第91話 星冠戦、開幕
第91話 星冠戦、開幕
闘技場の中へと、足を踏み入れた瞬間、光の量が、大きく変わった。足の裏に伝わる砂の粒が、稽古場のものより、ひとつ大きい気がした。
「震えてるぞ」
隣で、ボルクが言った。誰に向けた言葉かは、はっきりしなかった。自分にも、俺にも、両方に言ったように聞こえた。
「震えてない」
「……本当に、そうか」
言い終えると、ボルクは、また前を向いた。
その視線は、対岸に向けたままだった。星冠第一班の六つの影は、まだ動いていない。
護り石の帯を締め直す俺の手は、たしかに一度、震えていた。ボルクは、それ以上は突かなかった。前を向いたまま、息を吐いている。
円形の観客席が、頭上の空をぐるりと囲んでいる。端から端までなら、走って十数秒。下見のとき、イザークがそう言っていた。今、こうして自分の足で立ってみると、その数字の意味が、少し違って感じられる。床は平らではない。崩れた低い壁と、瓦礫の山が、あちこちに点在している。観客席の一角に、色違いの旗が二枚。外棟のぶんは、縁の糸が少しほつれていた。誰が縫ったのかは、聞いていない。
外棟の開始位置は、北の端。そこから三歩のところに、下見で目星をつけておいた瓦礫の山がある。崩れた石壁の名残で、入口は人ひとりぶんしかないが、抜けた先は、思ったより広い岩の窪みだった。積まれた石の隙間から、小さな草が一本、力なく伸びている。下見の日には、なかったはずだ。誰かが手入れをするわけでもないだろうに、勝手に根を張っていた。
窪みの奥、崩れた壁の裏側には、別方向へ抜けられそうな隙間がもう一つある。人が二人並んで座れるくらいの広さだ。まだ、誰も足を向けていない。積まれた石の一つに、古い焦げ跡が残っていた。前の対戦で誰かが放った何かの跡らしい。
対岸、南側の開始位置に、星冠第一班が並んでいる。動く気配はない。六つの人影の並び方だけは、乱れなく見えた。控え室の扉越しに見た、あの整列と同じだ。観客席の上のほうにも、五つ星の班章がいくつか並んでいる。
闘技場の外周を囲む結界が、うっすらと光を帯びていた。逃げ場のない広さを、その淡い光が、やんわりと縁取っている。
鐘が、長く一度、鳴り響いた。動きだしたのは、その一拍後だった。ボルクが先頭で入口を抜ける。リシアが、その斜め後ろにつく。俺は、二人からさらに一歩下がった位置についた。護り石の帯を、もう一度締め直す。ユノとニア、ラグは、窪みの奥で息を潜めた。外棟班、この六人だけだ。
対岸から、短い動きが立て続けに起きた。
「配置、確認。全員、位置についたか。……クラウス、右から詰めて」
ミレーユの声が、抑揚もなく、それでも風に乗って、はっきりと届く。クラウスの姿が、瓦礫の陰へ消えた。姿は見えない。線だけが、先に伸びてくる。
「……右の通り道、もう塞がれてます」
ユノが小さく声を上げる。想定より、ずっと早い。「早すぎる」と、誰かが小さく呟いた。
窪みの奥で、ラグが、右手の隙間のほうへ目だけを向けた。名簿のいちばん下に、入学以来ずっと居座っている男だ。腕を組んだ姿勢は、変えなかった。それきり、また前へ戻す。
「左は、ガレスで塞ぐ」
盾を構えたガレスが、道を消していく動きで前へ出る。クラウスとガレス、二方から、確実に詰められていた。もう一人、姿の見えない六人目がどこにいるのかは、まだ分からない。
観客席の前列で、誰かが「もう終わったな」と笑う声がした。連れらしい相手が、それに小さく相槌を打つ。誰も、言い返さなかった。
セイルは、動かなかった。元の位置に立ったまま、こちらを見ている。
ガレスの壁が、半分ほど間合いを詰めたところで、ぴたりと止まった。中央だけを空けて、そこから先は動かない。道を、一本だけ作るように。盾の縁に反射した光が、一度、こちらの目を打った。
セイルの足が、初めて動いた。
地面が、白く光った。踏んだ場所から、細い霜の筋が一本、まっすぐこちらへ伸びてくる。セイルの体が、その上を運ばれていた。頬をかすめる風が、強くなる。音は、ほとんどしない。石を噛む霜の音が、かすかに一度、鳴っただけだった。
