第96話 通り抜ける
第96話 通り抜ける
再現できますか、と訊かれた。
答えは、たぶん、できない。あの糸はもう張られていない。張る者も、さっき消えた。熱を伝わせるものがなければ、俺の手は、この場から一歩も出ていかない。向こうは、それを承知の上で訊いている。
「……糸が、全部消えてます」
ユノが、抜け道の入口から言った。
「切れたんじゃありません。向こうから、片づけてます。残ってた分まで、全部」
そういうことだった。同じ手は、もう通らない。
腕が、肩から上がらなかった。
糸へ熱を通しているあいだ、同じ姿勢で止まっていたせいだ。ニアに見せたら、しばらく使うなと言われた。使うな、と言われて、はい、と答えられる局面ではない。
「行きます」
リシアが先に言った。訊かれる前に答えておく、という言い方をする。
奥へ入る人数は、考えるまでもなかった。ラグは、まだ立てない。ニアは、その横から離れられずにいる。ユノがこの入口を見ていなければ、さっきと同じことが、もう一度起きる。
「三人で、ここを保つ」
ユノが言った。声の高さが、開幕のころより一段低い。
「保ってる、とは言いません。ただ、誰か来たら、叫びます」
それで、足りた。
通路は、抜け道よりさらに狭かった。両側の壁が迫って、肩がこすれる。足元の砂利は湿っていて、誰かが踏んだ跡はない。天井のどこかから、水の落ちる音が、間を置いて続いていた。
三歩目で、道が細くなった。
リシアが、手を壁のあいだへ差し込む。膜が薄く広がった。押し合いはない。ただ、そこに壁があるのと、ないのとでは、通れる幅が違う。
「……四歩」
低く数える声が、壁に跳ねて返ってくる。
「五歩」
これまで、二歩か三歩で止まっていた数字だった。稽古でも、割れた土嚢を前にしても、そこから先へは届かなかった。
「六歩――まだ、いけます」
声に、驚きが混じっていた。自分自身への驚きだ。膜が、通路の形に沿って、どこまでも薄く伸びていく。腕まで震えが上がってきているのが、俺の位置からでも見えた。それでも、止まらない。
七歩目で、片膝が一度、崩れかけた。肩を支えようとして、やめた。支えれば、そこで数えるのをやめてしまう気がした。
「八歩」
声が掠れる。数字のほうは、止まらない。額から落ちた汗が、砂利の上に小さな染みを作る。両手がふさがっているから、拭ってやれる者はいない。
通路の先に、ようやく、光が見えた。
通路が、ふいに終わった。目の前に、岩棚が開けている。対岸のさらに奥、闘技場の外周の結界が、すぐそこに見える位置だった。振り返ると、リシアが膜を保ったまま、肩で息をしていた。
その向こう、岩棚の反対の縁に、人影が一つ、立っている。
背筋の伸びた立ち方だった。リシアの手が、そこで止まる。膜のほうではない、素の手だ。
「……エリオ」
驚きよりも、確認に近い声だった。
俺には、初めて見る顔だった。第一班の名簿に、この男はいない。いないはずの人間が、舞台の内側に立っている。
「選手じゃないだろう。ここにいるのは規則違反だ」
「手は出していません」
答えが、早かった。用意してあった答えだ。
「わたしは外周の結界の管理で、この場に入っています。立っているだけなら、どの条文にも触れません。押しのけていただいて構いませんよ。押しのけられるなら」
正面から破れないものを、条文の側から立ててくる。誰に習った手口なのかは、なんとなく想像がついた。あの評定長の周りには、こういう形のものが多い。
「返事は、もう出しました」
リシアが、先に言った。何の返事かは説明しない。エリオも、聞き返さなかった。
「書状一枚で済ませられる話ではありません。家の名を継ぐ側として、放っておくわけには」
「継ぐのは、あなたです。わたしではありません」
「叔父上は、あなたが戻ることを望んでおられます」
「望まれている、という話なら、わたしは十四年ぶん聞きました。望みの中身が、一度でも、わたし自身の話だったことはありません」
言い方は、いつもどおり平らだった。棘は、たぶん本人も気づいていない場所に混ざっている。
「家に戻れば、地位は戻ります。今からでも」
「戻る場所を、あなたは、たぶん間違えています」
エリオの表情は、動かなかった。動かないことが、答えのように見える。ただ、握った拳の中で、指が一度だけ、強く曲がった。誰かに見せるための動きではない。俺の位置からでなければ、気づかなかっただろう。
