第86話 幕間 流れた手の内
第86話 幕間 流れた手の内
試合の日でもないのに、評定席に評定長がいた。
ダリオ・メルツは、飾り旗の束を抱えたまま、観客席のいちばん上の段で足を止めた。星冠選抜戦の設営で、可動式の屋根をいちど全開にして、滑車の点検をしている。その滑車に、色ちがいの旗を順に吊っていくのが、今日ダリオに割り当てられた仕事だった。三つ星以上の生徒には、大会の運営を手伝う義務がある。名誉ある雑用、と誰かが言っていたのを、まだ覚えている。
最上段の反対側では、同じ三つ星のヴァイクが、脚立に乗って横断幕の端を留めていた。下から別の生徒が「もう少し右」と声をかけ、ヴァイクが「うるさい、自分で来い」と返す。風のない日で、下の音が、そのまま石の壁を伝って上がってくる。横断幕は、片側が斜めに垂れたままになった。
旗を一本かけるたびに、滑車が錆びた音を鳴らす。手すりまで届く風はないのに、旗の裾だけが、ときどき勝手に持ち上がった。屋根を開け放したせいで、天井近くの空気の流れが変わったらしい。
下級生が一人、折り畳み椅子の山を運びかけて、通路の途中でぶちまけた。金属の脚が、階段を跳ねながら、いくつも下へ落ちていく。連れの下級生がひとつ舌打ちをして、二人がかりで拾いに行く。ダリオは、それを横目に見ながら、旗の束を抱え直した。抱えてみると、思ったより重い。
もう一度、底を見下ろす。評定席のいちばん端に、ヴェルナー・ハーグが座っている。この高さで見分けられるのは、腕の動きくらいだ。ハーグの右腕が、膝の上で、同じ往復をくり返している。書類の角でも揃えているのだろう。その斜め後ろには、書類挟みを胸に抱えたまま、じっと立っている男が一人。評定補佐らしかった。
ハーグの向かいに、三人目が立っている。背筋の伸びた立ち方で、遠目にもすぐ分かった。エリオ・アルヴェイン。三つ星の上位、四つ星の候補。腕は組まず、片手に帳面を提げて、まっすぐ前を向いている。あの家の人間は、人を待つあいだも姿勢を崩さない。
旗竿の角度を直すふりをして、手すりの側へ寄る。声は、最上段まではまともに届かない。椅子の脚がまだ階段のどこかで鳴っていたし、ヴァイクと下の生徒も、まだ小さく言い合っている。その隙間を縫うようにして、単語だけが、途切れながら上がってきた。
――予選。順番。継ぎ目。熱。初日。
予選なら、ダリオも見ている。番外の班が、初めて連携を最後まで通しきった試合だ。あの日は客席の上のほうで、へえ、と間の抜けた声を漏らしていた。感知が探って、糸が繋いで、それから、受けが一拍――いや、受けが先だったか。笑いながら見ていたから、順番までは覚えていない。それでも、あの連携に継ぎ目があることだけは、見ていて分かった。「熱」というのは、たぶん、最後に通すあの火種のことだろう。
エリオは、その継ぎ目を帳面にして持ってきたらしかった。頁をめくる音がして、数字と、右、左、という方向の呼び方が、切れ切れに届く。誰がどこで動くか、という話をしているのは、断片だけでも分かった。
鐘が鳴った。
開始を告げる鐘を、下で試しに鳴らしたのだ。一つ、長く間延びした音。ダリオの肩が跳ねて、抱えていた旗の束が、腕から半分ずり落ちた。竿の一本が手すりを打って、高い音を立てる。
「おい、上。気をつけろよ」
ヴァイクが脚立の上から怒鳴った。ダリオは旗を抱え直し、なんでもない顔をつくって、竿を戻す。
その一拍だけ、評定席のハーグが顔を上げて、こちらの段のほうを見た。目は合わない。合うような距離ではない。ハーグは、すぐにまた書類へ視線を落とした。ダリオは、竿の先を手すりから離した。離してから、離す必要がなかったことに気づく。
場内が、また静かになる。その静けさに乗って、次の一続きが、はっきり上がってきた。
