第95話 局面3・先回りする
第95話 局面3・先回りする
膜が破れる音は、思ったより小さかった。
紙を裂いたときの音に近い。外で、ガレスの盾が、抜け道の入口の光を一段だけ明るくした。三十数える程度なら保つと言ったリシアの見立ては、二十八で尽きたことになる。
ガレスは、入ってこなかった。
入れなかったのだと、しばらくして分かった。あの盾を担いだまま通れる幅ではない。入口の外で、盾の縁が一度こすれて、それきり動かなくなった。
「入らん」
外から、低い声が一つ聞こえた。誰かへの報告というより、自分に言い聞かせた声に近い。半年のあいだ、あの盾の向こう側に人間がいることを、俺は一度も数に入れていなかった。
代わりに、糸が来た。
「……来ました」
ユノの声が、暗がりの中で低く落ちる。
「粗いです。本当に、粗い。ほどけかけてる、みたいな」
張った本人が、自分でそう言っていた。読みづらいのは、形が定まっていないからだ。丁寧に張れないほど消耗しているのか、わざとなのか、そこまでは読み切れない。どちらでも同じだった。粗かろうが、通り道を塞がれれば、こちらは動けない。
リシアが、道を空けた。約束どおり、押さえなかった。膜を横へ滑らせて、糸の通る幅だけを、そのまま残す。
俺は、手を伸ばした。
触れた。
熱がない。冷たくもない。ただ、張っている。指の腹に、細い弦を押したときの反発だけがあった。
燃えるものが、どこにもない。焼き切れない。
焼き切れないと分かったところで、次のことが分かった。
焼かなくていい。
俺の火は、表面を通り抜けて、内側だけを温める。この糸に外と内があるなら、温められる内側が、そこにある。
通した。
糸が、たるんだ。
切れたわけではない。張りだけが抜けた。ぴんと伸びていたものが、ゆっくり垂れて、地面の砂利の上に落ちる。落ちた線が、そのまま、来た方角を指していた。
たるんだ糸は、張っている本人のところまで、繋がったままだ。
「ユノ。この先を見ろ」
「……います」
ユノの目が、暗がりの奥へ向く。
「瓦礫の、二つ目の陰。動いてません。座ってます」
「石は」
「……背中側です。右の、肩甲骨の下あたり。そこだけ、薄い。たぶん、あの人が、いつも壁を背にして座るから、そこにばかり寄りかかってるんだと思います」
ずっと隠れていた男の、隠れ方の癖だった。姿を見せずに戦い続けた半年ぶんが、そのまま、背中の一点に溜まっている。守るために選んだ場所が、いちばん薄くなる。そういうことも、あるらしい。
ラグが、座り込んだまま顔を上げた。
「届くのか。そこまで」
「糸が繋がってる」
それだけ言って、指の先を、垂れた糸の端に当てた。
温度は、上げない。上げれば途中で糸が焦げて、そこで切れる。切れたら、それで終わりだ。ぬるいまま、ゆっくり、遠くまで。かじかんだ手を温めるくらいの、あの加減。子どものころ、母さんに言われて木片を温めていたときと、同じだった。あのころは、何の役にも立たない芸だと思っていた。
長かった。
外では、ガレスの盾が、まだ一定の間隔で入口を叩いている。入れないと分かっていて、それでも叩いていた。こちらの気を散らすためだと気づいたのは、四度目か五度目の音のときだ。気づいてからは、その音が少しだけ遠くなった。
途中で何度か、糸のどこかが引っかかる感覚がした。継ぎ目なのか、砂利にこすれているのか。そのたびに温度を落として、また上げる。急げば焦げる。焦げれば断たれる。断たれれば、この一本は二度と使えない。
三度目の引っかかりで、焦った。
ほんの少しだけ、上げすぎた。指の先に、糸が縮む感触が来る。焦げる寸前の、あの縮み方だった。
止めた。
息を吐いて、はじめから温度を作り直す。縮んだところが元に戻るまで、数えるのをやめたくなるくらいの時間がかかった。急かす声は、どこからも飛んでこない。ラグの息づかいだけが、すぐ隣で続いていた。
抜け道の中は、誰も動かなかった。ニアは、ラグの背中に手を当てたまま止まっている。リシアの膜は、入口の幅で薄く保たれたままだ。ユノの目は、まだ瓦礫の二つ目から離れない。
息の音だけが、五人ぶん、重なっていた。
対岸の瓦礫の陰で、何かが動いた。
高い音がした。
二度目に聞く音だった。硝子を落としたときの、あの音。ついさっき、こちら側で鳴ったのと、同じ高さだ。
審判の声が、頭上から降ってくる。
「星冠第一班、クラウス・ヴェルト、脱落」
