第99話 未分類戦力
歓声は、来なかった。
審判の声が消えたあとも、観客席は静かなままだった。半年前、外棟の名を呼ばれただけで笑いが起きた、あの段だ。今は、誰も声を出さない。拍手をしかけて、途中で下ろした手が、あちこちに見えた。
俺は、左手を見た。指の先が、まだ痺れている。握っても、半分しか力が入らない。
隣で、リシアが自分の袖を見ていた。焼け焦げた布の端を、指先で挟んで、そっと折り込み直している。何も言わない。
抜け道の入口から、三人が上がってきた。ラグは、まだニアに肩を借りている。足元が、揺れていた。ユノは、両手を下ろしたまま、もう振っていない。
ニアが、まずラグの顔を覗き込んだ。
「歩けますか」
「余裕」
「余裕には見えません」
ラグは、それ以上、何も言わなかった。鼻の下の血の跡は、もう乾いている。
少し遅れて、フィンが観客席の階段を駆け下りてきた。
「勝ったんだよな!? なあ、勝ったんだよな!?」
誰も、それに答えなかった。フィンも、それ以上は続けなかった。
ボルクが、観客席の縁から、ゆっくり降りてきた。片手を軽く挙げただけで、何も言わずに、隣へ並ぶ。腰の護り石には、三日前の欠けが、そのまま残っている。今日は、増えていない。
ニアが、それから、リシアの手の甲に目を留めて、眉を寄せた。
「……見せてください」
「これくらい、平気です」
「平気かどうかは、私が決めます」
押し問答にはならなかった。リシアは、素直に手を差し出す。ニアの指が、赤くなった皮膚の上を、ゆっくりとなぞっていった。
「跡は、残るかもしれません」
「構いません」
それだけの、短いやり取りだった。
あの日、外棟の名を鼻で笑った上級生の何人かが、まだ段に残っていたが、笑い声は、もう誰からも上がらなかった。前のめりだった体を、椅子の背に戻す者が、何人もいる。目が合った。先に逸らしたのは、向こうのほうだった。
掲示板の数字は、まだ動いていない。外棟二、星冠第一班一。
誰かが、遠くで、場違いに笑った。
控えの間へ戻る道すがら、誰も、勝ったという言葉を口にしなかった。寮に戻ると、フィンが握り飯を配って歩いていた。拒む者は、いなかった。味は、いつもと変わらなかった。
窓の外では、まだ星冠戦の後片付けの音が続いていた。旗を降ろす音、木箱を運ぶ足音。
ユノが、握り飯を一つ、二つに割って、半分をラグに渡した。礼を言われる前に、目を伏せる。それだけだった。サラだけが、それを見て、小さく笑っていた。
呼び出しが来たのは、その日の夕方だった。
リオネルが、擦り切れた帳面を抱えて、寮の入口で待っていた。
「今日は、証人としてです。試合の話ではありません」
そう言ったきり、あとは何も説明しない。リシアが、行くのか、と目で訊いてきたが、来なくていい、と首を振った。理由は、今も、うまく言葉にできていない。
石造りの廊下は、前に来たときと同じ冷たさだった。壁の燭台は、今日も片方だけ、灯りが入っていない。誰も、それを直していない。
廊下の手前で、壁に寄りかかっている影があった。リシアだった。来なくていい、と言ったはずだ。何を言っても、無駄だった。何も言わずに、通り過ぎた。
正面の長机に、ハーグが座っていた。左右の教官も、前と同じ顔ぶれだ。右の、頬にそばかすの残る教官が、手元の紙をめくっている。扉の脇に、カイラが腕を組んで立っていた。何も言わない。ただ、見届けるつもりらしかった。この人だけは、最初から、外棟の判断を頭ごなしに否定しなかった。机の端には、今日も、湯気の消えた茶が一つ、手をつけられないまま置かれていた。
部屋の隅に、ノアが立っていた。白い外套の裾に、灰がまだ薄く残っている。手には、あの壊れた計器を、今日も持っていた。
「王立アステリア顕能学院、星位評定の場において、中層実習中の事故について再確認を行う」
ハーグの声は、あの日と変わらなかった。速さも、抑揚も。
