第92話 初手完封
第92話 初手完封
二つ目。
声には出さなかったが、頭の中で数えていた。オスカーの槍先で、光の束が、ひとまわり太くなっている。光の届く範囲だけ、空気が細かく揺れて見える。焦げた砂の匂いが、まだ入口のあたりに残っていた。オスカーの足が、半歩だけ開き直る。集中を乱さないための、いつもの構えだった。
窪みの入口で、ボルクが腰を落としたまま、動かない。リシアは、その斜め後ろで、指先を小さく曲げ伸ばしていた。膜を、いつでも張れる形に保っている。俺は、二人からさらに一歩下がった位置で、護り石の帯を、もう一度だけ確かめた。帯の縛りが、まだ少し緩い。この一本に、何度も助けられてきた。頼りすぎている気がして、結び目を、もう一度だけきつく締め直す。
「本当に、それでも大丈夫なのか」
俺が訊くと、ボルクは、対岸のほうを見たまま、こちらを見ずに答えた。
「立ってる」
ごく短く、それだけの返事しか、戻ってこなかった。それ以上は、続かなかった。ニアが、窪みの奥から、そっと様子をうかがっている。
対岸の並びの、いちばん奥。ミレーユは、六人の輪からわずかに引いた場所に立っている。声だけが、迷いなく、こちらまで届く。抑揚のない声のわりに、組んだ腕の指先は、いつもより白く、自分の肘のあたりに食い込んでいた。声を張らずに六人を動かし続けることが、どれだけの張りを要るのか、俺たちには測りようがない。あの声の正体を、まだ誰も、正面から見ていなかった。
「ユノ」
俺は、窪みの奥へ、小さく声を投げた。
「ガレスの盾、見てくれ。あの位置で止まってるなら、いちばん読みやすいはずだ」
「……はい」
ユノの目が、細くなる。感知は、動く相手には向かない。だが、止まった相手の"傷み"なら、いちばん得意な仕事だった。予選の日と、同じ理屈だ。誰かの護り石の弱いところを見つけて、そこへ一撃を通す。あの日は、それで足りた。
「……変です」
数えるほどの間もなく、ユノの声が揺れた。
「盾の傷み、さっきと位置が違います。同じ場所を、わざと空けたり埋めたりしてます」
「それは、本当に、わざとか?」
「傾ぎが、一定じゃないんです。……壊れやすい場所を、自分で動かしてる」
ガレスの盾が、次の瞬間、わずかに角度を変えた。ユノが読み終える前に、また別の場所へ。
「クラウス、右は動くな。……ガレス、そのまま揺らせ」
対岸から、ミレーユの声が届く。抑揚はいつもと同じだが、こちらの動きを見てから出した指示には聞こえなかった。ユノが動くより先に、決めていた指示に聞こえた。ユノの読みが遅いわけではない。対岸の対応は、いつも半歩遅れて来るはずのものだった。今日だけ、逆になっている。
俺は、熱でも探ってみた。ユノの仕事を、俺がやろうとしている。分かっていて、それでもやった。ガレスの盾を支える腕、クラウスの隠れた足の踏み方。摩擦や発火で動く相手なら、そこに読める筋道がある。だが、二人とも、そういう発熱の仕方をしていない。読みは、また空振った。
空振ったあとに残ったのは、悔しさよりも、もっと単純なものだった。
あの盾を、いっぺん直接つついてみたい。
まともな考えではない。届かないのは分かっている。それでも、頭の隅で、その一点だけが妙にはっきりしていた。ここまで何もできずに座っていると、人は、そういうことを考えるらしい。
崩れない、ということ自体が、いつもと変わらなかった。
セイルだけが、輪の中でわずかに違う。腕を下ろしたまま、こちらを見ている。何かを待っているような、静かな目だった。
クラウスの隠れている瓦礫の山、その隙間から、砂粒がひとつ、さらさらと零れ落ちた。誰かが、そこにいる証だった。
「あと、もう一つだけ、試す」
俺は、ラグへ目を向けた。
「二人の受け持ちの境目に、ズレが出る間があるはずだ。予選で見たあの型と、同じなら」
ラグは、腕を組んだ姿勢のまま、わずかに頷いた。昔から拾っていた小さな違和感を、今は少しだけ乱せると言えるところまで来ている。壁際から半歩出て、目を細めた。
