第88話 轟雷槍とラグ
第88話 轟雷槍とラグ
大演習場の的壁は、腕をいっぱいに伸ばしても、指先が向こう側へ届かない厚みがある。石を積んで、外側を鉄の帯で締めた、実習で使ういちばん頑丈なやつだ。半年、誰が何を撃ち込んでも、罅ひとつ入らなかった。
その的壁に、いま、握り拳が二つ並んで通るほどの穴が空いている。前の壁も、その裏の壁も、まっすぐ抜けて、向こうの日が見えた。
撃ったのは、星冠第一班の中衛、オスカー・レグナイト。顕現名は《轟雷槍》。少し前まで、この穴はなかった。
俺たちは、演習場の東の端で見ていた。星冠戦を前に、第一班が調整の演習を組む。希望する班には見学を許す、という建前になっている。断れば、こっちは何も知らないまま本番を迎える。外棟からは、俺とリシア、ボルク、ラグ、それにリオネルとイザークが来ていた。ラグは、いちばん端で腕を組んでいる。木剣を持ってきていないのは、こいつだけだ。
的まで、演習場を端から端まで。人の声は、届かない。
オスカーが槍を構えた。穂先に、青白い光が寄っていく。細い線が幾重にも重なって、だんだん太くなる。巻き終わるまで、ゆっくり三つ数えるくらいかかった。近くにいた下級生の一人が、じりっと後ろへ下がる。誰も咎めなかった。
その三つのあいだに、演習場の音が引いていった。観客席の隅で弁当を広げていた誰かが、箸を止める。梁の巣で鳴いていた鳥も、いつのまにか黙っている。奥歯が、いつのまにか合わさっていた。外そうとして、うまく外れない。
四つ目で、光が槍を離れた。
音は、遅れて来た。壁に穴が空くのを見てから、腹の底に届く。空気が一度、内側へ吸い込まれて、それから太い棒で突かれたような音になった。地面が、足の裏で一度、跳ねる。前の壁が貫かれ、裏の壁まで抜かれて、いちばん奥に積んだ土嚢が破裂する。裂けた麻袋が、宙で一度ねじれてから落ちた。しばらくして、砕けた砂が、細かい霧になって、こちらへ流れてくる。舌の先で、それが、ざらついた。
誰も、拍手はしなかった。第一班は、これが当たり前だという顔をしている。的の裏へ、係の下級生が二人、駆けていった。一人が壁に近づきすぎて、縁の熱に触れたらしく、跳ねるように手を引っ込める。連れが、肩を揺らしていた。オスカーは、穂先の焦げを指で払っている。
「……これを、拠点で受けるのか」
隣で、ボルクが言った。俺に訊いたわけではなさそうだった。
リオネルは、帳面から顔を上げないまま答えた。
「初撃で来る。ミレーユは、こっちが拠点に固まった瞬間を狙う。第一撃で戦意を折るのが、あの班のやり方だ。……剛体化で、倒れずに正面から受けられるのは、ボルク、お前だけだ」
否定の言葉は、出てこなかった。イザークも、何も言わない。
ボルクは、しばらく、穴を見ていた。それから、壁の厚みと、自分の腕を、交互に見比べる。腕のほうが、細い。当たり前だった。腰の帯を、一度、締め直す。踵で、地面を二度、踏んだ。硬さを確かめる癖だ。右手を握って、開く。握った指が、開くとき、途中で一度、つかえた。
「わかった」
言ったのは、それだけだ。
「無理はするな、とは言わない」
俺がそう言うと、ボルクは少し考えて、首を横に振った。
「無理をしないと、受けられない。……だから、いい」
それきり、二人とも黙った。ボルクの片足が、いつのまにか前に出て、壁のほうを向いている。腿の裏に、力が入っていた。壁を正面に置いた、受けの立ち方だ。本番まで、まだ何日もあるのに。
少し離れたところで、イザークが盛大にくしゃみをした。誰かが「うるさい」と小声で言う。ボルクは、それにも気づかず、同じ姿勢で穴を見ていた。
係が的を組み直した。貫かれた二枚を、下に噛ませた丸太で転がして横へ逃がし、控えの二枚を、梃子を何本も噛ませて、少しずつ起こしている。片方の下級生は、まだ的の脇で、地面の焦げ跡を紐で測っていた。
オスカーが、また光を巻きはじめる。
