第93話 局面1・割れる
第93話 局面1・割れる
光が、ひとつになった。
三つ数え終えた瞬間、溜めていたぶんが一気に解ける。オスカーの槍先から、白い筋がまっすぐ伸びてきた。音は、遅れて追いついた。空気そのものが押し出されて、頬を叩く。砂粒が舞い上がった。正面から突き通すためだけに研ぎ澄まされた一撃だと、見ているだけで分かる。
ボルクの腰で、護り石が光を跳ね返した。表面に走る細い線が、そこだけ黒く見えた。セイルの一撃で入った線だ。割る一歩手前で、あの男が止めた跡。
「……今、だ」
窪みの奥で、ラグが呟いた。俺の耳に、辛うじて届く程度の声だった。
白い筋の先が、届く寸前でわずかに失速する。オスカーの槍が何かに引っかかったように、光の太さを一瞬だけ落とした。
リシアが、動いた。膨らみかけていた膜を、真横へ押し出す。正面から迎え撃つのではなく、筋の角度を外へ逃がす形だった。
「――そこまでっ」
膜の縁が光に触れて、白く発光する。逃げ切れなかった残りが、ボルクの正面へ、まっすぐ来た。
ボルクの両腕は、もう組まれている。剛体化の構え。何度も見てきた、受けの形だ。
音は、鈍くなかった。
高い。
硝子を落としたときの、あの音だ。それが、土を深く削る重い音と重なって、一拍遅れて耳に届く。
ボルクの腰で、護り石が砕けていた。
破片が、光の粒になって散っていく。地面に落ちる前に、消えた。
ボルクは、倒れなかった。衝撃は全部、石が持っていったらしい。膝も、折れていない。ただ、腕を組んだままの姿勢で、動かなくなった。
対岸で、オスカーが穂先を下げた。それから、自分の手のひらを一度だけ見る。
「……三つじゃ、足りなかったか」
低い声が、風に乗って届いた。当てた男の口から出たとは思えない言い方だった。割れたのは向こうの計算より一発遅かった、ということらしい。
頭上から、審判の声が降ってくる。
「外棟班、ボルク・ドゥガル、脱落」
観客席の一角で、短い歓声が上がった。すぐに、引っ込んだ。
舞台の脇、撃破数の掲示が動く。星冠第一班、一。外棟、零。
見たくなかったが、目が勝手にそちらへ動いた。あの数字は、試合が終わるまで消えない。
ニアが駆け寄って、途中で足を止める。脱落した選手には触れられない。下見の日に、聞いた規則だった。聞いたときは、なんでもない話だと思っていた。
「……内側を、見てたんです」
誰にともなく、ニアが言った。
「ずっと、体のほうばかり見てました。傷の場所も、血の巡りも、あとどれくらい保つかも、全部わたしの目に映ります。でも、石のほうは映らないんです。何年やっても、そこだけは、一度も」
手のひらが、行き場をなくして宙で止まっている。
対岸の少し後ろで、エレノアの手が持ち上がった。届くはずのない距離だった。その手は、途中で止まり、また下がる。何も言わなかった。
ボルクが、組んだ腕をようやく解いた。
何か言おうとして、口が動く。言葉は、出なかった。二度動いて、二度とも止まった。謝ろうとしたのだと思う。だとしたら、言わせずに済んだのは、こちらにとっては幸運だった。
それから、俺の肩を一度だけ叩いて、闘技場の外へ歩いていく。振り返らなかった。叩かれた場所が、しばらく熱かった。
その熱が引くまで、俺はそこに立っていた。
やっと目を上げると、観客席の高い段で、誰かが立ち上がっていた。今日は舞台に上がらない側の、四人だ。フィンが、何か叫んでいる。距離があって、声は届かない。メイが、その袖を引いて座らせた。ノエルは、口を引き結んだまま動かない。カイルだけが、立ちもせず、ずっと舞台の同じ一点を見ていた。
記録係の席では、リオネルの手が止まっていた。脱落の一行を書き留めるために、あの帳面は、試合が始まってからずっと開かれていたはずだった。それでも、ペン先は紙の上で止まったままで、隣の席のサラが、代わりに何か短く書き込んでいるのが、遠目に見えた。
セイルの足が、動いた。
霜の筋が一本、こちらへ伸びる。来る、と思って身構えた。剣は、抜かれていない。
窪みの入口の、届かない手前で止まった。
「一度目で割るべきだった」
声を、初めて聞いた。思っていたより、低い。
「手加減じゃない。測り違えただけだ。あの男の壁は、私が見ていたより、二度ぶん厚かった。見誤ったのは、私だ」
それだけ言って、戻っていく。
褒められたのだと、少し遅れて気づいた。それが、いちばん腹が立った。
こちらの手の内は、試合の前から向こうに渡っていた。渡った紙には、ボルクの受けがどれだけ厚いかまでは、書いていなかったらしい。
