第8話
第八話 鉄殻兎
その音の正体は、すぐに、分かった。
灰色の雨の向こうから、それは、跳ねて、現れた。
大きな、兎だった。ただし、全身を、鈍く光る、鉄のような外殻に、覆われている。耳まで、装甲だ。跳ねるたびに、その殻が、こすれ合って、あの、金属の音を、立てていた。
一匹じゃ、なかった。二匹、三匹——奥から、次々と、跳ねてくる。
「鉄殻兎の、群れだ!」
カイラさんが、叫んだ。
「火も剣も、あの殻には、ほとんど効かない! 上位生、前へ! 外棟は、下がってろ!」
上位生たちが、前に、出る。
グレンが、両手に、炎を、ふくらませた。
「邪魔だ、雑魚が!」
轟音。一匹の鉄殻兎が、炎ごと、吹き飛ばされた。外殻は、割れていない。けれど、あれだけの火力で、まるごと壁に叩きつければ——殻の中身が、もたない。
なるほど。火力で、押し切る。上位生の、戦い方だ。
俺たち外棟には、できない、戦い方でも、あった。
混戦に、なった。
上位生たちが、前方の群れと、ぶつかり合う。炎。氷。石の槍。狭い坑道が、光と、音で、埋まっていく。
その、隙間を。
一匹の鉄殻兎が、すり抜けた。
群れから、逸れた、一匹。まっすぐ、こっちへ——俺たち、外棟の方へ、跳ねてくる。
「来る!」
俺は、叫んだ。
リシアが、とっさに、前へ、出た。
「《薄膜》!」
鉄殻兎の正面に、うすい膜が、張られる。
鉄殻兎が、ぶつかった。
——ぱきん。
膜は、訓練場のときと、同じように、割れた。鉄殻兎は、止まらない。リシアの、すぐ脇を、かすめて、通り過ぎ、壁にぶつかって、跳ね返り、また、向き直る。
「リシア!」
ボルクが、動いた。
大きな体で、リシアの前に、立ちふさがる。
「《硬直》」
ボルクの体が、鈍く、硬く、なった。そこへ、鉄殻兎が、突っ込む。
どん、と、重い音。
ボルクは、後ろへ、ずるずると、押された。けれど——倒れなかった。鉄殻兎を、その体で、受け止めて、踏みとどまっている。
「は、はやく……おれ、長くは……もたない……!」
ボルクの足が、震えていた。動きは遅いが、頑丈。その頑丈さで、今、時間を、稼いでくれている。
リシアは、もう一度、膜を張ろうとして——ためらった。割れるのが、分かっているからだ。ニアは、いつでもボルクを下げられるよう、後ろで、身構えている。ユノは、感知に気を取られて、立ちすくんでいた。
上位生は、前方で、手一杯だ。誰も、こっちには、来ない。
——俺たちで、片付けるしか、ない。
でも、どうやって。火も、剣も、効かない相手を。
五人、いる。けれど、この鉄殻兎を、一人で倒せる手は、誰も、持っていない。火力が、ない。それが、外棟だった。一人ひとり、何かは、できる。でも、決定打が、ない。
——なら。
決定打が、ないなら。一人ひとりの「何か」を、つなげば、いいんじゃないか。
考えろ。見ろ。
俺は、ボルクが受け止めている、鉄殻兎を、見た。
鉄の外殻。たしかに、硬い。火を当てても、表面で、跳ね返るだけだろう。
——でも。
鉄殻兎が、もがくたびに。
脚の、付け根。前脚と、胴の、継ぎ目。そこから、ほんの、わずかに。
湯気のような、熱が、漏れていた。
外殻は、熱を、通さない。だから、火を当てても、効かない。でも、その殻にも、動くための、継ぎ目はある。関節だ。そこだけは、装甲が、薄い。そして、そこから、中の熱が、漏れている。
つまり——殻の中身は、外から見えないだけで。ちゃんと、熱に、弱い。
入り口は、関節だ。