今度は、穂先じゃなく、少し横を見た。ラグだ。腕を組んで、演習を見ている。名簿のいちばん下のあたりに、入学以来ずっと名前が居座っている男。さっきの一発のとき、こいつが何をしていたか。たしか、首の後ろを掻いていた。それだけだ。俺は轟雷のほうを見ていた。
巻きが、一つ、二つと進んだところで、ガレスが的の脇へ目をやった。まだ下級生が残っている。何か短く叫んだ。腕を振る動きは見えたが、声は届かない。下級生は、紐から顔も上げなかった。
三つ目。
四つ目の、光が離れる、その一拍前。
ラグの上体が、前のめりに、いちど傾いて、すぐ戻った。組んだ腕は、ほどけていない。足も、動いていない。上半身だけが、前へ引き出されて、また戻る。本人は、それに気づいていないようだった。
光が、走る。
撃ち出された最初の一瞬、穂先に集まっていた熱が、こちら側へ引かれた。ラグの、立っているほうへ。ほんの、指の先で弾いたくらいの動き。引かれて、すぐ戻る。だが轟雷はもう、穂先を離れていた。
穂先で、爪の幅ひとつ。向こうの端では、鉄帯ひと巻きぶん、左へ寄る。
一発目の穴と、新しい壁の継ぎ目の、あいだ。そこに、紐を持った下級生がしゃがんでいた。
轟雷は、そのすぐ横の壁を、前後まっすぐに抜いた。衝撃で、下級生が尻から地面に落ちる。埃と、焦げた紐の切れ端が、宙に舞った。
下級生は、しばらく動かなかった。それから立ち上がって、尻の土を、必要以上に長く払っていた。連れが駆け寄って、背中を叩く。
オスカーは、小さく舌打ちをして、槍を下ろす。狙いが甘かった、という顔だ。ミレーユが帳面に何か書き足して、次の項目へ移った。それ以上、第一班の誰も、気にしていない。
あの、熱が横へ引かれる感じ。前にも、似たものを見た気がする。下級生が二人、手のひらに光を灯そうとして、片方の玉が、灯る寸前に一瞬だけ遅れた、あのときだ。あのときも、引かれた先に、たしかラグがいた。……いや。あのときも本当にそう感じたのか、いま思い出しながら足しているのか、自分でも怪しくなってきた。
俺は、ラグを見た。ラグは、まだ的の穴のほうを見ている。こちらには気づいていない。
係が立てた壁の、まだ乾いていない継ぎ目を、しばらく見ていた。
結局、何も言わなかった。言えば、いつか確かめられる。確かめられたら、こいつは名簿のいちばん下には、もう居られない。……それを、こいつが望んでいるのかどうかは、俺には分からなかった。
演習が終わり、第一班が引き上げていく。外棟の連中も、拠点の話をしながら散っていった。イザークがリオネルの帳面を覗き込んで、穴の寸法と、要る壁の厚みを、低い声で詰めている。リシアは、割れた土嚢の布きれを一枚拾い、裏返して、また落とした。何も言わずに戻っていく。
ラグは、動かなかった。
俺も、なんとなく、その場に残った。ボルクも、荷物をまとめかけた手を止めて、そこにいる。ラグのペアは、ボルクだ。稽古場の木剣掛けの、いちばん端の一本は、握りの革が擦り切れて、下の木が見えている。
ラグが、焦げた穴を、しばらく見ていた。それから、自分の右の手のひらに目を落とす。開いて、閉じて、また開く。指の腹を、親指で、ゆっくりなぞった。
「……ボルク」
「ん」
ラグは、手のひらから目を上げないまま、しばらく黙っていた。言うべき言葉を、手さぐりで組み立てているようだった。
「今、少しだけ、乱せる気がした」
ボルクは、返事をしなかった。しばらくしてから、荷物を担ぎ直しながら、こう言った。
「明日も、付き合う」
二人が、先に歩き出す。俺は、まだ動かなかった。奥歯は、朝からずっと、合わさったままだ。外そうとしても、外れなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
星冠第一班の火力を見学します。名簿の一番下にいる男に、小さな変化が。
次話(音と影)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