この男は、自分でここへ来たのではないと思う。来いと言われて、来た。言われたことを疑わずに済むなら、そのほうが楽だ。楽だからそうしているのか、疑う方法を教わらなかったのか、外から見ているぶんには同じに見える。
リシアは、そこを出てきた。同じ家の、同じ教え方の中から、一人だけ出てきた。出てくるのに何を使ったのかを、俺はまだ聞いたことがない。
「家では、そう教わらなかったはずです」
エリオの足元で、地面が白く光った。
《鉄壁》。名前のとおり、正面からの守りだった。岩棚がそのまま一段せり上がったような厚みで、二人のあいだに立ち上がる。透けて見えるほど薄いのに、輪郭がまったく揺れない。立ち上がるとき、境目に沿って砂が一直線に飛んだ。音は、ほとんどしなかった。
俺は、壁に手を当てた。
糸と同じなら、外と内がある。内があるなら、温められる。
通した。
何も起きなかった。
熱が、行き場を探して、そのまま手のひらへ戻ってくる。この壁には、温めるための内側がない。表と裏があるだけで、厚みの中には何も入っていなかった。
手を離す。上がらないはずの腕が、ここまでは動いた。動いたぶんだけ、外れた。
「――中身がない。ただの面だ」
リシアが、初めてこちらを見た。
「面なら、縁があります」
それだけ言って、もう手を伸ばしていた。表面に触れた膜が、押し返されるより先に、横へ滑る。触れた場所から白い筋が一本、壁の面を走っていった。力と力の押し合いには、ならなかった。
滑らせた先、壁の根元、岩の地面と接している縁へ、手を這わせる。
「……ここは、根が浅い」
呟くような声だった。
壁の根は、地面の奥へ深く張られている。だが、岩の表面と接する継ぎ目の一点だけは、張り終わるまでのあいだ、必ず薄くなる。足りない場所を手探りで見つける感覚は、今日、あの通路で体に入ったばかりのものだ。
膜を、その継ぎ目へ差し込む。
そこで、鉄壁が、軋んだ。
割れたわけではない。継ぎ目の一点にだけ、指の幅ほどの隙間が生まれている。
「……その動き方は」
エリオの声に、初めて、動揺に近いものが混じった。
「通路の続きです。ここも、同じでした」
リシアは、それだけ言って隙間を抜けた。振り返らない。
抜けるとき、肩が壁の縁にこすれた。膜を通すのに手を使い切っていて、体をかばう余裕がなかったらしい。そのこすれる音のほうが、さっきの軋みより、よほど大きく聞こえた。
エリオは、追わなかった。追う気がなかったのか、追えなかったのかは、こちらからは見分けがつかない。壁は、まだそこに立っている。押しのけられたのは壁ではなく、立てた本人のほうだった。
俺は、その後ろについた。すれ違うとき、エリオの口が、何か言いかけて閉じるのが見えた。リシアには、たぶん聞こえていない。
岩棚の先、いちばん高くなっているところに、人影が一つ立っていた。
霜の筋が、その足元から、まっすぐこちらへ伸びてきている。いつから伸びていたのかは、見当がつかなかった。
そこで、ようやく分かった。この奥に守りが置かれていなかったのは、置く必要がなかったからだ。置かなくても、ここへ来る者は、必ずあれの正面に出る。
遠回りを選んで、選んだ先で、いちばん正面に立ちたくない相手の、正面に出た。
掲示の数字は、ここからでは見えない。一と一のまま、まだ動いていないはずだ。あと一つ、足りない。足りない一つが、目の前に立っている。
今日、こちらはあれに一度、触れられている。ボルクの護り石に線を入れて、割らずに帰っていった。割らなかった理由を、本人は自分の落ち度だと言った。二度目に同じ手加減があるとは、思えない。
リシアが、膜を張り直した。指の震えは、通路のときより大きい。下ろす気配は、ない。
セイルの腕が、ゆっくりと上がる。剣は、まだ鞘の中にあった。
その背中の側で、エリオが、通り過ぎたリシアの背に、何も言えないまま、立ち尽くしていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
リシアが、自分の家と正面から向き合う回です。そして道の先には、あの人が待っていました。
次話(火種と氷華)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