対岸では、ミレーユが何も言わなかった。指示を出す必要が、なかったからだ。オスカーがもう一度数えはじめれば、それだけでこちらは動けなくなる。声を使わずに人を縛れるなら、その人は、もう声を使わない。
ラグが、壁際から言った。
「あの旗、誰が縫ったんだ」
ユノが、対岸を見たまま「知りません」と答える。ニアは聞いていなかった。ラグも、それ以上は続けない。観客席の外棟の旗は、縁の糸がほつれたまま、風に振られていた。
腹が立ったおかげで、頭のどこかが冷えた。
セイルが残していった霜の筋を、もう一度見る。行きと帰り、同じ太さだ。開幕のときに気づいて、癖だろうと片づけていた。
違う。
あれだけ滑って、戻って、また滑って、筋が一度も細くならない。俺の火なら、二往復めで痩せる。熱を使えば、使ったぶんだけ減るからだ。
減らない。
「セイルは、自分の熱で動いてない」
声に出していた。リシアが、こちらを向く。
「あの氷は、何かを燃やして作るものじゃない。だから減らない。逆だ。止めることで、あの筋ができてる」
「止める、とは」
「そこまでは、まだ言えない」
言ってから、半分は勘だと気づいた。それでも、口に出したぶんだけ輪郭がはっきりする。当たっていれば、こちらに一枚ある。外れていても、外れたと分かる。分からないまま抱えているよりは、ずっといい。
だが、今はセイルではない。
オスカーだ。次の一発が来たら、もう、受ける者がいない。
窪みの奥へ、短く声を投げた。
「ユノ。対岸を見ろ」
「守りの手は、もうありません」
「守りじゃない。いちばん薄いやつを探せ」
「……薄い」
「誰でもいい。石が、いちばん割れそうなやつだ」
ユノの目が、細くなる。感知は、狭く、深く。一度に一つだけしか見られない。そのあいだ、他のどこから何が来ても、この班は気づけなくなる。
時間がかかった。急かす者は、いなかった。ニアが、宙で止めていた手を、ようやく自分の膝の上へ下ろす。
「……オスカーです」
ユノの声が、低く落ちた。
「撃つ前。槍に力を寄せてるあいだだけ、あの人の石の守りが、薄くなります。全身のぶんを穂先に集めてるからだと思います。三つ数えるあいだ、だけです」
三つ数えるあいだ。
こちらが息を詰めて、来る、来る、と身構えて待たされていた、あの時間だ。
あれを、相手のいちばん強い時間だと思っていた。開幕からずっと、そう思って数えていた。
「……逆だったのか」
リシアが、膜を張る手を下ろさないまま、対岸を見た。
「届きますか。あそこまで」
「届く距離じゃない。だから、近づく」
近づけば、こちらも撃たれる。受け手は、もういない。リシアの膜は、逸らすことはできても、止めることはできない。リシアも、ユノも、そこは言わなかった。言わなくても、同じ計算はもう終わっている。ボルクが抜けた穴は、頭数が一つ減ったという話ではなかった。ボルクがいたころ、逃げ道の心配をした覚えが、一度もない。前へ出て、駄目なら下がって、下がった先であの背中が受け止める。そういうものだと思っていたから、この半年、誰ひとり「下がったあとどうするか」を考えずに済んでいた。
近づく道は、正面だけではない。窪みの奥、崩れた壁の裏側に、下見のときから誰も使っていない隙間が一つある。大人が二人、肩を並べてやっと座れる程度の穴で、抜けた先がどこへ繋がっているのかは、渡された地図にも載っていなかった。正面から出れば、ガレスの盾とクラウスの糸に挟まれて、三歩と進めない。あの隙間を通れば、少なくとも片方は避けられる。
問題は、向こうもそこを知っていることだった。
ラグが、腕を組んだ姿勢のまま、壁際から半歩出てきた。何も言わない。出てきたことが返事だった。
掲示の数字は、まだ一と零のままだ。
時間切れまで粘っても、決まるのは撃破の数だ。守って残っているだけでは、この試合は勝てない。ルールを説明されたときは、当たり前の話に聞こえた。今、当たり前ではなくなっている。
オスカーが、槍を持ち直した。穂先に、また細い線が寄りはじめる。
一つ目。
俺は、ボルクが立っていた場所へ、一歩、出た。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
試合が、初めて大きく動く回です。
次話(局面2・組み直す)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




