第101話 その依頼、涼しい顔で
第101話 その依頼、涼しい顔で
「四人、ですか」
隊商の親方が、俺たちの後ろを覗き込んだ。後ろには、峠道と、止まったままの荷車しかない。
「四人です」
「後から、残りの方が」
「来ません。ほかの連中は、別の依頼に出てます」
「噂だと、もっと若い人たちだって」
「噂は、遅いので」
親方は、つばの裂けた帽子を手の中で一度だけ回した。まだ何か言いかけて、やめた。値段の話だろう、と俺は思った。四人でその値段か、と。
荷車は七台あった。塩を積んでいるらしく、幌の隙間からこぼれた白い粉が、車輪の轍に沿って細く積もっている。三日前から、ここで止まっているという。
理由は、峠の上にいた。
切り通しの真ん中に、岩が一つ転がっている。荷車一台半ほどの幅しかない道の、半分以上を塞ぐ大きさだった。両側は赤土の崖で、大人三人分の高さがある。岩の背には苔が生えていて、その隙間に砂利が詰まっていた。
その背が、ゆっくり上下している。
「あれに、護衛が二人やられました」
親方が、顎で荷車の陰を示す。腕を布で吊った男が二人、樽に腰かけていた。手前の男の脛当ては、内側へへこんだまま戻っていない。
「役所には、二度届けを出したんです。峠の番所にも。返事は、まだありません」
「昼間は、動かないんですか」
「動きません。こっちが近づくと、急に。夜は……こっちも寝てるので、分かりません。朝になると、少しだけ向きが変わってる」
夜のうちに、餌でも探しているのかもしれない。道の真ん中を選んで伏せているのも、たぶん偶然ではない。
ボルクが足元を見下ろして、顔をしかめた。
「この靴、まだ鳴るんだよな」
一歩ごとに、きゅ、と音がする。先月の市で、店主に勧められるまま買ったばかりらしい。誰も、返事をしなかった。
ユノは荷車の横に立ったまま、切り通しのほうを見ていた。距離は二十歩はある。手には干した杏の袋を持っていて、一つ口に入れては顔をしかめている。
「……酸っぱい、です」
「買ったの、お前だろ」
「はい」
ユノはもう一つ口に入れて、それを噛みながら言った。
「喉の下。前から数えて、三枚目の板です。そこだけ、揺れが遅い」
「遅い、って」
「脈が、そこだけ殻の近くを通ってます。……たぶん」
親方が、俺とユノを見比べていた。
俺は腰の袋から、解体用の刃を出した。刃渡りは掌を二つ並べたほど。素材屋の息子が持っていても、誰も気にしない種類の刃物だ。
「剣は、使わないんですか。ハルヴェルさん、でしたか」
依頼書の署名を、覚えていたらしい。
「これで足ります」
足りなかったら、そのとき考える。
ボルクが、道の真ん中をまっすぐ上っていく。靴が、きゅ、きゅ、と鳴る。リシアはその一歩左後ろを、何も言わずについていった。俺は、左の崖際を行く。打ち合わせは、していない。峠の形を見れば、どこに立つかは決まる。
岩の前で立ち止まると、ボルクは握った拳の甲で、岩の背を二度叩いた。戸口を叩くのと、同じ叩き方だった。
それから、きゅ、きゅ、と十歩下がって、そこで止まった。
後ろで、親方が短い声を出した。
苔の下から、脚が四本出てきた。背の甲殻がまるごと起き上がり、さっきまで見下ろしていた岩の背が、荷車の幌を越える高さまで一息に上がる。首が伸びた。首の下には、灰色の板が何枚も、鱗のように重なって並んでいる。伏せているあいだ地面についていたせいか、板はどれも泥で黒く濡れていた。
目は開いていた。いつから開いていたのかは、分からない。俺は、眠っていると思っていた。
獣が、坂を下りはじめる。一歩ごとに足元の砂利が跳ね、三歩目で、それは突進になった。
ボルクは、動かなかった。
右の崖に近いほうの前脚が、ボルクの二歩手前で、何もないはずの地面を踏んだ。光の加減でやっと見えるくらいの、薄い膜が一枚、そこに斜めに寝かせてあった。リシアの膜だ。蹄に近い硬い足先が、膜の傾きに沿って、外へ滑る。巨体が右へ傾き、頭がボルクの正面を外れて、右の崖に突っ込んだ。
赤土が、崩れて降る。獣の肩がボルクの肩を掠め、ボルクの靴が砂利を削って、二歩分、後ろへ滑った。
首が、崖に刺さったまま伸びきっている。首の下の板が、左の崖際にいる俺から、斜めに見えた。前から一枚、二枚、三枚目。
三枚目の板の縁に、熱を入れた。火は出ない。板の縁だけを、内側から温める。
