第103話 握り潰された報告
第103話 握り潰された報告
「腰が引けてる。もう一回」
ロイの声が、朝の空気を割った。
本拠の二階の窓から、村の広場が見下ろせる。若いのが四人、木剣を持って並んでいた。ロイは、そのうちの一人の背中を、左手一本で持った木剣の腹で、軽く叩いている。叩かれた方が、顔をしかめて構え直した。構え直した先で、また同じところを叩かれている。本人は、何が悪いのかまだ分かっていない顔だった。
ロイは、今も脚を少し引きずっている。右手は、剣を握れないままだ。それでも稽古をつける声だけは、この六年、一度も小さくなったことがない。
こちらに気づいたらしく、ロイが木剣の先を、窓のほうへ少しだけ上げた。挨拶なのか、降りてきて手伝えという意味なのかは、いつも分からない。
窓を閉めた。蝶番が、いつものように鳴った。
外塔の本拠は、親父の店の裏手にあった素材の倉庫に、二階を載せて隣の空き家と繋げたものだ。足しすぎて、廊下が途中で一段だけ下がっている。
階段を下りると、干した薬草の匂いがした。
母さんが、土間の梁から吊るした束を、一本ずつ裏返していた。
「朝ご飯、まだでしょう」
「食べました」
「嘘をつくときの顔をしてますよ」
母さんは、こちらを見ずに言った。束を裏返す手は、止まらない。
食べていないのは本当だった。卓の上に、布をかけた皿が置いてある。布をめくると、黒パンが二切れと、茹でた芋が一つあった。立ったまま、芋を齧った。
「座って食べなさい」
「はい」
座らなかった。母さんは、それ以上言わない。
芋を半分残して布を戻し、店の奥の階段へ向かった。店では、親父が秤の皿に殻の欠片を載せて、目盛りを睨んでいた。客が一人、高いと言っている。
「左の秤、また狂ってるぞ」
すれ違いざまに、それだけ言われた。
「あとで見る」
「先月も、そう言った」
言われたかもしれない。
記録部屋は、二階の奥にある。
戸を開けると、紙の匂いが濃くなった。壁の三面が棚で、そこに、外塔がこの六年で見聞きした依頼の写しが、年ごとに綴じて並んでいる。受けた依頼だけではない。支部の掲示板に貼られていたもの、他のギルドが受けたもの、人づてに聞いたもの。リオネルは、目に入った依頼を、ほとんど全部書き写してきた。
窓際の机には、文鎮代わりの灰色の石が一つ載っている。昔、フィンがどこかの坑道の壁から欠いて持ち帰ったものだ。何に使うつもりだったのかは、本人も覚えていない。
そのリオネルが、机ではなく、床に座りこんでいた。
周りに、綴りが扇の形に広げてある。六年分の、全部だった。
「……何してる」
「並べ替えてます」
リオネルは、顔を上げずに言った。膝の上に、写しが一枚ある。
「年ごとだと、見えないものがあるので」
「何ごとなら、見える」
「取り下げごと、です」
リオネルが、扇のいちばん右の山を、指で示した。ほかの山より、ずっと薄い。
屈んで、一番上の一枚を取った。
依頼の写しだった。東の辺境、採掘の村。井戸の水が、汲んでしばらくしても冷めない。原因の調査を求む。その上に、リオネルの字で、朱の線が一本引いてある。取り下げ、の印だ。
次の一枚。北寄りの牧草地。家畜の死骸が、何日たっても腐らずに、黒く乾いている。
次。東の街道沿いの柵。燃えた跡がないのに、杭の割れ目だけが炭になっている。
次。東方の魔境の縁。狩った魔物の魔核が、表は冷えているのに、割ると芯だけが熱い。日が暮れても、冷めなかった。
その次の一枚で、手が止まった。
家畜の不審死。原因の調査。依頼を出した村は、東の辺境。補給村から、半日の距離。
見覚えがあった。
六年前、登録の日に、支部の掲示板の隅で見た一枚だ。貼り紙に朱で書かれた「取り下げ」の字が、まだ新しかった。あのときは、剥がし忘れだろうと思った。
「これ、あのときのか」
「はい。あの日のうちに、写しました」
リオネルは、当たり前のことのように言った。
取り下げになった依頼の原本は、支部の奥の箱に仕舞われ、ふつうは外の者には見せない。リオネルは、そこへ三年通ったのだという。受付の女性が根負けして、「写すだけなら」と箱の蓋を開けてくれるまで。
「……三年も粘られたのか、あの人」
