこを探しても見つからぬのなら、すでに死んだものと見てよかろう。まこと、都合の良い結末だ」
その言葉に、璃華の毛が逆立った。




