第102話 外塔
第102話 外塔
卒業証書は、思っていたより薄かった。
丸めて紐で縛られた紙が一枚。三年かけて手に入れたものの重さとしては、どう考えても軽すぎる。
大広間の式は、長かった。学院長の話が長く、来賓の話はもっと長かった。外棟の十二人は、いちばん後ろの列の、さらに端に座らされた。そこだけ椅子が足りず、ボルクは最後まで立っていた。借りた式服の袖が短くて、手首が、半分ほど出ていた。来賓席の貴族たちは、膝掛けをかけたまま、ほとんど身じろぎもしなかった。
名前を呼ばれて、前に出て、紙を受け取って、戻る。それだけのことに、一人あたり、息を三つ吸うくらいの時間がかかった。
俺の番のとき、壇の上でマルクが一度だけ、こちらを見た。何も言わない。いつもどおりの、書類を読むときの顔だった。
式が終わると、上位生たちは家の馬車に乗って帰っていった。星冠の連中も、それぞれの迎えと一緒に門を出ていく。セイルが、門のところで振り返り、それから、何ごともなかったように馬車へ乗りこむ。
外棟には、迎えの馬車は来なかった。
だから、そのまま食堂に戻った。
夕方になって、小包が一つ届いた。差出人は、親父だった。
開けると、解体用の刃が一本、布に巻かれて入っていた。刃渡りは掌を二つ並べたほど。柄には、まだ何も巻いていない。木の地肌のままだ。手紙は入っていなかった。内側の紙に、店の帳簿と同じ角ばった字で、俺の名前だけが書いてある。その柄を、親指で一度こすった。
同じ包みの底から、革紐が、一巻き出てきた。こっちは、たぶん母さんだ。
食堂の卓には、紙が一枚広げてあった。リオネルが、昼のうちにギルドの王都支部からもらってきた、新規登録の申請書だ。
記入欄は、四つしかない。名称。構成員。拠点。保証人。
構成員の欄は、リオネルがもう埋めていた。十二人分の名前が、几帳面な字で縦に並んでいる。拠点の欄には、補給村の名前が入っていた。
空いているのは、名称と、保証人だけだった。
「外棟でいいだろ」
ボルクが、立ったまま言った。式のあとも、まだ座っていない。式服が窮屈で、座ると背中が裂けそうなのだという。脱いだら、一人では二度と着られないらしい。
「学院の建物の名前だぞ、それ」
フィンが、卓に頬杖をついたまま言う。
「もっとこう、あるだろ。《星喰い》とか、《灰雨の牙》とか。いちばんいいのは、《外棟十二星・灰雨に咲く》だな」
「長いです」
リシアが言った。
「どれも、読んだ人が笑います」
ユノが小声で足す。フィンは笑った。ユノは、笑わなかった。
サラは、干した木の実を配って歩いていた。誰の話にも口を挟まない。配り終えると、自分の分を一つ口に入れて、窓の外を見ていた。
俺は、卓のいちばん端で、親父の刃の柄に、母さんの革を巻いていた。
名前の話に、加わる気はなかった。どうせ決まるところに決まる。そう思っていた。
「レンは」
リシアが、向かいから言った。
「何がいいと思いますか」
「なんでもいい」
「なんでもいい、は、なしです」
手が止まった。
なんでもいい、は本心だった。名前が何であっても、やることは変わらない。そう言いかけて、やめた。リシアの目が、そういう答えを待っていないことだけは分かった。
「……外棟で、いいんじゃないか」
「ボルクと同じですね」
「そうだな」
「考えましたか」
「考えてない」
リシアは、ため息をついた。それから、自分の分の木の実を、俺の皿に一つ移した。何の意味があるのかは、分からなかった。
ニアが、ラグの袖口のほつれを、針で縫っていた。十二人の中で、いちばんよくものを倒すのが、ラグだ。ラグは、縫われながら、申請書を覗き込もうとして身を乗り出した。
肘が、インク壺に当たった。
壺が倒れる。黒いものが、卓の上を走った。リオネルが、申請書を持ち上げた。間に合った。紙の端に、点が一つついただけで済んだ。
インクの行き先は、俺の手元だった。
巻きかけの革が、それを吸った。灰色の革に、黒い染みが、ゆっくり広がっていく。
「……悪い」
ラグが言った。
「いい」
巻き直すか、と一瞬考えた。それから、そのまま巻き続けた。染みの上に、次の一巻きを重ねる。見えなくなった。指先だけが、黒くなっていた。
ニアが、ラグの袖をもう一度引っ張って、椅子に座らせた。縫い目は、途中のままだった。
