第89話 音と影
第89話 音と影
甲高い音が、演習場を端まで走って、壁に当たって、戻ってきた。
一度しか鳴らしていないのに、二度、聞こえた。
的の前に、ノエルが立っている。指を鳴らした形のまま手を止めて、目を閉じていた。
俺は、稽古場からの帰りに、少し遠回りをして、ここへ来ていた。ボルクとラグの仕上がりは、この目で見た。残りの連中がどうなっているかも、見ておきたかった。自分の目では測れないものが、この班にどれだけあるのか。
他の班は、もう引けている。西日が地面を半分だけ橙に染めて、的の影を、長く伸ばしていた。
ノエルの足元に、フィンがしゃがんでいた。細い糸束を提げて、地面近くの留め具から、胸の高さの杭へ、斜めに渡している。左へ、右へ、また左へ。そのあいだに、人ひとりが横向きで通れるだけの道が、細く一本、空いていた。
「レンか」
フィンが顔を上げた。右腕を、無意識みたいに一度さする。包帯は、もうとれている。
「見学だ。邪魔ならどく」
「邪魔ってほどのことは、してないだろ」
「星冠戦の一日目、クラウスは連携を端から潰しに来る。イザークの読みだ」フィンが、糸をもう一本、斜めに渡した。「そのなかに、抜け道を一本だけ、こっちで先に用意しておく」
「一回きりだ」ノエルが、目を閉じたまま言った。「二度目は、もう読まれてる」
ノエルがまた指を鳴らす。壁のどこかで、それが跳ね返った。ノエルの唇が、数えるように小さく動く。
「メイは」
俺が訊くと、フィンが的の脇を指さした。その手が、途中で止まる。
「……いた。さっきまで、そこに」
的の脇には、誰もいない。片方だけの革手袋が、砂の上に落ちているだけだ。持ち主は分からない。
「ここです」
声は、俺たちの二歩うしろからした。振り向くと、メイがしゃがんでいる。膝を抱えて、張ったばかりの糸の列の、こちら側に座っていた。
「動くなら、声かけてくれ」フィンが糸を持つ手を下ろした。「今、張ってる最中だぞ」
「かけました。二回」
メイの声は、責めていなかった。ただ、起きたことを置くだけの言い方だった。フィンが口を開いて、また閉じる。糸を持ち直して、手元に目を落とした。
「もう一回、通します」
メイが立ち上がって、道の手前に戻る。フィンが、最後の一本を張り終えた。
ノエルが、目を開けずに言った。
「フィン、右の一本、内に寄ってる」
「張ったときは、まっすぐだ」
「いまは、寄ってる。道が細くなってる」
フィンが糸の列に目を走らせた。右側の一本が、留め具のところで少しゆるんで、斜めの線ごと、道の内側へ垂れている。張り直すには、両端をほどくしかない。
「……このまま行きます」メイが言った。「本番で、張り直す時間はないので」
メイが道に入る。横向きになって、腰を落とす。左の、膝の高さの糸を、太ももすれすれで越えた。触れれば、鳴る。次が、右の、垂れた一本。道がいちばん細いところだ。体を斜めにして、肩から先に入れる。
その肩が、垂れた糸に触れた。
糸が、鳴った。
低くて、短い音だった。メイが道の途中で固まる。指先が、袖口を握った。
「……抜けてない」
「抜けてない」フィンが、手元の糸の余りを巻いた。「クラウス相手なら、ここで終わりだ」
メイが道の手前に戻る。もう一度、同じところ。垂れた糸の前で、今度は肩から入らず、正面を糸に向けた。横向きだと、伸ばした肩の先が自分でも見えない。正面なら、胸と背中で、いっぺんに幅が測れる。ゆっくり、抜けた。ただ、そのやり方だと、一歩ごとに足を止めることになる。さっきの、倍かかった。
「時間をかければ、当たらない」フィンが言った。「でも、時間はない」
入口のほうから、フィンを呼ぶ声がした。リオネルだ。
「フィン、糸の支給、判子が今日までだぞ。お前が行かないと、通らない」