言ってから、気の毒がる相手を間違えた気がした。
「なんで、三年も」
答えは返ってこなかった。リオネルは、床の写しの角を、指で一枚ずつ揃え直しただけだった。床に膝をついて写し続けてきたせいか、ズボンの膝の布だけが、白く擦り切れていた。
「……依頼主が、自分で引っこめたんじゃないのか」
俺は言った。辺境の依頼は、よく取り下げになる。報酬が集まらない。村同士で揉める。待っているうちに、魔物のほうがいなくなる。そういう取り下げなら、何十と見てきた。
「そう思って、依頼主のほうを当たってみたんです。三件だけですけど」
「当たった」
「手紙で。三件とも、自分からは取り下げてない、と返事が来ました。一件は、ずっと誰かが来るのを待っていた、と」
リオネルが、写しの束の下から、封筒を三通出した。どれも、字が違う。一通は、封の蝋が、指で押しただけの形をしていた。字の震え方からすると、年寄りだろう。
俺は、それを受け取らなかった。
「それだけなら、まだ、行き違いかもしれません」
リオネルが、写しを一枚、裏返した。
写しの裏に、小さな四角が描き写してあった。印の形だ。四角の中に、横線が二本と、鍵のような鉤が一つ。
「取り下げの決裁印です。支部で、原本の裏を見せてもらって、写しました。取り下げの原本には、全部、これが押してある」
「全部」
「この山の、全部です」
リオネルが、薄い山の端を、指でめくっていく。一枚ごとに、裏の四角が見えた。同じ形。同じ横線。同じ鉤。
十一枚あった。いちばん古いのは六年前。いちばん新しいのは、先月の日付だった。
「熱いのと、黒いの。分けられるのは、そこまでです」
リオネルが言う。めくられていく表の文面を、俺は目で追っていた。冷めない井戸。芯だけ熱い魔核。割れ目だけが炭になった杭。
「……外から焼けたんじゃない」
気づいたときには、口に出していた。
「中から、熱が出てる。全部だ」
めくる指が、止まった。
「中から、は……見てなかったです」
止めた指で、リオネルは、最初の一枚からめくり直した。今度は、表だけを見ながら。
家畜の二枚だけは、熱のことが何も書いていなかった。書いていないだけなのか、熱くなかったのか。そこまでは、紙からは分からない。
「取り下げを決めるのは、支部じゃないのか」
「普通は、支部です。でも、支部の印は丸くて、これは四角なんです。王都のどこかの、もっと上の部署のものだと思います。どこなのかは、まだ」
リオネルは、言葉を切った。
階下から、母さんが誰かを呼ぶ声がした。リシアの名前だった。薬草の束を運ぶのを、手伝わせるつもりらしい。
廊下を来た足音が、記録部屋の戸口で一度止まった。リシアが、床の扇と、俺の手の中の一枚を見た。何か言いかけて、階下からもう一度呼ばれた。「はい」と下へ返事をして、そのまま階段を下りていく。
俺は、手の中の一枚を見ていた。
家畜の不審死。補給村から、半日。
あの日、この一枚の隣には、報酬の高い魔物討伐の貼り紙があった。俺は、先にそっちの額を読んだ。それから、剥がし忘れだと思って、支部を出た。登録証を握ったまま、帰りの馬車の中でずっと、字の刻みを指でなぞっていた。
あの日なぞった登録証は、今も、腰の袋の底に入っている。指が、袋の口まで行って、そこで止まった。
「……王都の役所なんて、どこも同じ印を使い回してるのかもしれない」
口から出たのは、そんな言葉だった。手の中の一枚を、裏を見ないまま、扇の上へ戻した。
リオネルは、まだ床に座っていた。扇の形に広げた六年分の真ん中で、膝の上の一枚を、両手で持っている。
その手が、少しだけ、紙を強く握った。端に、皺が一本寄った。
「これ……偶然、じゃないですよね」
膝の上の一枚は、先月のものだった。依頼を出したのは、母さんがいつも薬草を買いに行く、川向こうの村だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
時間は「今」に戻りました。六年分の紙の山から、引っかかるものが出てきます。
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