「……従妹のことは、関係ありません」
誰も、そんなことは訊いていなかった。ハーグは頁をめくる手も止めず、何も言い返さない。
従妹。ダリオは、旗竿を握り直した。あの境界役のことだ。同じ家で、同じ道場で、結界を教わって育ったはずの。
……誰も、そんなこと訊いてないだろ。
補佐の男が、横から手を伸ばして、帳面を受け取る。写しを取るのだろう。エリオが差し出してから、それが相手の手に渡るまで、間はなかった。後ろ暗いものを手放す手つきではない。ハーグに一礼して、通路の奥へ歩いていく。急ぐでも、振り返るでもない、来たときと同じ歩き方だった。
最後にもう一度、エリオが顔を上げた。何か短く言ったらしく、肩の線が一度だけ動く。声は、もう上がってこない。補佐がうなずいて、帳面を書類挟みのあいだに落とし込んだ。表紙が、一度だけ光を返す。通路の入口では、荷を抱えた下級生とすれ違いざま、エリオが半歩よけて道を空けた。ふだんどおりの、行儀のいい動きだった。
ダリオは、受け持ちのぶんを吊り終えるまで、その場を動かなかった。旗袋の布を、指で一枚ずつ手のひらから剥がした。手の形が、布に残っている。星位ランキング戦のとき、ダリオが立っていたのも、だいたい同じあたりだった。
あのときは、客席のいちばん前の列。番外の班が舞台に上がってきたとき、ダリオは声を張り上げて笑った。よく通る声を、わざと選んで。火種と薄膜の寄せ集めだ、と。隣の男は、笑いながら、指の先で番外の班をひとりずつ数えていた。数えて、鼻で笑う。それだけの余興だった。
三連戦のあと、その声は出なくなった。最終日、あの寄せ集めが格上の班をあと一人まで運んで、客席の音が引いたとき、ダリオも黙っていた。手すりを握っていた手が、力の入れどころをなくして、しばらくそのまま残っていた。
あのとき隣で笑っていた男は、いまは四つ星だ。廊下ですれ違っても、こちらを見ない。ダリオを名前で呼ぶ生徒も、もうほとんどいなくなった。呼ぶとしても、たいていは「メルツさん、これどこ」で終わる。
鐘が、もう一度鳴らされた。二度目も、半拍ずれている。しばらくのあいだ、その鳴らし直しだけが、開いた屋根の下に響いていた。脚立の上では、ヴァイクが、手のひらのまめを気にして、何度も指を曲げ伸ばししていた。
手すりから、もう一度だけ評定席を見下ろす。ハーグは書類に戻っている。向かいには、動かした跡の残った椅子が一脚あるだけだった。何も起きなかったように、闘技場の底は静かだ。次にあそこで戦う十二人は、たぶん今日のことを知らないまま、作戦を立てるのだろう。何日もかけて、自分たちに引ける、いちばん良い形を。
あの班が、ここで沈めば。格上の第一班に、手も足も出ずに。そうなれば、あの日客席で言ったことも、少しはまともに聞こえる。
そこから先は、考えなかった。旗竿を手すりに立てかける。角度が悪くて、一度ずり落ちた。立てかけ直した。もう一度、ずり落ちた。
「メルツさん、この脚、どこに戻せばいいすか」
下級生の一人が、拾い集めた椅子の脚を抱えて、息を切らして立っている。あの三連戦のことを知らない下級生だ。
「知るか。器具庫だろ」
下級生は、少し待ってから、「はい」とだけ言って、階段を下りていった。行きも帰りも、椅子の脚を一本、拾いそびれている。
ダリオは、最後の一本を滑車にかけてから、空になった旗袋を、小さく畳んだ。
「今度は、俺じゃないんだな」
誰にともなく、そう呟いた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
幕間回です。星冠選抜戦の準備の裏で、評定長の周りに、少し不穏な気配が動きます。
次話(外棟の作戦会議)もよろしければお付き合いください。感想やブックマークをいただけると励みになります。