ガレスとクラウスの受け持ちの境目。連携が一周する、その繋ぎ目を待つ。それだけで、以前は足りた。
「……あった」
ラグの声が、一瞬だけ跳ねた。指先が、空の一点を、確かに掴んだように見えた。だが、その手が動くよりも先に、繋ぎ目は閉じていた。半歩ぶんも、開かなかった。
「……悪い」
それだけ言って、目を伏せる。壁際へ体を戻しながら、右手の拳を、左手で強く握りつぶすように包んだ。まだ言葉にできなかった頃から、悔しいときに出る癖だった。誰にも見せないようにしている手つきだと、俺には分かった。前にも、似た手つきを見たことがある気がした。ボルクが、それを横目で見て、何も言わずに前へ向き直った。
ガレスの壁は、止まったまま形を変え続けている。クラウスの気配は、右にあるはずなのに、左寄りの瓦礫からも一度だけ動いた気がした。同じ場所に、同じ隙を作らない。連携は、崩れていない。
「……揃えないでいい、って教えたの、誰なんですかね」
リシアが、俺のそばで、そう呟いた。声に、皮肉はあっても、驚きはなかった。
俺には、返す言葉がない。掲示板の脇に立っていた、書類挟みを抱えた男の姿が、頭の隅から離れなかった。あの日、通り過ぎるとき、書類挟みの角が、魔導灯の明かりを一度だけ弾いた。あの白い光には、見覚えがある。ただの反射だと思って、見過ごしていた。
自分たちの、いちばん得意な形。あの一戦で、それが決まりすぎたことに、どこかで気を良くしていた。同じ手が、二度目も通ると信じ込んでいた自分がいた。誇らしいと思った瞬間の何割かを、もう向こうに手渡していたのだと、今になって分かる。
「読まれてるなら、逆に、動かないほうがいいんじゃないですか」
ユノが、小さく言った。
「動かなければ、向こうも動けない。時間切れなら、まだ負けは決まってないです」
「時間切れは、撃破の数で決まる。守るだけじゃ、勝てない」
「……分かってます。ただ、言ってみただけです」
ユノは、そう言って、自分の腕を、両手で軽く抱えた。
「別に、こっちの手数が減ったわけじゃない」
ボルクが、組んだ両腕に、もう一度力を込めながら言った。励ますつもりの声には聞こえない。ただの事実を、口にしたふうだった。
窪みの奥で、ニアが、ボルクの背中へ小さく手をかざしている。込める量を、いつもより絞っているのが分かった。まだ長く保たせる先がある。ここで使い切れば、あとが持たない。ニアの額に、小さく汗がにじんでいた。
「まだ、そこ、少し痛むか」
「……いや」
ごく短い返事だった。声の調子までは、確かめようがなかった。
ボルクは、それを断らずに、そのまま受けていた。「まだ、大丈夫だ」とだけ言って、また前を向く。ニアの手が、少しだけ長く、そこに残った。指先が、名残を惜しむように、最後にもう一度だけ触れて、離れた。
観客席のほう、記録係の席で、リオネルの帳面のページが、風もないのに一枚だけめくれた。サラが、それを手で押さえる。何も書けないまま、ページだけが、また元に戻る。
どこかの段で、誰かが飲みものの缶を蹴って落とす音がした。転がって、止まって、それきりだった。
誰も笑っていない。さっきまで笑っていた誰かの声も、もう聞こえなかった。
三つ目。
オスカーの槍先が、ひときわ大きく、光を溜めた。
「どうします」
リシアが、小さく訊いた。それ以上は、急かさない。答えを待つ、静かな目だった。
「……手の内が、読まれている。組み直す」
言いながら、頭の隅では、別のことを考えていた。
掲示板の脇に立っていた、書類挟みを抱えた男。あの綴じ方に、見覚えがある。外棟が学院へ出す書類の、あの留め方と同じだった。
読まれているんじゃない。渡されている。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
外棟班の得意技が、ことごとく読まれてしまう回です。その理由に、レンが最後に気づきます。
次話(局面1・割れる)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




