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第100話 学院の外の話

 誰かが、皿を割った。


 拾おうとした手と手がぶつかって、もう一枚。


 外棟の食堂は、今夜だけ、いつもより騒がしかった。煙たいくらいだった。誰かが、暖炉に薪を入れすぎたらしい。


 卓の上には、寮母が奮発したらしい肉と、サラが裏の畑から抜いてきた芋が、湯気を立てている。誰が焼いたのか分からない、木の実入りの菓子まで並んでいた。誰が言い出したのか、俺は覚えていない。気づけば、そういうことになっていた。


 窓の桟が、少し前から歪んでいる。閉めても、隙間から夜気が入ってきた。誰も、それを直そうとはしなかった。


 半年前は、こんな夜が来るとは思っていなかった。誰が欠けても不思議ではないと、朝、部屋の人数を数えるだけで、その日の終わりまで気を抜けなかった時期もある。


「乾杯の音頭は」


 フィンが、木の杯を掲げて見回す。誰も、手を挙げなかった。


「じゃあ俺が」


「お前が言うと軽い」


 ユノが、小声で、しかしはっきりと言った。フィンの杯が、宙で止まる。


 誰かが笑い、誰かは笑わなかった。結局、音頭も乾杯もないまま、めいめいが食べはじめた。


 ボルクが、長椅子に腰を下ろした瞬間、乾いた音がした。


 脚が、斜めに裂けている。ボルクは動かない。動けば全部持っていかれると、体のほうが分かっているらしい。


「……座ったまま、死ぬのは嫌だ」


 誰かが噴き出した。ラグが、椅子の下に潜り込んで支えようとして、逆に肩をぶつけて呻いた。


 カイルが、椅子の後ろに、いつのまにか立っていた。


 手袋を、片方だけ外している。


「動かないで」


 ボルクが、動かなかった。カイルの指が、裂けた木目の上を、一度だけなぞる。あの日と、同じ動きだった。あのときは、指の下から、天井が崩れた。


 今日は、乾いた音が一つ、短く鳴っただけだった。


 裂けの先が、きれいに断たれている。折れた側の木片が、カイルの手のひらに、残っていた。


「これで、割れは進まない」


「直ったのか」


「直ってない。ここから先が崩れないようにしただけだ。座り方は、変えろ」


 珍しく、長い台詞だった。


 ボルクが、体重を、片側だけに寄せ直した。木の軋む音は、もう鳴らなかった。


 ニアが、少し離れた場所から、それを見ていた。何も言わない。ただ、口の端が、いつもよりわずかに上がっていた。


「――ちゃんと、見てましたよ」


 ニアが、それだけ言った。カイルは、答えなかった。答えない代わりに、耳の先が、少し赤くなっていた。


 ラグが、ぶつけた肩をさすりながら、椅子の下から這い出てきた。


「……俺、こういう時、いつも中途半端なんだよな」


 誰も、それを否定しなかった。誰も、肯定もしなかった。


「あと、明日の朝当番、俺だし」


 それも、誰も拾わなかった。話題は、いつのまにか、別のものに移っていた。


 カイルは、外した手袋を、また嵌め直した。


「壊すしか能がねえと思ってた」


 ぽつりと、それだけ言う。


「今も、そう思ってる。ただ、どこを壊すかは、選べるようになった」


 ボルクが、片方だけ空いた椅子の隣を、指で叩いた。座れ、という意味らしい。カイルは、少し迷ってから、腰を下ろした。二人のあいだに、まだ距離はある。前より、少しだけ近い距離だった。


 卓の反対側では、フィンが、指先に糸を絡めて何か芸をやろうとしていた。


「見ろよ、これ」


 誰も見ていなかった。フィンは、それでも続けた。糸が、指の輪から抜けそこねて、皿の上に落ちる。


 ユノだけが、横目でそれを見ていた。


「今の、失敗してませんか」


「失敗じゃない。仕込みだ」


「先週も、それ言ってました」


 フィンが、大きな声で笑った。ユノは、笑わなかった。だが、皿に落ちた糸を、指先でそっと拾い上げて、フィンの手に戻していた。二人のやり取りは、これでもう何度目か分からない。同じことを繰り返しているだけなのに、飽きた様子は、どちらにもなかった。