騒ぎが収まったころ、リオネルが、持ち上げたままの申請書を卓に戻した。インクの点を、指の腹で撫でる。
誰に断るでもなく、ペンを取る。新しいインク壺の蓋を開けて、名称の欄に、字を二つ書いた。
書き終えてから、紙をこちらに向けた。
「棟じゃない。塔にしよう」
「なんで塔」
ボルクが訊いた。
「……字面です」
リオネルは、それ以上言わなかった。ボルクは、ふうん、とだけ言った。
フィンが覗き込んで、しばらく黙っている。
「……《星喰い》より、いいかもな」
「比べるものが悪いです」
ユノが言った。今度は、フィンは笑わなかった。
ボルクが、ようやく椅子に腰を下ろした。式服の背中で、糸の切れる小さな音がした。ボルクは、聞こえなかったことにしたらしい。
保証人の欄は、空いたままだった。
新規のギルドを登録するには、身元を保証する者の署名が要る。十八の、名もない十二人の身元を引き受ける大人。マルクの顔が一瞬浮かんで、すぐに消えた。あの人は、規則にない署名はしない。心当たりは、あと一人しかいなかった。そして、その一人が来るとは、俺は思っていなかった。昼の式にも、あの男は来ていない。来賓席にも、教官の列にも、あの偏屈な背中はなかった。
来た。
日が落ちてから、食堂の戸が、叩きもせずに開いた。イザークだった。外套の肩に、乾いた泥がこびりついていて、裾には、枯れ草が一本、引っかかったままだった。戸は、開けたままだ。
「保証人の欄が空いていると聞いた」
「誰から」
フィンが訊いた。イザークは答えなかった。卓の上の申請書を、立ったまま見下ろす。名称の欄で、目が止まった。
「塔、か」
「はい」
リオネルが答えた。イザークは、ペンを取った。インク壺に一度浸しただけで、保証人の欄を埋める。ペン先が紙から離れるまで、息一つぶんもかからなかった。
「欠陥品の寄せ集めの保証人か。面白い」
それだけ言って、ペンを置いた。
「言っておくが、俺が保証するのは身元だけだ。お前らの腕は、保証しない」
「知ってます」
「なら、いい」
イザークは、開けたままの戸から出ていった。夜気が入ってくる。サラが立って、戸を閉めた。
申請書は、翌朝、リオネルと俺で支部に持っていった。
支部の待合には、朝から依頼を探しに来た冒険者たちが、壁の掲示板の前に何人も立っていた。誰も、こちらを見なかった。十八の子供が二人、紙を一枚持って並んでいるだけだ。見る理由がない。
受付の女性は、書類を一度読んで、眉を上げた。何か言いかけて、やめた。代わりに、奥から支部長を呼んだ。
名前のことだろう、と俺は思った。学院を出たばかりの子供が、いきなりギルドを名乗ろうとしている。笑われても、まあ、仕方がない。
支部長は、名称の欄を素通りした。保証人の欄で、指が止まる。そこで、長いこと黙っていた。
「……この欄に、あの人の名前があるのは、初めてだ」
独り言のような声だった。待合の掲示板の前で、冒険者が一人、こちらへ顔を向けた。すぐに、また掲示板へ戻った。
待っているあいだ、リオネルは、控えの写しを三度読み返した。三度とも、名称の欄のところで、口の端が少しだけ動いた。
昼過ぎに、登録証ができあがった。
掌に収まるくらいの、薄い金属の札だった。表に、ギルドの名称が刻まれている。裏には、登録の日付と、支部の印。
リオネルが、それを俺に渡した。
受け取ると、思っていたより重かった。……金属だから、当たり前か。
表を、指でなぞる。刻みの縁が、まだ少しざらついている。
登録証に刻まれた文字は、たった二文字だった。読みは、今までと同じだった。
支部を出るとき、掲示板の隅に、朱で「取り下げ」と書かれた依頼票が一枚、貼られたままになっていた。剥がし忘れだろう、と思った。
依頼の欄には、「家畜の不審死。原因の調査」とだけあった。依頼主の地名は、東の辺境のものだった。補給村から、半日の距離の。
朱の字は、まだ新しかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は少し時間を戻して、卒業の日と、名前が決まった日のお話でした。
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