②
夜がすっかり更け、璃華はいつの間にか、黎煌の膝の上で眠ってしまっていたらしい。
仕事を終えたのか、黎煌が立ち上がる動きで、璃華はふわりと抱き上げられ、その揺れで目を覚ました。
(黎煌様……こんな遅くまで政務をこなされて。お体は大丈夫なのかしら)
璃華は大人しく、その腕に抱かれたまま移動する。どこへ向かうのかと思えば、辿り着いたのは、絹の御帳がかけられた寝台だった。
(ちょ、ちょっと……寝台はさすがに良くありません! 猫とはいえ……いえ、猫だからこそ、陛下の御寝台に上がるなんて、もってのほかですっ!)
寝台にそっと降ろされた璃華は、あわてて身を翻し、軽やかに飛び降りた。
「小璃、どうした? 一緒に寝よう」
黎煌は不満げに、璃華を見下ろす。
(だ、だめですっ。さすがに、それは越えてはならぬ一線です!)
「小璃が側にいてくれないと、寝られないよ」
普段の黎煌なら、決して口にしないような台詞。
その一言に璃華はあえなく崩れ落ち、しずしずと寝台へと戻った。
「いい子だ。一緒に寝よう」
そう言って、黎煌は璃華を抱いたまま寝台に身を横たえた。
麗しい顔がすぐ目の前にある。
璃華の心臓は高鳴りっぱなしで、とても眠れる気がしなかった。
(ああ、黎煌様……近い、近すぎますっ!)
まさか、こんな形で寝所に侍ることになるとは。
妃としてではなく、猫として、こうして抱かれる日が来ようとは思いもしなかった。どうしてこうなったのかと、頭が痛くなる。
けれど、黎煌はよほど疲れていたのか、璃華を抱いたまま、すぐに静かな寝息を立て始めた。
その顔は、穏やかで、とても安らかだった。見惚れるほど、美しい。
本来なら、入内したあの夜。妃としての務めを果たし、こうして共に床に伏し、朝を迎えていたはずだった。
全てを壊してしまったのは、他ならぬ璃華自身だ。
けれど……猫の姿でさえ、こうして抱かれるだけで体がこわばってしまうのに、妃としての務めなど、本当に果たせただろうか。
ただ、せめて。あの夜、思いを言葉にできていれば。こじれることも、すれ違うことも、なかったかもしれない。
(今なら、勇気を出して伝えられるのに……)
もどかしさを抱えたまま、璃華はそっと目を閉じた。
黎煌のあたたかな腕の中で――静かに、眠りについた。
黎煌の朝は、どうやら朝日が昇るよりも早く始まるらしい。
空がまだ薄明るさを帯びる頃、彼は静かに目を覚ました。
「小璃も起こしてしまってすまないな。だが、皆にお前を紹介しておかねば、ただの猫と思われて宮殿から追い出されてしまうかもしれぬ」
(それは困るわ)
璃華も、思わず同意した。
寝ているところを起こされたことに関しては、何の不満もない。
黎煌が文机で政務に向かっていた間、璃華は膝の上で眠っていたのだから、睡眠が足りていないのはむしろ黎煌の方ではないだろうか。
彼が寝たのは夜もかなり更けてからだった。きっと、ほんの数刻しか休めていないはずだ。
「小璃を抱いていたからか、いつもより深く眠れた気がする。体が軽い」
璃華は密かに黎煌の体調を案じていたが、どうやら大丈夫なようだった。
実際、彼の顔色はいつもより明るく見えた。
黎煌は璃華をそっと抱き上げたまま、静かに寝所を出る。
「火房に、朝の霞を頼む」
低く、控えていた宦官にそう告げる。
(朝の霞? もしかして朝食のことかしら)
璃華が戸惑っている間にも、黎煌は寝所の奥へ、回廊を隔てた静かな一角へと歩を進めていた。
そのまま、さして意に介した様子もなく、殿舎へと向かう。
玉瓦をいただく軒の下。
朱塗りの扉の隙間からは、ほのかに白い湯気が立ちのぼり、朝の静けさに溶け込むように揺れていた。
(もしかして、ここって……)
湯殿だと気づいた瞬間、璃華は内心で慌てふためいた。
けれど黎煌はまるで気にする様子もなく、当然のように殿舎内へと足を踏み入れていく。
「昨夜より湯を温めておりました。いつでもお入りいただけます」
湯使が恭しく頭を下げてそう告げると、音もなく退室していった。
静まり返った空間に、衣ずれの音がひときわ響く。
その中で、黎煌は何のためらいもなく衣を脱ぎはじめた。
(えっ……ま、まさか、ここで脱ぐんですか⁉ あ、あの、私、ここにいますけどっ⁉)
璃華が心の中で絶叫するのも知らず、黎煌は器用に片手で外套を脱ぎ、すらりとした上半身をあらわにする。
均整の取れた身体には、凛とした力強さと甘美な色香が宿っていた。
(ひゃあ……っ)
璃華の思考は、一瞬で真っ白になる。
だが、さらなる危機が――。黎煌の手が、腰ひもへと伸びたその瞬間。
「ニャーッ!」
璃華は大声で鳴き叫びながら、勢いよく黎煌の腕から飛び降りた。
「どうした、小璃?」
艶やかな色香をまとった黎煌を、璃華はまともに見ることすらできない。
顔を背け、閉ざされた扉へ駆け寄ると、前足でガリガリと必死に爪を立てた。
(だ、だめですっ! もう限界っ……見てはいけませんっ!)
「何を恥じらっている、猫だろう? いや、湯に慣れておらぬのか」
(違いますっ! 猫だけど、中身は人間なんですっ! お願いだから油断しないでええぇっ!)
「湯には入れぬから、大人しくここで待っておれ」
(無理ですっ! 見てはいけないものを、見てしまいますうっ!)
璃華は器用に扉に前足をかけ、爪でカリカリと引っかくようにして、横に軽く引いた。
少しだけ開いた隙間から身をねじこみ、なんとか脱出に成功する。
「おいっ!」
すぐに黎煌が扉を開き、後を追ってくる。
その向こうには、数人の宦官たちと、湯殿の前でちょこんと座り込んでいる猫の姿があった。
逃げ出してはいなかったことに、黎煌はほっとしたように小さく息をつき、やがて猫の璃華に語りかける。
「そんなに嫌か……。では、余が上がるまで、そこで待っているのだぞ」
璃華は「ニャー」と素直に返事をした。
そのやり取りを見た宦官たちは、目を丸くして黎煌と猫を交互に見比べる。
「猫が逃げぬよう、見張っておれ。だが、くれぐれも触るなよ。小璃は、余のものだ」
「はっ!」
宦官たちは即座に頭を下げ、主命に従った。
黎煌はようやく安心したように小さく頷き、湯殿へと戻っていく。
なんとか危機から脱した璃華だったが、宦官たちは「触らずに見張れ」という命に戸惑い、右往左往していた。
その様子を見た璃華は、素直に扉の前に座り込み、静かに黎煌の帰りを待つことにしたのだった。
やがて湯殿から上がった黎煌は、宦官の手によって整えられた衣をまとい、すっかり皇帝の威厳を取り戻していた。
険しい顔つきに、凛とした風格。
威風堂々と外廷へと歩むその姿に、誰もが思わず道を開ける。
――ただし、腕の中に猫を抱えているという一点を除いては。