リオネルが、帳面を開いて、長机に差し出した。あの帳面は、半年のあいだ、机の引き出しの奥にしまわれたままだったらしい。証拠にはならない、と自分でも思っていたと、あとで聞いた。今日、初めて陽の下に出す。
「決裁欄の、この窪みです。一度書かれたものが、あとから削られています。半年前の署名の下に、今日と同じ筆跡の跡が、残っていました」
ハーグは、それを一瞥した。だが、脇へは、寄せない。指の背で、窪みの縁を、一度だけなぞった。
部屋の隅、証人として呼ばれていた監督官が、身を縮めていた。半年前と、同じ座り方だった。
「規定の紙には、範囲内だと、書いてありました。それを、信じただけです」
声は、震えていた。誰も、それに答えなかった。
「筆跡の鑑定は」
「済んでいます。結果は、そちらの紙の裏に」
ハーグは、紙を裏返した。読む速さは、変わらなかった。だが、めくる手が、ほんの一拍だけ遅れた。
「監督官は、規定の紙を見て『範囲内』と判断したと、査問で証言している」
若い教官が、記録を読み上げる。
「ですが、その規定の紙自体が、後日書き換えられていた可能性がある、と」
部屋の隅で、ノアが、口を開きかけて、閉じた。もう一度、開く。
「王都魔核研究院として、追加で報告します」
声は、いつもと同じ、感情の温度を出さない調子だった。
「半年前に回収した検体の記録と、今日提出された決裁欄の日付に、矛盾があります。異常と断定するには……」
言いかけて、止まる。手の中の計器を、一度、強く握った。針は、やはり動かない。
それでも、壊れたままの計器を、初めてポケットへしまった。俺の母の名を、この人はまだ覚えているはずだ。今日は、どちらも、それには触れなかった。
メイの名は、証言の記録としてだけ読み上げられた。姿は、どこにもない。
「本人の希望により、書面のみです」
若い教官が、それきり、口を閉じる。
ハーグは、しばらく、紙の束をそろえ直していた。そろえ終えてから、もう一度、そろえ直す。前に見た、あの仕草だった。
「……監督官については、監督責任を問い、任を解く」
声の速さは、変わらなかった。もっと言い逃れると思っていた。監督官への処分だけは、思ったよりずっと早く決まった。
「それと」
ハーグが、こちらを見た。
「星冠戦の結果について。外棟班の戦績は、正式な星位には反映されない。ただし」
間があった。
紙を一枚、机の中央に置く。
「等級制度の枠に収まらない戦力として、未分類戦力の項に記録する。前例はない」
若い教官が、それを、淡々と書き写していく。ペン先の音だけが、しばらく響いた。
隣で、リオネルが、小さく言った。
「あの監督官、前に栄転だと聞きましたが」
「……違ったみたいだな」
それ以上は、どちらも続けなかった。帳面の表紙は、また擦り切れが増えている気がした。
ハーグが、席を立った。紙の束を、若い教官へ渡す。
束のいちばん下に、見慣れない印章の押された紙が、一枚だけ覗いていた。学院の書式ではない。若い教官は、それに気づかず、束を受け取る。
書き写されたばかりの、未分類戦力の四文字を、もう一度見た。インクは、まだ乾いていない。
扉の前で、ハーグが、一度だけ、足を止めた。
「あなたの記録に、俺の名前が残ります」
俺は、それだけ言った。
ハーグは、振り返らなかった。だが、扉に手をかける前に、こちらへ、一度だけ、深く頭を下げた。
そのまま、静かに、部屋を出ていった。
廊下に、リシアが、まだいた。何も訊かない。ただ、隣に並んで、歩き出す。
誰も、拍手をしなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
外棟班が星冠戦を制した、その静かな後始末の話です。
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