第85話
「あなたは、何を見て治しているのですか?」
ニアは、少し考えてから答えた。
「まだ、戻りたがっているかどうか、です」
エレノアは何も返さない。ただ小さく頷いて、隊列へ戻っていく。控えの紙を抱えた背中が、来た時より、心もち丸まって見えた。ニアは、それを見送るでもなく、いつもの位置に座り直した。
フィンが、俺の肩を小突いた。
「今のやり取り、聞いてました?」
「聞いてた」
「あれで通じ合ったつもりなんですかね」
「さあな」
「投げやりですね」
エレノアは、ニアの答えを控えの紙に書かなかった。書く欄がなかったのか、書く気がなかったのか、そこまでは見ていない。俺は水筒の栓を閉めた。
短い休憩を挟んで、哨戒は再開された。日はもうだいぶ傾いている。今日中に終わらせる、とミレーユが告げた。狙いは、群れが湧き続けている境界の薄い場所――その奥まで、踏み込むことだった。
二度目の負傷者は、誰も望んでいない。今度は慎重に、とミレーユは繰り返した。
ボルクが、腕を回して肩慣らしをしている。緊張しているように見えないのが、かえって落ち着かなかった。誰かが張り詰めていれば、こちらもつられて構えられる。全員がそろって気を抜いていると、逆に、身の置きどころがない。
ミレーユが、図面に三本の線を引いた。
「三方向に分かれる。ボルクはガレスと。ユノは私に。フィンはクラウスと」
異論を挟む間もなかった。俺は、フィンの組に回された。見張り、というだけの役だ。ニアとエレノアは合流地点に残る。セイルとオスカーは、ミレーユの組の前を進むらしい。
分かれ道の手前で、いくつもの影が壁の上で一度だけ重なって、また離れた。少し先を、ボルクとガレスが並んで歩いていく。反対の道へ、ユノがミレーユの後ろについていく。角を曲がると、もう、互いの姿は見えなくなった。
俺たちは、三番目の道に入った。フィンが先、クラウスが真ん中、俺がその後ろだ。
深く進むほど、空気が重くなる。低層にはなかった圧が、肌に張りついてくる。護り石がここにないことは、何度も思い知らされたはずなのに、この息苦しさにだけは、まだ慣れない。
クラウスは、その重さをまるで気にしていない。崩れかけた足場の縁を、平地を行くのと変わらない歩幅で渡っていく。片手で干し肉を齧りながら、だ。落ちたら下がどうなるかを、こいつはたぶん、一度も想像したことがない。俺は、その半分の速さで、壁づたいに渡った。
天井の低い区画で、フィンの軽口も少なくなった。半分崩れた通路の先で、縄を出す。右腕の包帯はまだ真新しく、縄を送り出す指が、一度だけ、もたついた。
「せっかくだし、俺のやり方で――」
「その結び方は、封鎖線には向かない」
クラウスが、遮った。
「じゃあ、どうすんだよ」
「見ていろ」
フィンの手が、縄の上で止まった。
「……じゃあ、この腕、なんのためにあるんだよ」
誰にともなく言って、言ってから、しまった、という顔をする。クラウスは何も返さない。沈黙が続いてから、フィンが付け足した。
「……まあ、封鎖線はあんたの領分だ。好きにしてくれ」
急に聞き分けよく振る舞うのが、かえって居心地を悪くした。縄を腰の袋へ押し込むフィンの手つきが、さっきより雑になる。俺は、咎めもフォローもせず、前へ目を戻した。
クラウスの指先から、見えない線が何本も伸びていく。膝より上に、通路が端から塞がれていくのが、空気の変化で分かる。前へ進もうとすると、胸のあたりで、手のひらに押し返されるような抵抗にぶつかった。線が張られるたび、通路の埃が、一拍遅れて折れる。折れる位置は、毎回そろっていた。ただ、その分、こちらの足も止まる。
その埃が、奥の一点だけ、内側へ引かれて乱れた。ほんの一瞬のことで、すぐに元の流れへ戻る。
「奥で、何か動いてる」
俺がそう言っても、クラウスは線を送る手を止めなかった。
「水音だ。ここは反響する」
断言だった。俺の見張りより、こいつの耳の方が、この場所には慣れている。それもそうか、と引き下がった。埃の乱れのことは、言いそびれた。
奥で、鈍い音がした。低くて、長い。さっきの水音とは、違う。
俺は壁際に身を寄せた。だが、崩れる気配はどこにもなくて、代わりに、何かが奥へ走り去る震えが、床を伝ってきた。
「逃げられたな」
クラウスが、こちらを見ずに言った。水音だ、という自分の読みは、そのままにした。
