第98話 一手が届く
熱が、手首の中を上っていく。
指は半分しか握れていない。それでも、革帯に引っかけた二本の指から、熱だけは途切れずに流れていた。セイルの腕の内側で、それが細かく揺れはじめているのが、指先に返ってくる。
セイルが、大きく腕を振った。
痺れた指は、それで簡単に外れた。俺は岩の上に背中から落ちて、転がった勢いのまま膝をつく。
審判の声を待った。
下で、三つ目が終わったはずだ。誰かの石が割れていれば、頭の上から名前が降ってくる。
降ってこなかった。
膝の下の岩が冷たくて、その冷たさで、ようやく自分の息が浅くなっていたことに気づく。
セイルは、元の位置へ戻っていた。岩棚の縁、外周の結界ぎわに組まれた、審判補佐の立つ木の足場。その数歩手前が、あの男の立つ場所だった。腰の護り石を抱える留め具が、薄い金属の輪になっていて、日を受けて一度だけ光る。
戻る足元に、霜の筋が引かれる。開幕から、行きも帰りも同じ太さだった筋だ。
その筋が、帰り道だけ、細かった。
糸一本ぶん。見間違いと言われれば、そうかもしれない幅だった。俺は見間違いだとは思わなかった。
セイルが、右の手首を左手で握っている。刃は下がっていない。握った指の関節だけが、白い。
「……熱い」
足元の霜の輪が、一度だけ滲んだ。滲んだ白が元に戻るまで、ひと呼吸ぶんかかった。
遠く、対岸の奥で、ミレーユの声が上がった。舞台の中ほどで、ガレスの盾が向きを変える。岩棚へ上がる通路のほうへ。セイルは、ミレーユの声のほうを振り返らない。
鐘は、まだ三度目を鳴らしていない。砂時計の底は近い。ガレスが上がってくる前か、鐘が鳴る前か。どちらにしても、次の一手で決まる。
セイルも、同じ勘定をしたらしかった。岩に熱を流す手は、もう二度見せている。三度目を待ってくれる相手ではない。背中のずっと後ろ、通路の奥で、盾の縁が壁をこする音が響いた。
刃を左手に持ち替える。滑らなかった。一歩ずつ、歩いてくる。細くなった霜の筋を踏まず、岩の上を、まっすぐ。
下がろうとして、膝がそれを断った。右肩は上がらない。左の指は、半分しか握れない。立っているだけで、今の俺にはせいいっぱいだった。近づいてくる靴音が、一歩ごとに、腰の石の線に響く気がする。
刃の届く距離まで来て、止まった。
止まった瞬間、体が重くなった。
膝から下が、泥に沈んだように遅い。息を吸う胸まで、半拍ずつ遅れてついてくる。剣域の中だ。前に負けたときと、同じ重さだった。風に飛ばされた砂粒が一つ、目の前で、落ちるのをためらうように宙に浮いている。観客席のざわめきが、水の底から聞くように、間延びして遠い。
セイルの刃が、上がる。こちらは、腕を上げるのに、向こうの倍かかる。
左の肘の下に、手が差しこまれた。
リシアだった。いつ来たのか、目の端にも映っていない。剣域の中へ、自分から踏みこんできたらしい。肘を掴んだ指も、俺と同じように、半拍ずつ遅れている。それでも、膜を張る厚さの残っていない手が、上がらない腕の代わりに、俺の左腕を前へ送り出していた。押された分だけ、体が前へ出る。戻れ、と言いかけた声まで半拍遅れそうで、言うのをやめた。
刃が来る。
腰の石に、冷たいものが食いこんだ。線が二本になる。三本目の手前で、石が軋んだ。二本の線のあいだを、細いひびが、這うように伸びていく。あと髪一本で割れる音だと、体のほうが先に知っていた。刃の先は、まだ引かない。セイルの左腕に、もう一段、力がこもる。
その刃を持つセイルの左の手首へ、俺の左手が届いた。
温めるのは、剣域の中にある俺の手ではない。触れた先の、あの男の中だ。
革帯の下、手首の内側へ、熱を流す。
指先で、熱が向こうへ移っていく。
さっき右の手首に入れた熱と、今左に入れた熱が、あの男の体の中で、両側から肩へ上っていく。セイルの顔から、表情が抜けた。刃を押しこむ力と、腕の中を上ってくる熱と。刃の先が、俺の石の上で、一度だけ、震える。ひびが伸びるのが止まって、また、ほんの少しだけ進んだ。