じゅ、と音がして、泥の水が湯気になって上がった。割れない。
もう一度、と思ったとき、獣の頭が崖から抜けた。
抜けた勢いのまま、首が、こっちへ振れる。
俺は一歩下がって、背中を崖にぶつけた。下がれる場所は、それで終わりだった。……痛い。
顎が、目の前で閉じた。掌一枚ぶんの距離で、歯と歯が噛み合う音がした。息が、生臭い。首の下の板が、今度は真正面にある。三枚目の縁だけが、湯気を出し切って、白っぽく乾いていた。
そこに、もう一度入れる。
ぱき、と、薪が割れるような音がした。
板が縁から浮き、その下に、殻ではない白っぽい皮が見える。皮の下で、何かがゆっくり動いていた。
刃を握ったまま、鉄に熱を通す。灰色だった鉄が、赤に変わっていく。柄の革が焦げる匂いがした。
浮いた板の隙間に、刃を差し込む。抵抗は、ほとんどなかった。
獣の脚が、一本ずつ、折れるように畳まれていく。首が、俺の足元に落ちた。首の下から煙が細く一本だけ上がり、肉の焼ける匂いが赤土の匂いに混じる。
刃を抜いて、赤く残った鉄が暗くなるまで、そのまま下げておいた。背中が、赤土で汚れている。
一度目は、乾かすために入れた。……ことにしておこう。
振り返ると、親方が、帽子を半分だけ脱いだところで止まっていた。脱ぐのか、かぶり直すのか、決めかねているような手つきだった。
荷車の陰では、腕を吊った奥の男が、樽から腰を浮かせていた。
「おい、あれが――」
親方が、その男の脇腹を肘で突いた。男は黙って、代わりに舌打ちをした。何に対してなのかは、分からない。脛当てのへこんだ手前の男は、自分の脛当てを、じっと見ている。
ボルクが、道の真ん中から戻ってきた。立ち止まって、片足で地面を一度踏む。
きゅ。
さっきより、気の抜けた音だった。
「……まだ鳴る」
足を上げて、裏を見る。砂利を削ったせいで、底の縁が白く擦り切れていた。鳴るうえに、擦り切れている。荷車の横から、ユノが杏を一つ差し出した。ボルクは、首を横に振った。
リシアが、俺の背中の赤土を見て、それから手元を見た。
「革、焦がしましたね」
「巻き直す」
「前も、そう言ってました」
そうだったかもしれない。覚えていない。
ユノは、荷車の横から一歩も動いていなかった。杏の袋の中身だけが、さっきより減っていた。
親方が、ようやく帽子をかぶり直して、俺のほうへ歩いてきた。途中で一度、獣の死骸を振り返る。
「……報酬を」
革袋が手渡された。俺は、中を確かめずに腰へ下げた。
親方は、何か言いたそうにしていた。口から出たのは、別の言葉だった。
「塩は、要りませんか。一袋、余分に積んでるんです。湿気ると、売りものにならないもので」
俺はリシアを見た。リシアは、肩をすくめた。結局、塩を一袋もらった。
峠を下りはじめたころには、陽が、赤土と同じ色になっていた。
後ろから、荷車の車輪がようやく動き出す音がする。七台分。一台だけ軸が鳴っていた。油を差せと言いに戻るには、もう遠かった。
ボルクとユノは、少し先を歩いている。ボルクが擦り切れた靴底の話をしていて、ユノはたぶん聞いていない。杏を一つ、ボルクの口に押し込んで、黙らせていた。
俺とリシアは、その後ろを並んで歩いた。塩の袋が肩に食い込む。余りものだと言うわりに、袋はずしりと重い。歩くたびに、袋の底で塩が擦れる音がした。
「持ちましょうか」
「いい」
「そうですか」
リシアは、それ以上言わなかった。代わりに、袋の底に片手を添えてきた。少し、軽くなった。
腰の刃に、指が触れた。焦げた革の下に、いちばん古い巻きが一層、硬くなって残っている。
インクの染みた革だ。あの日、机の上でインク壺が倒れて、巻きかけの革が吸った。机には登録の紙が広がっていて、みんなが、名乗る名前の字を決めかねていた。
峠の下の宿場に、灯りがひとつ、ふたつと点きはじめていた。
「……あれから、何年になる」
知っていて、訊いた。
リシアは、指を折っていった。片手では、足りなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回から新しいシリーズの開幕です。まずは少し先の、あの四人のある一日から。
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