「追えるか」
「無理だ。この線を全部解くには、時間がかかりすぎる」
訊いてもいないのに、クラウスはそう答えた。言葉とは裏腹に、その指は、もう動きはじめている。焦っていないわけでは、なさそうだった。
自分の張った線が、自分の足を止めていた。前へ出ようにも、通路は端から塞がれている。フィンの手の中で、丸めかけた縄が、ほどけて足元に落ちた。拾う気配はなかった。
膝の高さより下、線の張られていない隙間を、低い影が一つ、擦り抜けていった。抜けざま、クラウスの線を一本、引っかけて持っていく。跳ね返った線が、クラウスの手を打った。影は、松明の光が届く手前で、それきりだ。形も、大きさも、像を結ばないまま消えた。
クラウスが線を緩めた隙に、俺は前へ出た。しゃがんで土に触れると、指に、まだ熱が残っている。引きずった跡は、俺が影を見たのとは逆――手前から奥へ伸びていた。水音では、この向きは説明がつかない。言おうとして、やめた。
クラウスは、残りの線を手繰り戻していく。同じ一本を、二度張り直しては、また解く。急いではいない。ただ、手が止まらないだけだ。フィンは、その手元を黙って見ている。正体を見ないまま、哨戒は打ち切りになった。
撤収の道で、星冠側の誰かが漏らすのが聞こえた。
「やっぱり、素人と組むと、こうなる」
誰に向けた声かは、分からない。並んで歩くフィンとクラウスの間隔だけが、行きよりも、指一本分ほど開いている。
セイルが、追いついてきた。
「別に、気にするな、とは言わない」
「言われても、気にする」
「知ってる」
「慰めが下手ですね」
「よく言われる」
少し間があって、セイルが続けた。
「俺が一年のとき、初めての合同任務で、崩れた床を踏み抜いた。片脚だけ穴に残して、みっともなく喚いた。助けに来なかった上級生と、今は――」
前の方から、セイルを呼ぶ声がした。呼んでいるのは、たぶん、その「上級生」の一人だ。
「……呼ばれた。じゃあな」
セイルは、前の一団に戻っていく。追い越しざまに一度だけ、フィンの右腕の包帯へ目をやったのが、横から見えた。
帰り道、俺はボルクに訊いた。
「ガレスと、何を話してた」
「別に。……握り飯、半分くれた。塩が効きすぎてた」
訊いたことの答えにはなっていない。少し歩いてから、ボルクが、前を向いたまま言った。
「あいつら、最初から俺たちを数に入れてない。何をやっても、たぶん、変わらない」
誰も、返さなかった。
ユノの控えの紙には、几帳面な字で一行、書き足されていた。「分かれ道は、風の弱い方が本道」。ミレーユの助言らしい。
「境界の薄い場所、あれ、偶然じゃないと思います」
「偶然じゃないなら、何だ」
「湧く間隔が、毎回そろってるんです。鐘ふたつ分。今日も、三回とも。こんなの、誰かが……何かが、そうしてるってことじゃないですか。勝手にそろうわけが……すみません、今のは、忘れてください」
言い切ってから、自分の声が思ったより大きかったことに気づいて、ユノは口を閉じた。その隣で、ニアは遠くの空を見ている。
「マルクには」
「もう書きました。さっき、全部」
紙には、今日見た違和感が、一つ残らず並んでいた。字はどれも小さく、几帳面だ。誰に頼まれたわけでもない。
フィンが、隣で縄をきつく巻き直している。何度目かで右手が遅れて痛んだらしく、口の端が引きつった。それでも、指の力は緩まない。何度も巻き直しては、また解き、結び直す。止める者は、いなかった。
訓練棟に着く頃には、日はほとんど落ちていた。誰の影も輪郭だけになる。ボルクの片方の靴底が、歩くたびに、小さく軋んでいた。
水筒の栓は、開いたままだった。
ミレーユが、丸めた図面で肩を叩きながら、俺たちの脇を通り過ぎる。足を止めないまま、その声だけが、後ろに置いていかれた。
「外棟班は不安定です。無視できない、ではなく——危うい」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
合同任務の後編は、勝ち負けのつかない、噛み合わないままの一日になりました。取りこぼした「何か」と、レンだけが気づいたことは、しばらく胸に置いたまま進みます。
次回は少し視点を変えてお届けします。面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