対岸から、ここまでの距離。走れば、優に十数秒はかかるはずだった。頭の中で、ひとつも数えないうちに、その距離が消えていた。セイルは、迷わず、入口の正面へ滑り込んでくる。
「ボルク」
名前を呼ぶ間さえ、なかった。ボルクは、もう腰を落としている。両腕を、胸の前で組んだ。剛体化の構えだ。何度も見てきた、受けの形。
リシアが、膜を張ろうとして、間に合わなかった。指先が、宙で止まる。
俺は、熱を読もうとした。踏み込みの向き、力の乗る先――いつもなら、そこに何かが見える。何かを燃やし、何かをこすり合わせて動く相手なら、読める。セイルの動きには、その足がかりすらなかった。
剣が、狭い入口を抜けて、そのまま、まっすぐ届く。俺のいる位置からは、半歩ぶん、逸れていた。
ボルクの両腕が、受けの形のまま、ほんの一瞬、遅れた。腕そのものは硬い。動きだけが、コンマ一つぶん、置いていかれていた。
鈍い音がした。ボルクの体が、俺のいる側へは来ず、大きく、後ろへ持っていかれる。踏みしめた足の下で、土が削れて溝になった。両膝が、わずかに折れかけて、それでも、最後のところで持ちこたえる。背後の壁に、肩が軽く当たって止まった。護り石を留める帯が、衝撃でずれて、腰のあたりに食い込んでいるのが見えた。息が、一拍、詰まっている。護り石は、割れていない。
「……まだ、立ってる」
ボルクが、静かに、そう言った。ニアが、瓦礫の陰から、そっと身を乗り出して、ボルクの様子を確かめる。すぐに、また下がった。
セイルは、何も言わずに、元の位置へ戻っていく。振り返りもしなかった。もう一本、細い筋が地面に増えていた。日を受けて、溶けきっていない。往復の二本は、行きも帰りも、同じ太さだった。誰も気づいていないのなら、それは、俺だけが持っている一枚だ。忘れないうちに、目に焼きつけておく。
誰も、拍手はしなかった。ユノが、小さく、長く、息を吐く音がした。護り石は、そのままだった。セイルが、割る一歩手前で止めた。
さっき笑っていた誰かは、もう何も言わなくなっていた。
「……これは」
言いかけて、やめた。あの一撃を、どうすれば止められたのか。今の俺には、答えが出ない。
俺のそばで、リシアが、下ろしかけた両手を、完全には下ろしきっていない。指先で、薄い膜を、何度も張り直そうとしているみたいだった。間に合わなかった半拍が、まだ縮まらない。
ミレーユの声が、また届く。
「オスカー」
少し離れた列の中ほどで、オスカーが槍を構えた。穂先に、青白い光が寄っていく。細い線が幾重にも重なって、だんだん太くなる。以前、演習場で見たのと、同じ巻き方だった。ただ、あの時よりも巻きが太い気がした。穂先の向きが、まっすぐ、こちらの入口を指していた。
周りの音が、一段、ふっと遠くなる。観客席のざわめきも、風の音も、確かに耳には届いているはずなのに、意識のどこかで、少しずつ削られていった。穂先の光だけが、視界のなかで、やけに大きく見えた。
あの一発が、あそこに、来る。以前、演習場で見た、分厚い石壁を二枚、まっすぐ抜いた、あの威力だ。それが、目の前の、この窪みの壁に来たら、どうなるか。想像したくなかったが、勝手に頭に浮かんでくる。窪みの奥で、ラグが、無言のまま、壁際に体を寄せた。喉の奥が、いつのまにか、乾いていた。
舞台のすぐ外、記録係の専用席で、リオネルが帳面を構えているのが見えた。ペン先が、紙の上で止まっている。表紙の端を、指先が、無言でなぞっている。隣の席で、サラが両手を固く握り合わせていた。
巻き終わるまで、三つ数えるくらいはかかる。まだ、一つ目だった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
星冠選抜戦、いよいよ開幕です。いきなり、セイルの一撃が来ます。
次話(初手完封)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




