第94話 局面2・組み直す
第94話 局面2・組み直す
一歩出たところで、止まった。
オスカーの穂先で、光の線が二本目に入っている。数え終わるまで、あと二つ。そのあいだに、あそこまで走り着けるかを計算して、走り着けないという答えが出た。
距離が違う。セイルが十数秒ぶんの道のりを消してみせたのは、あれが滑って運ばれているからだ。俺は、自分の足で渡らなければならない。
「窪みを出る」
振り返らずに、言った。ユノの声が、後ろから追いかけてくる。
「出たら、遮るものが、なくなります」
「残っても同じだ。ここは、もう狙いが定まってる」
一発目はボルクへ、二発目もボルクへ。同じ角度から、同じ高さで来た。三発目だけが、別の場所へ来る理由はない。あの男は、自分の当てた場所をもう一度当てる型で組んでいる。
「ユノ。裏の隙間を見ろ」
「オスカーを、見てました」
「もういい。切り替えろ」
ユノの目が、対岸から窪みの奥へ移る。移した先で、息が止まった。
「……もう、来てます。線が。いつからあったのかは、分かりません」
いつから、はどうでもいい。ユノが対岸を見ているあいだに来た。それだけの話で、対岸を見ろと言ったのは俺だ。一度に一つしか見られない目を、こちらの都合でよそへ向けさせて、その隙に入られた。安い取り引きをしたつもりはなかったが、結果だけ見れば安かった。
ラグが、壁際から出てきた。
「切れるか」
「やる」
二文字だけの、返事だった。ラグは、それ以上を説明しない。腕を解いて、指を隙間のほうへ向ける。ニアが、その背中にそっと手を添えた。断られると思っていたらしく、断られなかったことに、少し戸惑った顔をしていた。
隙間の奥は、暗い。糸は見えない。ユノの声だけが、そこに何かがあると告げている。ラグが狙っているのは、目に映らないものの、固まりきる前の一拍だ。
一秒。
二秒。
三秒目に、ラグの喉から、短く息が漏れた。
右目の下を、一筋、赤いものが伝う。拭う手は、動かない。今は、指を握り込む力のほうが強かった。
「……消えました」
ユノが、すぐにそれを拾った。
「あの糸、今、完全に。もう、そこにありません」
リシアの膜が、隙間へ迷いなく差し込まれる。押し合いは、なかった。糸のあった場所には、何も残っていない。膜の先が、抜け道の奥まで、まっすぐ通った。
「……通りました」
その声が、途中で切れた。
三つ目が、数え終わっていた。
白い筋が、窪みの入口へ、まっすぐ来る。誰も立っていない場所に、それは落ちた。
積まれた石が内側から押し出されて、崩れる。土煙が上がって、しばらく何も見えなくなった。耳の奥で、細かい石の当たる音が、いつまでも続いている。
煙が薄くなったとき、窪みは、もう窪みではなかった。
壁が一枚抜けるだけだと思っていた。石を積んだ山なのだから、抜けた場所の先は残ると計算していた。甘かった。抜けた一枚が全体を支えていたらしく、崩れは、山の半分まで回っている。
崩れた石と、その向こうに口を開けた抜け道だけが残った。半年前、初めて合同任務に出た日から、この班は、いつも何かの陰に入ってから話をしてきた。今は、どこにも入っていない。
観客席の声が、一段、大きくなった。何を言っているのかまでは、聞き取れない。聞き取れないほうが、たぶん、ありがたい。
対岸で、ガレスの盾が動きだした。遮るものがなくなった以上、あの男が前へ出ない理由はない。足取りが、今までより速い。盾の縁が、日を受けて、規則正しく光を返している。
「抜け道へ。順に入れ」
狭い。五人が一度に潜り込める場所ではなかった。
リシアが、入口の前に膜を一枚張る。
「三十数える程度なら、保ちます。それ以上は、期待なさらないでください」
ニアが、先に入った。ラグの肩を押して、自分の後ろへ回す。ユノが続いた。俺は最後まで残って、ガレスの足取りを数えた。二十数えたところで、盾の先が膜に当たる音がした。
膜が、内側へたわむ。リシアの背が、わずかに沈んだ。
「レン」
名前だけを、呼ばれた。それで足りた。