 リオネルは、卓の端で、帳面を開いていた。祝いの席でも、手は止まらないらしい。


「今日ぐらい休めば」


 サラが、湯気の立つ椀を、リオネルの前に置きながら言う。


「今日だから、書いておく」


「そういうとこだよ、リオネル」


 サラは笑って、次の椀を配りに行った。リオネルは、それを見送ってから、また帳面に目を落とす。ペン先の音だけが、また一つ増えた。


 部屋の隅、灯りの届かない場所に、メイが座っていた。いつからそこにいたのか、俺は気づいていない。


 ノエルが、その隣で、珍しく大きな声で笑った。いつもの、薄く皮肉げな声とは、少し違う響きだった。


 俺は、それに気づいて、目を向けた。


 ノエルは、俺の視線に気づくと、すぐに、いつもの声に戻した。メイのほうを見る。メイは、何も言わず、小さく頷いただけだった。


 二人のあいだにだけ、通じている何かがある。それが何なのかは、分からない。分からないまま、俺は、目を逸らした。


 気づけば、メイの分の皿だけが、綺麗に空になっていた。彼女が食べているところを、俺は一度も見ていない。


 夜が更けて、部屋の熱気が少し落ち着いたころ、俺は外へ出た。


 外棟の裏手、井戸のそばに、リシアが立っていた。焼けた手の甲を、包帯の上からさすっている。


「痛むのか」


「もう、平気です」


 嘘ではないだろう。だが、本当に平気なのかは、まだ分からない。


 並んで、井戸に背を預けた。中の騒ぎが、壁越しに、くぐもって届く。


 リシアの手の甲には、まだ包帯が巻かれている。焼けた跡は、消えるまでにもう少しかかるだろうと、ニアが言っていた。消えなくてもいい、と思ったことは、誰にも言っていない。


 解けかけた包帯の端を、リシアが結び直そうとして、指先だけでは、うまくいかない。見かねて、手を伸ばした。結び目の上で、指と指が触れた。


 いつもなら、どちらかが先に離す。


 今日は、どちらも、離さなかった。


 ……ああ、これは。


「お前」という呼び方だけは、変えるつもりがなかった。変える必要は、ない。


「……お前」


「なんですか」


 続きは、出てこなかった。リシアは、待っていた。待たれていることに、余計に、何も言えなくなっていた。


 結局、何も言わなかった。それでよかった。リシアの肩が、少しだけ、俺の肩に寄っていた。それだけで、伝わることがあった。


 井戸の陰から、乾いた足音がした。


「随分、静かなところにいるな」


 ゼクトだった。杯を片手に、壁に寄りかかる。着崩した外套の下に、いつもの帯剣が覗いていた。


「評定の場で、大立ち回りをやったそうじゃないか」


「大立ち回りは、してません」


「そうか。じゃあ、大人しく紙一枚で片づいたわけだ」


 実際には、紙一枚どころではなかったが、説明する気にはなれなかった。


 軽口なのか、皮肉なのか、いつも判断がつかない。今日も、そうだった。


「未分類、ってやつになったんだってな」


 懐の紙の存在を、指先で、一度だけ確かめた。


「はい」


 ゼクトは、杯の中身を、一口だけ飲んだ。


「俺も、そうだった」


 それきり、口をつぐんだ。


 しばらく、三人とも、何も言わなかった。中の騒ぎだけが、遠く聞こえていた。


 ゼクトが、壁から体を起こす。


「そろそろ行く。祝いの席に、長居する柄じゃない」


「もう帰るんですか」


「明日には、な」


 振り返らずに、外套の裾を翻して、歩き出す。数歩、進んだところで、足を止めた。


「レン」


「はい」


 ゼクトは、振り返らなかった。背を向けたまま、言った。


「ここから先は、学院の外の話だ」

お読みいただき、ありがとうございます。


第100話をもちまして、第1シリーズが完結となります。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

「学院の外の話」については、追ってこのページでお知らせできればと思います。


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