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第97話 火種と氷華

第97話 火種と氷華


 刃が、もう鞘の外にあった。


 抜く音は、聞こえなかった。上がりきった腕の先で、日の光を半分だけ白く返している。靴の底に小石が一つ噛んでいて、踏みかえるたびに、ざり、と鳴った。岩棚の風は、下の窪みにいたときより、ずっと乾いている。


「前は、一手で終わった」


 低い声だった。


「今日は、二手目を見に来た。先に言っておく。私の氷は、凍らせない。止める力だ」


 手の内を、自分から置いてくる。この試合で、そういう相手を見るのは初めてだった。前に負けたとき、この男は、一手目は面白かったが二手目がない、と言って背を向けた。あのときの言い方と、今の言い方の温度が、ほとんど変わらない。


「……だろうと思った」


「隠して勝つと、次の相手にも隠さなければならない。面倒だ」


 セイルは刃の先を一度だけ下へ向けて、足の位置を半歩ずらした。


 遠くで、鐘が二度鳴った。観客席のどこかで、売り子が場違いに声を張り上げ、すぐ誰かに黙らされる。砂時計の底が近い、という合図だ。掲示はここから見えないが、一と一のままのはずだった。あと一つ取って、三度目の鐘まで守りきれば終わる。


 背中のほうで、エリオはまだ壁の前に立っている。こちらへ来る気配はない。外套の裾だけが、風に揺れていた。


 セイルの剣域――あの刃が届く範囲に、前に一度だけ踏み込んだことがある。入った途端に体も熱も鈍って、一手目のあとが続かなかった。あれは冷やしているのではなく止めているのだと、あの日から考えてきた。止める力なら、揺れを足しつづければ押し返せる、とも。


 右腕は、まだ肩から上へ上がらない。左の手のひらを、足元の岩へ当てた。糸はない。だが、岩はセイルの足元まで一続きだ。数歩ぶんなら、これで届く。それより先へ流そうとすると、手首から先の感覚が、決まって遠くなる。


 熱を流す。


 手元から三歩目までは、岩がぬるくなった。


 三歩目から先で、熱が消えた。


 押し返されたのとは違う。剣域の縁をまたいだところから、揺れが揺れとして始まらない。力比べにすら、なっていなかった。半年かけて積んだ理屈の、いちばん下の石が抜けた。剣域の中へ熱を入れる手は、これで一つ消えた。残っているのは、剣域の外で何かをすることだけで、その何かを、俺はまだ一つも持っていない。


 セイルが、滑った。


 霜の筋の上を、音もなく距離が消える。


「――っ」


 リシアの膜が、横から割り込んだ。受ける厚さは、もう残っていない。刃の角度を、爪の先ほど外へずらしただけだ。切っ先は、護り石の真ん中を外れて、縁をかすめて抜けた。


 腰に、冷たいものが走る。遅れて、胃の底が一段下がった。観客席のざわめきが、ひと呼吸ぶんだけ高くなって、また低くなる。隣でリシアが膝に手をついて、爪の先で岩を掻いた。


 護り石に、白い線が一本入っていた。ボルクの石に入っていた線より、深い。次に同じところへ来たら、たぶん保たない。


 セイルは、もう元の位置にいた。霜の筋は、行きも帰りも同じ太さだった。


「一手」


 数えるように、それだけ言う。


 左の膝が、遅れて小さく笑った。


 下のほうから、切れ切れの声が這い上がってきた。


「……スカー……えて……入口……!」


 ユノの声だ。風と観客席の音にちぎられて、半分も届かない。それでも、何を言っているのかは分かった。オスカーが、入口の三人に向けて数えはじめている。立てないラグと、それを支えるニアと、ユノしかいない場所へ。


 下りれば、間に合うか。


 通路を戻って、抜け道を抜けて、走っても十数秒では着かない。そのあいだ、この男に背中を向けることになる。着いたときには、三つ目が終わっている。


 理屈はそれで片づいた。片づいたのに、足の裏が、下へ行こうとしている。ラグの手の甲に残っていた赤い跡が、頭から離れない。誰か来たら叫ぶ、とユノは言った。叫んだら来てくれ、とは、一度も言っていない。三人のうち、誰が落ちるのか。考えないようにして、考えていた。


