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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第四章 交わした約束

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 少年は呆れたような目で、璃華を見下ろす。


「……ひとりになりたいと言ったのだが」


「ひとりより、ふたりのほうが楽しいでしょ! ほら、座って。お喋りしましょう」


 大輪の花が咲いたような、屈託のない笑顔。

 あっけにとられた少年は、開いた口をしばし閉じられずにいたが、やがて観念したように、璃華の隣へ腰を下ろした。

 璃華は満足げににっこりと微笑み、さっそく質問を投げかける。


「あなた、見かけない顔ね。湛州国の者ではないでしょう? 儀式に参加するために来たの?」


「……そうだ」


「ひとりでこんなところにいたら、お付きの人やご家族が心配するんじゃない?」


 少年はうんざりしたように璃華を斜めから見やり、逆に問い返してきた。


「……お前こそ、親が心配しているんじゃないか?」


「お母様は祭祀を司る巫女で、今宵の儀式で舞を捧げるの。とても忙しいから、私がいなくても気づかないわ」


「巫女の娘だったのか」


 少年は少し驚いたように、ぽつりと感心した声を漏らした。


「そう、璃華っていうの。あなたの名前は?」


「……俺は、黎煌だ。璟嘉国の第三皇子だ」


 今度は璃華のほうが目を見張った。

 璟嘉国といえば、近隣諸国の中でもひときわ強大な国。その皇子となれば、本来なら言葉を交わすどころか、目を合わせるのも恐れ多い立場だ。


「うわあ……偉い人だったんだね。でも、まあ、いいか。ここには大人がいないし!」


 璃華はまるで気にする様子もなく笑ってみせた。口調も態度も変わらない彼女を見て、黎煌は思わず目を丸くする。

 そして、ふっと吹き出すと、柔らかな笑顔を見せた。


「……そうだな。ここで出会ったことも、こんなふうに話したことも、俺たちだけの秘密にしよう」


 目尻をゆるめて穏やかに微笑むその顔に、璃華の胸は不意に高鳴った。

 璃華より少し年上のお兄さん。どこか寂しげで、けれど優しく包み込むようなその笑みに、気づけば心が惹かれていた。


「じゃあ、秘密ついでに教えて。どうして、ひとりになりたかったの?」


 黎煌はしばし黙ったまま、話すかどうか迷っているようだった。けれど璃華の瞳がまっすぐに自分を見つめているのに気づくと、観念したように口を開いた。


「……逃げてきたんだ。大人たちの汚い出世欲に巻き込まれていくのが息苦しくなった。俺の立場を利用したり、期待されたり、逆に足を引っ張られそうになったり。それでも母がいたから耐えてこられたが、つい最近亡くなってしまった」


(なるほど、だから背中が泣いているように見えたのね)


 彼はきっと、大人たちの思惑に翻弄されてきたのだ。そう思うと、璃華の胸はきゅっと締めつけられた。

 おもむろに、璃華は黎煌の手を取った。両手で包み込むように、ぎゅっと握りしめる。


「お、おい……急に、なにを……!」


 黎煌は目を見開き、耳まで真っ赤に染めてうろたえた。けれど璃華は気にする様子もなく、その手を自分の胸元にそっと寄せた。


「大丈夫。ひとりじゃないよ。ひとりがいいなんて、そんな悲しいこと、もう言わないで。霊獣のご加護がありますように」


 璃華は目を閉じ、真心をこめて祈った。この孤独な少年に、どうか幸せが訪れますように、と。

 璃華は、巫女の血を受け継ぐとはいえ、不思議な力はなかった。祈ったとしても、それで本当にご加護があるかはわからない。それでも真剣に祈った。

 やがて手をそっと離すと、黎煌は照れくさそうに視線を逸らし、小さな声でつぶやいた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 このとき、確かにふたりの間で絆ができたことを感じた。霊獣のご加護が降り注いだのかどうかはわからないが、特別な何かで結ばれた気がした。


「殿下、こちらにいらっしゃいましたか。探しましたぞ」


 紫紺の朝服をまとった男が、森の奥へと歩み寄ってくる。

 腰には金装の帯を締め、佩玉が足取りにあわせて澄んだ音を鳴らしていた。

 黒絹の幞頭ぼくとうを戴き、鋭く窪んだ眼差しと鷲のような鼻梁が、その風貌に底知れぬ不気味さを漂わせている。

 璃華の本能が、警鐘を鳴らした。


(この人……なんだか、怖い)


「探す? 俺がいなくなったほうが、都合がいいくせに」


 黎煌が低く吐き捨てるように言うと、男は怒るどころか、目を細めて柔和に笑んだ。


「そんなこと、思ったことなど一度もございません。殿下は、この国の宝でございます。さあ、もうすぐ儀式が始まります。ご一緒に参りましょう」


 にこやかな口元。けれどその笑みは、どこか狐のように作り物めいていた。


(……あれ? 笑っているけど、やっぱり怖い。気のせいじゃなかったみたい)


 黎煌は面倒くさそうにため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。

 そして璃華の方へ振り向き、やさしく手を差し出した。

 璃華は目を丸くしながらも、その手をそっと取る。

 手のひらのぬくもりが、じんわりと肌を伝う。

 触れた瞬間、胸の奥がふわりと熱を帯びて、自然と高鳴っていくのを感じた。


「では、俺は行く。またな、璃華」


 大人の前で軽々しく言葉を交わせば、叱られてしまうかもしれない。璃華は黙って、小さく礼を返した。

 黎煌はほんの少し寂しげに目を細め、璃華に背を向けて男のもとへと歩いていく。


「あの少女は?」


「湛州国の巫女の娘らしい」


「ほう……」


 男は窪んだ目でじろりと璃華を見つめたが、すぐに興味を失ったのか、ふいと顔を逸らした。

 やはり――どうしても好きになれない顔だ、と璃華は内心でつぶやく。


(また、会えるかな)


 遠ざかっていく黎煌の背を見つめながら、璃華の胸にぽつりと切なさが差し込んだ。

 なにせ、あちらは大国の皇子。身分も、距離も、あまりに遠い。

 きっともう、こうして話す機会など二度と訪れないかもしれない。そう思うと、胸がきゅっと痛くなる。

 と、思い詰めたところで、ふいに現実が戻ってきた。


「……いけない! 私も早く、蒼穹台に戻らなくっちゃ!」


 璃華ははっと息を呑み、翠の薄衣を風になびかせながら森を駆けだした。


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