「……忘れてた」フィンが立ち上がった。「糸は張ったまま置いてく。ノエル、要るなら使え」
フィンが、入口のほうへ歩いていく。その背中が、西日で細く見えた。
残ったのは、俺と、ノエルと、メイだ。
ノエルは、糸にはもう用がないようだった。的に向き直って、目を閉じる。指を鳴らし、舌を鳴らし、短い音を、間隔を変えて、いくつも出す。そのたびに、壁から、的から、隅の砂袋から、跳ね返ってくる音の質が、少しずつ違うのが、俺の耳にも、うっすら分かった。
「何を、やってる」
「声真似は、もとがないと使えない」ノエルは目を閉じたまま答えた。「鳴き声も詠唱も、真似る相手がいなきゃ、ただの音だ。……でも、ただの音でも、返ってはくる。返り方で、そこに何があるか、だいたい分かる」
「壁の向こうもか」
「向こうは、まだ。壁までなら」
ノエルが右のほうへ、鋭い音をひとつ投げた。近くにいた俺の耳の奥で、それが一度、ぐらりと揺れる。足の裏の感覚が、半歩ぶん、遠くなった。俺は的の枠に手をついた。
「わりぃ」ノエルが、こちらを見もせずに言った。「近すぎた。……反動が、出したこっちにも来る」
「カイルの脆化と、同じか」
「みんな、どっかで似てるんだよ。俺たちは」
ノエルは、また目を閉じた。
「メイはどこだ」
俺は、訊いてみた。さっきから、目の端でメイの姿を追っていたはずだった。なのに、今、どこにいるか、すぐに出てこない。糸の列の右か。的の影か。
ノエルは、目を閉じたまま、迷わず左のうしろを指した。
「そこ」
振り返ると、メイがいた。的の影ではない。俺のすぐ左うしろ、三歩と離れていない場所に、膝を抱えて座っていた。
……近い。気づかなかった。
「なんで分かる」俺は、ノエルに訊いた。「目を閉じてるのに」
「返ってくるからだよ。人がいれば、そこだけ、音の戻りが鈍る」
「ユノでも、メイの居場所は一拍遅れる。お前だけ、なんで先に分かる」
ノエルは、少し黙った。それから、目を開けた。
西日は、もう的の上のほうにしか残っていない。
「見てないからだよ」
ノエルは、指先で自分のこめかみを、軽く叩いた。
「見ようとすると、こいつは、目の端からするっと抜ける。追えば追うほど、逃げる。……だから俺は、見ない。音だけ聞く」
メイは、膝を抱えたまま、袖口を、指先で、一度だけ握り直した。それから、ノエルのほうを見て、ぽつりと言った。
「ノエルさんは、上手だから。……隠すの」
ノエルの、指を鳴らそうとしていた手が、止まった。
「……お前もな」
俺が訊こうとすると、メイがこちらを見た。目が合う。
……やめておいた。
ノエルが、こちらに向き直る。
「レン。お前も、やってみるか」
「音を投げるのか」
「投げなくていい。目を閉じて、聞くだけだ。何が返ってくるか」
俺は、目を閉じた。
演習場は、静かだった。遠くで、誰かが砂袋を引きずっている音。ノエルの、笑うともつかない息。自分の、鼓動。
メイの音は、しなかった。
壁も、的も、糸束も、俺の耳のなかでは、位置を持たない。ただ暗いだけだ。
「向いてないよ、お前は」ノエルが言った。
俺は、目を開けた。
ノエルは、こっちを見ていない。指を鳴らして、その返りを聞いて、それから言った。
「声じゃない。響き方だ」
俺は、メイのほうを見た。一瞬、姿が目の端をすり抜けて、それから左のうしろに戻る。膝を抱えて、さっきと同じ場所に。ずっと、そこにいた。
本番、クラウスの前でも、メイはこうやって消える。ノエルの耳は、それを拾う。俺の耳には、まだ、そこだけが空いていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
フィン、ノエル、メイ、三人の特訓回です。
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