足元の霜の輪に、ひびが入った。
白い縁の一点から、ぐるりと一周。
剣域が、破れた。
体の重さが、一度に抜けた。息が、ちゃんと胸に入る。宙に浮いていた砂粒が、ようやく足元に落ちた。観客席のざわめきが、耳のすぐそばまで戻ってくる。
セイルの左手から、刃が滑った。取り落としかけて、柄を握り直そうとして、その腕が上がらない。支えを失った体が前へ傾いて、片膝が岩に落ちた。
俺は、重さの抜けた体で、膝を引きずって踏みこんだ。
左の手のひらを、セイルの腰の、あの金属の輪へ押し当てる。
熱いのは、金具に触れている石の縁だけだ。芯は、まだ冷たい。縁と芯のあいだで、高い音が鳴る。
硝子を落としたときの、あの音。今日、三度目だった。
セイルの腰で、光の粒が散る。セイルは、散っていく粒を、最後の一粒まで目で追っていた。金具に詰めた熱が、石の割れた拍子に行き場をなくして、四方へ弾けた。
セイルの外套の腰まわりが、ひと息に黒く縮れて煙を上げる。数歩向こうの木の足場でも、手すりの端が薄く焦げて、上にいた審判補佐が慌てて飛び降りた。
頭上から、審判の声が降ってくる。
「星冠第一班、セイル・ノル……ノルディア、脱落」
名前を、一度噛んだ。
外棟が、二つ目を取った。
審判の声の響きが消えきらないうちに、遠くで、鐘が鳴りはじめる。
一度。二度。三度。
試合が、終わった。
「撃破、外棟二。星冠第一班、一」
審判の乾いた声が、数字だけを置いていった。数えれば、勝ちだった。数えないと、まだ実感が追いつかない。観客席は、すぐには音を出さない。誰かが声を上げかけて、飲みこむ気配だけが、段のあちこちに残っていた。
俺の腰の石は、三本目の線の手前で、割れずに残っていた。手のひらは、どこも焼けていない。
隣で、リシアが自分の袖口を見ていた。俺の肘を送り出していた側の袖が、指の幅ぶん、茶色く縮れている。金具に当てた俺の手のひらの、すぐ横にあった手だ。手の甲も、うっすらと赤い。
俺は、それを見ていなかった。頭にあったのは、送り出された半歩のことだけだ。
岩棚の入口で、重い足音が止まった。ガレスだった。鐘を聞いたのか、盾の縁が、ゆっくり下がっていく。膝をついたセイルを見て、それから自分の盾の縁を、しばらく見下ろしていた。
何か言おうとして、言葉が見つからない。先に口を開いたのは、リシアのほうだった。
「……下で、ユノさんが、手を振っています。見えませんか」
焦げた袖口を内側へ折りこむ指先がまだ震えていて、一度で折れずに、二度やり直していた。
言われて、岩棚の縁から、抜け道の入口のほうを見下ろした。
抜け道の入口に、小さな影が三つ、立っている。一つは、誰かに肩を借りていた。借りているのはラグで、貸しているのは、たぶんニアだ。一つが、こちらへ向かって、両腕を大きく振っている。声は届かない。ユノがあんな振り方をするのを、初めて見た。鐘が鳴り終わっても、その腕は、まだ止まらない。
振り返ると、壁の前にいたはずのエリオの姿が、いつのまにか消えていた。セイルは、まだ膝をついている。
俺は、左手を差し出した。
セイルは、それをしばらく見て、取らなかった。
やがて、刃を岩から離して、自分の膝に手をつく。一度、体が傾いた。二度目で、立ち上がる。外套の腰まわりの焦げを、手のひらで一度だけ払った。
立ってから、痺れの残った俺の左手を、取った。溶けた霜で、セイルの指は、まだ湿っていた。握る力は、向こうのほうが強い。こちらの指は、半分しか握り返せなかった。
手を離すと、セイルは足元の、帰り道に引いた細い霜の筋を一度だけ見た。それから、刃を持ち上げる。
セイルが、剣を鞘に納める。
「……二手目、来たな」
お読みいただき、ありがとうございます。
レンとセイル、半年越しの決着です。
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