②
少年は呆れたような目で、璃華を見下ろす。
「……ひとりになりたいと言ったのだが」
「ひとりより、ふたりのほうが楽しいでしょ! ほら、座って。お喋りしましょう」
大輪の花が咲いたような、屈託のない笑顔。
あっけにとられた少年は、開いた口をしばし閉じられずにいたが、やがて観念したように、璃華の隣へ腰を下ろした。
璃華は満足げににっこりと微笑み、さっそく質問を投げかける。
「あなた、見かけない顔ね。湛州国の者ではないでしょう? 儀式に参加するために来たの?」
「……そうだ」
「ひとりでこんなところにいたら、お付きの人やご家族が心配するんじゃない?」
少年はうんざりしたように璃華を斜めから見やり、逆に問い返してきた。
「……お前こそ、親が心配しているんじゃないか?」
「お母様は祭祀を司る巫女で、今宵の儀式で舞を捧げるの。とても忙しいから、私がいなくても気づかないわ」
「巫女の娘だったのか」
少年は少し驚いたように、ぽつりと感心した声を漏らした。
「そう、璃華っていうの。あなたの名前は?」
「……俺は、黎煌だ。璟嘉国の第三皇子だ」
今度は璃華のほうが目を見張った。
璟嘉国といえば、近隣諸国の中でもひときわ強大な国。その皇子となれば、本来なら言葉を交わすどころか、目を合わせるのも恐れ多い立場だ。
「うわあ……偉い人だったんだね。でも、まあ、いいか。ここには大人がいないし!」
璃華はまるで気にする様子もなく笑ってみせた。口調も態度も変わらない彼女を見て、黎煌は思わず目を丸くする。
そして、ふっと吹き出すと、柔らかな笑顔を見せた。
「……そうだな。ここで出会ったことも、こんなふうに話したことも、俺たちだけの秘密にしよう」
目尻をゆるめて穏やかに微笑むその顔に、璃華の胸は不意に高鳴った。
璃華より少し年上のお兄さん。どこか寂しげで、けれど優しく包み込むようなその笑みに、気づけば心が惹かれていた。
「じゃあ、秘密ついでに教えて。どうして、ひとりになりたかったの?」
黎煌はしばし黙ったまま、話すかどうか迷っているようだった。けれど璃華の瞳がまっすぐに自分を見つめているのに気づくと、観念したように口を開いた。
「……逃げてきたんだ。大人たちの汚い出世欲に巻き込まれていくのが息苦しくなった。俺の立場を利用したり、期待されたり、逆に足を引っ張られそうになったり。それでも母がいたから耐えてこられたが、つい最近亡くなってしまった」
(なるほど、だから背中が泣いているように見えたのね)
彼はきっと、大人たちの思惑に翻弄されてきたのだ。そう思うと、璃華の胸はきゅっと締めつけられた。
おもむろに、璃華は黎煌の手を取った。両手で包み込むように、ぎゅっと握りしめる。
「お、おい……急に、なにを……!」
黎煌は目を見開き、耳まで真っ赤に染めてうろたえた。けれど璃華は気にする様子もなく、その手を自分の胸元にそっと寄せた。
「大丈夫。ひとりじゃないよ。ひとりがいいなんて、そんな悲しいこと、もう言わないで。霊獣のご加護がありますように」
璃華は目を閉じ、真心をこめて祈った。この孤独な少年に、どうか幸せが訪れますように、と。
璃華は、巫女の血を受け継ぐとはいえ、不思議な力はなかった。祈ったとしても、それで本当にご加護があるかはわからない。それでも真剣に祈った。
やがて手をそっと離すと、黎煌は照れくさそうに視線を逸らし、小さな声でつぶやいた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
このとき、確かにふたりの間で絆ができたことを感じた。霊獣のご加護が降り注いだのかどうかはわからないが、特別な何かで結ばれた気がした。
「殿下、こちらにいらっしゃいましたか。探しましたぞ」
紫紺の朝服をまとった男が、森の奥へと歩み寄ってくる。
腰には金装の帯を締め、佩玉が足取りにあわせて澄んだ音を鳴らしていた。
黒絹の幞頭を戴き、鋭く窪んだ眼差しと鷲のような鼻梁が、その風貌に底知れぬ不気味さを漂わせている。
璃華の本能が、警鐘を鳴らした。
(この人……なんだか、怖い)
「探す? 俺がいなくなったほうが、都合がいいくせに」
黎煌が低く吐き捨てるように言うと、男は怒るどころか、目を細めて柔和に笑んだ。
「そんなこと、思ったことなど一度もございません。殿下は、この国の宝でございます。さあ、もうすぐ儀式が始まります。ご一緒に参りましょう」
にこやかな口元。けれどその笑みは、どこか狐のように作り物めいていた。
(……あれ? 笑っているけど、やっぱり怖い。気のせいじゃなかったみたい)
黎煌は面倒くさそうにため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。
そして璃華の方へ振り向き、やさしく手を差し出した。
璃華は目を丸くしながらも、その手をそっと取る。
手のひらのぬくもりが、じんわりと肌を伝う。
触れた瞬間、胸の奥がふわりと熱を帯びて、自然と高鳴っていくのを感じた。
「では、俺は行く。またな、璃華」
大人の前で軽々しく言葉を交わせば、叱られてしまうかもしれない。璃華は黙って、小さく礼を返した。
黎煌はほんの少し寂しげに目を細め、璃華に背を向けて男のもとへと歩いていく。
「あの少女は?」
「湛州国の巫女の娘らしい」
「ほう……」
男は窪んだ目でじろりと璃華を見つめたが、すぐに興味を失ったのか、ふいと顔を逸らした。
やはり――どうしても好きになれない顔だ、と璃華は内心でつぶやく。
(また、会えるかな)
遠ざかっていく黎煌の背を見つめながら、璃華の胸にぽつりと切なさが差し込んだ。
なにせ、あちらは大国の皇子。身分も、距離も、あまりに遠い。
きっともう、こうして話す機会など二度と訪れないかもしれない。そう思うと、胸がきゅっと痛くなる。
と、思い詰めたところで、ふいに現実が戻ってきた。
「……いけない! 私も早く、蒼穹台に戻らなくっちゃ!」
璃華ははっと息を呑み、翠の薄衣を風になびかせながら森を駆けだした。