掲示の数字が動いた。星冠第一班、一。外棟、一。
瓦礫の陰から、男が一人、立ち上がった。この試合で初めて見る姿だった。思っていたより、ずっと小柄だ。腰のあたりで、光の粒が散って消えていく。こちらを一度だけ見て、何も言わずに舞台の外へ歩いていった。
粗い、ですが読みづらい――あの平らな声は、あの男のものだったらしい。
誰も、声を上げない。こちら側は、まだ誰も。
観客席のどこかで、一人が立ち上がった。何が起きたのかは、まだ誰にも説明できていない。説明できないまま、その隣が立った。後ろの段が立った。
声が来たのは、そのあとだ。
はじめはまばらで、すぐにまとまった。段の上のほうから、塊になって降ってくる。外棟の旗が立っているあたりが、いちばん大きい。何か呼んでいるが、言葉までは聞き取れない。俺の名前ではないと思う。外棟、とだけ呼んでいる。
半年前、同じ観客席の同じ段で、この班の誰かが通るたび、先に上がるのは笑い声のほうだった。
その音が、抜け道の中まで届くのには、少し間があった。届いてから、ユノが一度だけ、天井を見上げる。
俺にも、半分しか説明できない。糸の内側に何があったのかは、触ったのに、結局分からずじまいだった。ただ、温めたら緩んだ。緩んだ先が繋がっていた。それだけのことを、やっただけだ。
リシアが、こちらを見た。何か言おうとして、言わなかった。かわりに、膜を張ったままの手を、一度だけ握り直す。
ユノは、まだ瓦礫の陰を見ていた。もう誰もいないはずの場所を、しばらく見てから、ようやく目を離す。離した目が、少し赤い。ずっと一点だけを見つづけると、そうなるらしい。半年のあいだ、この班は、それを当たり前の光景として扱ってきた。
対岸の端で、セイルが、こちらを見ていた。位置は変わっていない。ただ、ずっと組まれていた腕が、いつのまにか下りている。それだけの違いだった。
ラグが、座ったまま、小さく息を吐いた。
「……そういう使い方があるのか」
「今、思いついた」
「思いつくのが、遅い」
言い方に、棘はなかった。そういう軽口を叩く男だとは、半年つきあって、今日まで知らずにいた。ニアが、ラグの背中から手を離す。離してから、少し迷って、また戻した。
リシアが、入口のほうを見たまま言った。
「ガレスが、下がりました」
「下がった」
「入れないと分かったからでしょう。あの人は、無駄な壁を叩き続ける型ではありません」
ならば、次に来るのは別の手だ。糸を張る者は、もういない。塞ぐ役が消えたということは、こちらの動ける道が、急に増えたということでもある。
掲示の数字を、もう一度見た。一と一。
同じ数のまま時間が尽きれば、引き分けだ。勝つつもりなら、もう一つ要る。向こうに残っているのは、セイル、オスカー、ガレス、ミレーユ、エレノア。正面から取れる相手は、この五人の中に一人もいない。
抜け道の奥から、乾いた風が吹いてくる。さっきより、強い。
この道の奥に、足跡はない。向こうが守りを置いていないのだとしたら、置く必要がないと判断したからだ。その判断が正しいかどうかは、行ってみるまで確かめようがなかった。
俺は、まだ砂利の上に垂れたままの糸を、もう一度だけ見た。緩んだ線は、もうどこへも繋がっていない。使い終わった紐が、ただそこに落ちているだけだった。
対岸で、ミレーユが、初めて腕組みを解いた。
声は、しばらく届かなかった。指示のための間ではない。何かを数え直しているような、別の止まり方だった。オスカーが槍を下げたまま、その横顔を一度見て、また前へ戻す。
「……今のは」
声が、届く。抑揚は、いつもと変わらない。ただ、言葉の出だしが、わずかに遅れていた。
「わたしの読み落としです。あの火は、燃やすものだと思っていました。だから、燃えるものだけを、あの人たちから遠ざけておけばいいと考えていた。そこが、間違いでした」
誰に向けた言葉でもなかった。自分の内側で、答えを探している声だった。
それから、ミレーユの目が、まっすぐこちらへ向く。
声には出さない、ただの一瞬の視線だった。
「――再現できますか?」
ここまで読んでくださってありがとうございます。
「表面を焼かない火」が、ようやく本来の使われ方をする回です。
次話(通り抜ける)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