「ボルク! そのまま、そいつを、押さえつけてろ!」
「お、おう……!」
ボルクが、渾身の力で、鉄殻兎を、壁際へ、押さえ込む。暴れる動きが、鈍った。
今しか、ない。
俺は、前脚の付け根の、継ぎ目に、熱を、送り込んだ。針の先ほどに、絞った熱を、薄い装甲の、奥へ。
——けど。
温度が、上がらない。
送り込んだそばから、熱が、関節のまわりの、鉄の殻に、吸われ、隙間から、すうっと、逃げていく。鉄殻兎が、もがくたびに、せっかくの熱が、散ってしまう。これじゃ、焼ける前に、冷める。
熱が、逃げてる。
——閉じ込め、なきゃ、駄目だ。
その瞬間、頭に、浮かんだのは。割れる、とばかり言われ続けた、あいつの、膜だった。
「リシア!」
俺は、叫んだ。
「こいつの、前脚の付け根。そのまわりを、お前の膜で、囲え! 攻撃を、防ぐんじゃない。——熱を、外へ逃がさないための、壁だ!」
「熱を……?」
「お前の膜は、何かを、堰き止める力だ。なら、熱だって、堰き止められる! 頼む!」
リシアが、一瞬、目を、見開いた。
それから、唇を、きつく結んで、鉄殻兎の、前脚へ、手を、かざした。
「……《薄膜》!」
鉄殻兎の、前脚の付け根。その、まわりを、ぐるりと、うすい膜が、包んだ。
攻撃を受けるための膜じゃ、ない。熱を、閉じ込めるための、境界だ。
俺は、もう一度、熱を、送り込む。
今度は、逃げなかった。
リシアの膜の、内側で。行き場をなくした熱が、関節の一点に、たまっていく。たまって、たまって、たまって——
——ぎちり。
鉄が、軋む音。
前脚の関節が、内から焼け、こわばって、固まった。
鉄殻兎は、片脚を、引きずるように、どう、と、地面に、崩れ落ちた。もう、跳べない。暴れる力も、残っていない。
「ボルク、もう、いい。離れろ」
ボルクが、その場に、どさりと、座り込んだ。全身、汗だくだ。すかさず、ニアが、その背に、駆け寄る。
俺たちが、肩で、息をして、いる間に。
カイラさんが、静かに、歩み寄った。そして、もう動けない鉄殻兎の、首の継ぎ目へ、短剣を、すっと、差し込む。
鉄殻兎は、それきり、動かなく、なった。
しん、と、した。
灰色の雨だけが、相変わらず、降り続けていた。
「……倒した、の?」
リシアが、自分の手と、転がった鉄殻兎を、見比べていた。
「わたしの、薄膜で……? でも、わたしの膜は、いつも、割れて……」
「お前の膜が、熱を、閉じ込めた」
俺は、息を、整えながら、言った。
「あれが、なかったら。送った熱は、全部、逃げてた。関節は、焼けなかった。——お前の力で、止めたんだ。あの兎を」
リシアは、何も、言わなかった。
ただ、自分の手のひらを、じっと、見つめていた。割れる、役立たず、と、ずっと言われ続けてきた、その手を。少しだけ、違う目で。
カイラさんが、短剣を拭いながら、こっちを、見た。
「外棟が、鉄殻兎を、単独で。——火種と、薄膜で、な」
その声に、笑いは、なかった。記録板を取り出して、何かを、書きつけ始める。
前方の戦いも、終わったらしい。
戻ってきたグレンが、転がった鉄殻兎と、俺たちを、見て。何か、言おうとして——口を、つぐんだ。
「火種」と、言いかけて。言えなかった。そんな、顔だった。
その、とき。
ユノが、奥の暗がりを、また、見ていた。さっきより、ずっと、青い、顔で。
「……まだ、いる。もっと、奥に。さっきの、黒いのが……どんどん、大きく、なってる」
灰色の雨の向こうの、深い闇は。
まだ、何も、答えては、くれなかった。




