③
道行く臣下たちは、一様に驚きの目を向けた。
だが黎煌は気にも留めず、そのまま猫を伴って執務室へと入っていく。
そこへ、侍中が恐る恐る近づき、問いかけた。
「陛下。その猫は……?」
「拾った。余のお気に入りの猫だ。丁重に扱うよう、皆にも伝えよ」
さらりとそう言い放つと、黎煌は続ける。
「それとな、余の猫だと誰の目にもわかるよう、証を身につけさせたい。すぐに用意を」
「……承知いたしました」
侍中の表情には、「なぜ猫にそこまでするのか」と言いたげな戸惑いが浮かんでいたが、拱手の礼をもって命に従った。
侍中が部屋を下がり、黎煌と猫だけになると、彼の表情はふっと和らいだ。
厳しさを纏っていた顔つきがほどけ、優しい雰囲気へと変わる。
「良かったな、小璃。首輪をつければ、宮中のどこでも自由に歩けるぞ。だが――必ず、余のもとへ戻ってくるのだぞ」
「ニャー」
璃華は、感謝の気持ちを込めて小さく鳴いた。
その声に、黎煌は目を細め、嬉しそうに璃華の背を撫でる。
「……璃華も、戻ってきてくれるといいのだが」
ふと、視線が遠くに向けられる。
その呟きは静かで、けれど胸の奥に刺さるような寂しさを帯びていた。
璃華は、思わず黎煌の手に鼻先を寄せる。
自分は決して、望んでいなくなったわけではないのだと伝えたくて。
「励ましてくれるのか、小璃。ありがとう」
黎煌はそっと笑い、しかしそのすぐ後に眉をひそめた。
「それにしても……ここまで見つからぬとは、さすがにおかしい。何か事件に巻き込まれていなければいいのだが」
(まさしく、事件に巻き込まれています……)
璃華は内心で呟く。
しかも、自分が猫になっているとは、さすがの黎煌も想像すらしていないだろう。
それからというもの、黎煌は小璃を腕に抱きながら公務をこなし、食事の席にも当然のように小璃を同伴させるという徹底ぶりを見せた。
午後になると、小璃のための首輪が早くも完成し、献上された。
紅の龍鳳模様が織り込まれた柔らかな紐に、御賜の紋が刻まれた墨玉石が吊るされた立派な品だった。
黎煌は満足げに微笑みながら、その首輪をそっと璃華の首にかけた。
「よくお似合いでございます」
「さすが、高貴なる猫は違いますなあ」
最初こそ、公務の場に猫を連れ込むことに眉をひそめていた高官たちだったが。
皇帝自らが寵愛の証を授けた姿を目の当たりにし、どれほど相手が猫であろうとも、敬意を払うべき存在であると悟ったのだろう。
やがて、あからさまな世辞が飛び交いはじめた。
皇帝の機嫌を取って出世を狙う者たちの言葉など、普段の黎煌であれば右から左へ受け流すのが常。
だが、小璃のこととなると、その頬はふいに緩み、嬉しさを隠しきれていないようだった。
かくして小璃は、猫でありながら、莫大な地位を得るに至ったのである。
小璃が歩けば、官吏たちは一斉に頭を下げる。もはや誰も、小璃をぞんざいに扱うことなどできなかった。
(……なんだか、人間のときよりも敬われている気がするわ)
璃華は複雑な心境を抱えつつ、せめて黎煌の邪魔にならぬよう、公務の間はできるだけ大人しくしていようと気を遣うのだった。
夜になると、黎煌は猫になった璃華を抱きかかえて眠る。
それは、いつもは冷酷無比な鉄仮面を被ったような彼が、唯一本音をこぼす時間だった。
「……小璃を抱いていると、璃華を抱きしめているような心地になれる」
そう言って、黎煌は幸せそうに微笑む。
(まさしく、今まさに私を抱きしめておりますが……は、恥ずかしい……!)
璃華の心はじんわりと熱くなりながらも、羞恥でいっぱいだった。
「なあ、小璃。璃華は、なぜあれほど美しいのだろうな。髪は墨玉のように艶やかで、雪蓮の花びらのように透き通る肌。瞳は深い湖の底に宿る星のごとく、静かに人を惹き込み、唇は春に咲く牡丹のように紅く柔らかそうだ」
(わ、私は今、一体誰の話を聞かされているの……?)
黎煌の語る璃華があまりにも完璧すぎて、自分とは別人のように思えてくる。
本当にそんなふうに見えているのだとしたら、黎煌は何かの目の病なのではと心配になるほどだった。
「あれほどの美しさならば、傾国の美女になり得ように……それでいて、慎ましく、優しい。まるで菩薩のような女性だ。もしかしたら、天から遣わされた女神なのかもしれない。人間の男など、眼中にないのだろうか」
(……何か、ものすごく大きな勘違いをされている気がする)
実際の自分との隔たりに、璃華の心は戸惑いでいっぱいになる。
褒められれば褒められるほど、申し訳なさが募っていくのはなぜなのだろう。
「ようやく璃華を後宮に輿入れさせることが叶って、念願が実ったと喜んでいたが……現実は、甘くないものだな」
黎煌はぽつりとこぼした。
人質として璃華を入内させたのだと思っていたが。どうやら、そうではなかったらしい。
望まれて妃となったのだとしたら、それは璃華にとって何よりの幸福だった。
「まさか、あれほど嫌われていたとはな。無理やり後宮に迎えたのだから、当然といえば当然か……」
黎煌の声は、徐々に沈み込んでいく。
そのたびに、璃華の胸は締めつけられた。
(違うのに……嫌ってなんて、いないのに……!)
璃華は、もどかしさに胸をかきむしられる思いだった。
「……璃華に、会いたい」
そう呟いた黎煌は、猫の璃華をそっと抱きしめ、静かに眠りへと落ちていった。
――そうして、璃華が猫になってしまってから、一週間が経った。
「璃華は、まだ見つからぬのか」
黎煌は執務室にて、苛立ちを隠しきれぬまま、禁軍太尉に問いただす。
太い腕に鉄の籠手をはめた禁軍太尉は、武骨な面持ちに似合わず、細やかな気配りのできる男だった。真面目一筋、顔にはいつも渋い皺が刻まれている。
その足元では、猫の璃華が文机の下に置かれた座布団の上で、身を丸めていた。
後宮中をくまなく捜索させても手がかりはなく、ついにしびれを切らした黎煌は、禁軍までも動かしたのだ。
池の水を抜き、苑の草を刈り払い、虫一匹も見逃さぬほどの徹底ぶり。
璃華の行方を追うその姿には、帝としての威信すら賭けられていた。
「申し訳ございません。しかし……徳妃様の物と思しき衣が、貴妃様の宮にて発見されました」
「――なに?」
黎煌の眼光が鋭く閃く。
そのひと言に、執務室の空気が一変した。
文机の下でその会話を聞いていた璃華の胸も、ドクン、と大きく鳴る。
自分の痕跡に繋がる証拠が見つかった。なのに、なぜだろう。
胸の奥に、ぬるりとした不安が広がっていく。
(……嫌な予感がする)