俺が潜り込んだあと、リシアが膜を張ったまま、後ろ向きに滑り込んでくる。張った本人が離れても、膜はしばらくそこに残る。残っているあいだだけ、こちらに時間があった。
抜け道の中は、思っていたより狭い。膝を抱えて座れば、五人がどうにか収まる。六人なら、収まらなかった。そう考えて、考えたことを、すぐに打ち消した。誰かが腕を動かせば、必ず誰かのどこかに当たる。土と埃の匂いに、ニアが持ち込んだ薬草の匂いが混ざっている。ラグの息が、まだ整っていない。隣にいると、それがよく分かった。
外で、ガレスの盾が膜を二度、三度と叩いている。そのたびに、頭の上から、細かい土が落ちてきた。
ラグが、手の甲で鼻の下をこすった。それから、赤くなった甲を、上着の裾で拭く。
「もう一回なら、いける」
「いきません」
ニアだった。声が、思ったより大きかった。ラグが、初めて面食らった顔をする。
「さっき、わたしは何もできませんでした。石のことは、わたしの目に映らないので。でも、体のことなら映ります。今のあなたが次にもう一回やったら、糸より先に、こっちが切れる。だから止めます。間に合わなくなってからでは、わたしには何もできないので」
ラグは、言い返そうとして口を開き、そのまま閉じた。それから腕を組んで、いつものように壁へ寄りかかろうとした。寄りかかる壁は、もうない。半歩よろけて、地面に座り込む。
「……次からは、壁のあるところで言ってくれ」
誰に向けた文句でも、なかった。ユノが小さく笑って、すぐにやめた。笑っていい場面かどうか、判断がつかなかったらしい。
手札が、一枚減った。向こうに削られたのではなく、こちらで下ろした。
それでも、勘定には、入れ直しておくことにした。
ラグが使えない以上、次に糸が来たら、切る者がいない。リシアの膜では、張られた糸をどかせない。ユノは在り処を教えられる。それだけだ。ニアは、切れたあとを繕う役でしかない。
残っているのは、俺の火だった。
俺の火は、ものを燃やさない。表面を焼かずに、内側だけを温める。糸を焼き切ることは、たぶんできない。焼き切るなら、まず表面を焦がす必要があるからだ。
だが、あの糸が何でできているのかを、俺はまだ一度も確かめていない。半年のあいだに三度も張られて、三度とも、避けるか、乱すか、迂回するかで済ませてきた。触りにいったことが、一度もない。
鑑定盤の前に立った日から、俺の火は「そういうもの」として扱われてきた。表面を焼かない火。使い道のない火。自分でも、そう呼んで済ませていた節がある。内側だけを温める火が、内側しかないものに何をするのか。考えたことが、一度もなかった。
触れば、分かる。焼けるのか、焼けないのかも含めて、そこで分かる。
「リシア。次に糸が来たら、膜で押さえずに、道を空けてくれ」
「空けて、どうなさるんですか」
「触る」
リシアが、こちらをしばらく見ていた。止めるか、訊き返すかのどちらかだと思ったが、どちらでもなかった。
「分かりました。空けます」
それだけだった。理由を訊かれなかったぶん、こちらの腹が決まった。
抜け道の向こうから、風が一筋、吹き込んでくる。奥から、土の匂いとは違う、乾いた石の匂いがした。その匂いの出どころまでは、ここからでは暗くて見通せない。
掲示の数字は、まだ、一と零のまま動いていない。
対岸で、ミレーユが腕を組み直した。声が届くまでに、いつもより長い間があった。
「クラウス。もう一本だけ、通せ」
返事は、少し遅れて返ってきた。ミレーユのものではない、初めて聞く声だった。
苛立ちも、余裕も感じられない。ただ事実を報告するような、平らな響きだった。
「もう一度だけなら、張れます。今度は、粗い。ですが、読みづらい」
ここまで読んでくださってありがとうございます。
拠点を失った外棟班が、それでも次の一手を組み直す回です。
次話(局面3・先回りする)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