 動かなかった。奥歯が、勝手に鳴った。リシアが、俺の顔を見ないまま、半歩だけ前へ出る。


 霜の筋は、セイルの足元からこちらへ、まっすぐ伸びている。開幕のときも、ボルクを崩したときも、今も、あの筋は一度も曲がっていない。次に来る道は、それで決まる。曲げれば、戻る道も変わる。


「リシア。俺とあいつのあいだ、筋の真ん中に、線を一本引け。横に」


「壁は、張れませんよ。まさか、お忘れですか?」


「線でいい」


 息の上がった声で、それでも棘を一本刺してから、リシアの指が岩の上を横切った。膜を張るときのように手のひら全体は使わず、人差し指の腹だけで、ゆっくりと。指が通ったあとの岩肌に、割れた爪の跡が、赤く細く引かれていく。リシアは、それを見もしない。薄い光が一本、霜の筋を断つように床へ残る。膜というより、ただの境目だった。


 セイルが、二度目に滑る。


 筋が、線に触れたところで折れた。薄い氷を踏み抜いたときに似た音が、一度だけした。まっすぐ伸びるはずの霜が、行き場をなくして横へ逃げる。セイルの体もそれに引かれ、刃は俺の肩の外を抜けた。


 抜けていく横腹へ、左手を伸ばした。触れさえすれば、熱を入れられる。伸ばしきったときには、もう筋の向こう側だった。指先に届いたのは、刃が通ったあとの冷えた空気だけだ。


 セイルが、元の位置で足を止める。視線が一度、岩の上の赤い爪跡へ落ちて、また戻った。


「二手。……通る場所を、決めたのか」


 リシアは答えなかった。


 俺は、さっき熱を止められた場所を見ていた。


 三歩目の、剣域の縁のすぐ手前。そこまでは、岩がまだぬるい。もう一度岩に触れた手のひらに、手前と奥の温度の違いが、はっきり伝わってくる。


 それから、もう一つ。滑ってきたあの男が目の前を抜けていったとき、俺の体は、どこも鈍らなかった。鈍るのは、あの男が立ち止まっている場所の周りだけだ。流した熱は、縁の外側では消えていなかった。岩の中に残って、細かく揺れつづけている。


 下で、また声がちぎれた。さっきより高く、さっきより短い。


「……つ目……!」


 二つ目だ。


 セイルの刃先が、また下を向く。三度目が来る。


 霜の筋が、線で折れた先を、もう一度まっすぐに引き直していた。セイルの足元から、こちらへ。今度は、線を避けて少し左を通っている。リシアの線を、一度で覚えたらしい。


 筋の上に、剣域の縁がある。その手前の岩へ、左の手のひらを叩きつけた。


 今度は、広く撒かない。筋の真下、縁の外側の、手のひら一枚ぶんの岩にだけ、ありったけの熱を詰める。焦がす手前で、止めない。指先が、ざわざわと痺れはじめる。握る力が、半分ほど抜けていく。


 セイルが、滑った。


 同時に、岩が鳴った。割れる音は、観客席の端まで届いたらしく、ざわめきが一拍遅れて跳ねた。


 熱を詰めた一枚だけが、内側から膨らんで割れる。割れた縁が、霜の筋の上へ、指一本ぶん持ち上がった。


 セイルの靴が、そこに引っかかった。


 ほんのわずかな引っかかりだ。まっすぐ運ばれていた体が、一拍だけ前へつんのめる。砕けた岩の欠片が、音を立てて足元を跳ねていった。刃の軌道が、上へ逸れる。俺の頭の、ひとつ上だ。


 俺は、横へ転がりながら、左手を伸ばした。上がらない右肩が岩に打ちつけられて、目の奥が白くなる。それでも、左手だけは前へ出ていた。


 今度は、届いた。伸ばした指の先に、布でも風でもない手応えがある。


 滑っている途中の、セイルの手首だ。痺れた指を、革帯に引っかける。革の下にあったのは、氷ではなく、驚くほど普通の、人の体温だった。掴んだ場所から、熱を入れた。今度は、消えない。手首の内側へ、確かに移っていく手応えがあった。


「三つ――」


 下からの声が、そこで途切れた。


 セイルの目が、初めて、自分の手首を見た。立ち止まった場所に置いてきたはずの間合いが、そこから遠い。


 セイルの剣域が、一瞬だけ揺らぐ。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


ついに、レンとセイルが正面から向き合う回です。


次話(一手が届く)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。

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